石田庄
いわたのしよう
鎌倉期から南北朝期に存在した庄園。「和名抄」にみえる八上郡石田郷が庄園化したものと考えられ、開発の進展によって石田本庄・石田新庄の区別が生じたらしい。「荘園志料」「因幡民談記」などによると、庄域は千代川と八東川の合流点を中心とした河原町北東部、郡家町石田百井・米岡、船岡町破岩、鳥取市円通寺付近と推定される。
文永三年(一二六六)一二月一五日の尼善智譲状(高野山文書)に「因幡国石田本庄」とみえる。これによると庄内の給田一町(国定一〇石)が善智の近親者と思われる御局の遺骨を安置・供養する浄心房(澄円)に譲られている。永仁四年(一二九六)八月一八日の澄円寄進状(同文書)によると、比丘尼善智は領家職として「石田庄」を管領しており、京都・奈良辺りの有力者であったと考えられ、あるいは久我家の一族かとも思われるが不詳。文永六年一〇月、善智は当庄内の別納の給田七町の譲渡配分を決めており、三町は山城観勝寺(現京都市左京区)の上人(大円房良胤)、三町は尼明浄房にそれぞれ永代譲渡、残りの一町は前記の浄心房一期分であった。
石田庄
いわたのしよう
所在地未詳の庄園。もと皇室領、のち九条家領。岩田庄とも書く。所在地については大野郡の石太郷(現揖斐郡大野町に比定)と同一視して大野郡内とする説もあるが、石太は「いそほ」と読むのに、石田は「岩田」「いはた」と中世の史料にみえ、明らかに名前が異なる。「岐阜県史」も、当庄を各務郡岩田の地においてみることができはしないかと考えるが、今は後考をまつほかないとしている。治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書、以下同文書は省略)に「みの うたのちよくし よひ いはた」とある。
石田庄
いわたのしよう
櫟原庄から分離した藤原氏の氏院勧学院領荘園で、現上富田町の富田川と岡川の合流点付近岩田を中心とする地域と考えられる。「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月二二日条に「氏院庄櫟原石田」とある。嘉元三年(一三〇五)とされる摂渡庄目録(九条家文書)によれば、氏院領石田庄は田九町二六〇歩で、この頃までには分立していたとみられ、添書に「光世、但辞退之、同前櫟原庄也」とある。鎌倉時代は櫟原庄と同じく、関東進止地であったことが知られる。
石田庄
いしだのしよう
近衛家領。建長五年(一二五三)一〇月の近衛家所領目録(近衛家文書)の「年貢寄神社仏寺所」のうちに「丹波国石田庄」として「以年貢寄進吉田社 本庄浄有法印 新庄医師季康朝臣」とみえ、新庄も成立しそれぞれ預所が定められている。年貢を寄進されている吉田社(現京都市左京区)が領家の立場にあった。その後吉田社領になったものと思われ、応安四年(一三七一)稲岡某に押領された時には、幕府は丹波守護山名氏清をして石田庄を吉田社に還付させている(吉田家日次記)。
石田庄
いしだのしよう
伊勢原市石田一帯に広がる。観応二年(一三五一)一二月六日の足利直義御教書(県史三)には鎌倉円覚寺正続院領の「石田荘内津奥村田畠在家」に対する近隣の地頭御家人の濫妨を停止し、寺家に知行させよと命じられている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報