石田村(読み)いしだむら

日本歴史地名大系 「石田村」の解説

石田村
いしだむら

[現在地名]石田町石田東触いしだひがしふれ石田西触いしだにしふれ本村触ほんむらふれ南触みなみふれなど

現石田町域の中央部に位置し、西は池田いけだ村、東は筒城つつき村。南部は入江に恵まれ、壱岐八浦の一つ印通寺いんどうじ浦となっている。同浦は当村内でありながら平戸藩浦掛の支配で、史料上も在方とは別の扱いである場合が多い。同浦の南手に枝郷の妻之つまの島があり、天然の防波堤となっている。弥生時代中期を中心とする遺構の検出で知られる原の辻はるのつじ遺跡では農耕とともに漁業関連の遺物も出土し、またなにより船入の遺構が確認されたことは、当時から対馬や九州島との海上交通の要所であったことを示している。その地勢上の役割は一〇世紀にも変わらず、令制下の優通ゆうず(延喜式)は当地に比定され、壱岐水道を渡海してきた船舶が当地の浦に着岸し、それより陸路をとったものであろう。こうした点も含めて、壱岐二郡の一つ石田郡の郡名を継承することから同郡の中心であったことが知られ、地内のノ宮大明神を「延喜式」神名帳に記される石田郡一二座の一つ「国津クニツノ神社」に比定する説がある。


石田村
いしだむら

[現在地名]黒部市石田・おか

片貝かたかい川の河口右岸にあり、黒瀬くろせ川が村の中央を流れ、富山湾に注ぐ。北東は堀切ほりきり村。地名の由来はもと布施ふせ郷の一部に属し、犬山いぬやま付近にあり一千有余の戸数があったが、嘉暦年間(一三二六―二九)片貝川の大洪水のため全村の良田が荒廃して石田と化したことによるという。冷泉為広の「越後下向日記」延徳三年(一四九一)三月一六日条に「磯ハタ石田里」とみえる。「遊行二十四祖御修行記」によれば、永正一七年(一五二〇)四月時宗遊行派の古跡不外が魚津を立って海路越後に向かい、「石田と云浦に報土寺の末寺有、過し乱にあひて道場はかり屋にて侍るとて、寺の本尊を浜へ出し奉りて、御十念を申しさたする」とある。当時石田に放生津ほうじようづ(現新湊市)報土ほうど寺の末寺があったこと、しかし永正一六年の越後勢侵入によってこの道場は焼失し、仮屋住まいであったことがわかる。永禄一二年(一五六九)八月二三日の上杉輝虎書状(大河原辰次郎所蔵文書)によれば、上杉輝虎(謙信)の越中進攻は、二〇日にさかい川を越えて所々に放火し、二一日に石田に人馬を休ませ、二二日には椎名氏の拠る金山かなやま(現魚津市)を攻撃したと記される。


石田村
いしだむら

[現在地名]伏見区石田〈内里うちさと町・大受おおうけ町・大山おおやま町・川向かわむかい桜木さくらぎ西にしつぼ森西もりにし森東もりひがし町・森南もりみなみ町〉

日野ひの村の西北、木幡こはた(現宇治市)の北、六地蔵ろくじぞう(現宇治市)の東に位置する。集落の中央を近江から山科やましな宇治うじ・南山城を経て大和へ向かう奈良街道が走り、北東部に日野川、西北に山科川が流れる。

地名の由来は、山科川から流出する砂礫の堆積地からくるとする説、石の田(固い田)より転訛したとする説、出雲氏系の氏族石田君一族の居住地より由来したとする説等があるが明らかでない。古代には、石田は「いわた」とよばれている。

山城国山科郷古図にみえる里名のうち、下石田里・上石田里・布豆田里が村域内に比定される。


石田村
いしたむら

[現在地名]上三川町石田

川左岸の低地と台地に位置し、西から順に田川・川・赤沢あかさ川・無名瀬むなせ川が南流する。北はいそ新田、東谷とうや(現宇都宮市)。天正年間(一五七三―九二)頃の諍論由意鈔(愛知県春日井市密蔵院蔵)に「宇都宮下郷上三川境石田感応寺」とみえる。

近世初めより宇都宮藩領。慶安郷帳では田高六八三石余・畑高三一六石余。嘉永三年(一八五〇)幕府領と宇都宮藩領の二給となる(「真岡代官引継申送書」大塚彦一文書)。天保年間(一八三〇―四四)の家数三一(改革組合村)雀宮すずめのみや宿(現宇都宮市)の助郷を勤め、享保元年(一七一六)の助郷高九六七石(「雀宮宿助郷帳」県立図書館蔵)


石田村
いしだむら

[現在地名]羽島市下中町石田しもなかちよういしだ

市之枝いちのえだ村の南に位置する桑原くわばら輪中内の村で、東は木曾川で限られる。中世には長岡ながおか庄内石田郷(のち大須庄内石田郷)として推移した。延応元年(一二三九)高橋秋助が長岡庄河東石田郷の郷司職に補任され、その後、弘長二年(一二六二)に高橋明重、永仁五年(一二九七)に「ちよまつ」、正和二年(一三一三)に高橋氏女、建武三年(一三三六)に藤原基氏が同職に補任されている(延応元年一〇月二〇日「石田郷郷司職補任下文」・建武三年一〇月一五日「石田郷郷司職補任下文」毛利文書など)。この間の元亨四年(一三二四)には「長岡庄河東石田郷下切常荒新田新畠名」の名主職が預所左衛門尉信直によって開発を請負った名主たちに宛行われている(同年三月日「石田郷内名主職充行状」同文書)


石田村
いしだむら

[現在地名]新城市石田

幽玄ゆうげん川を境として新城町の西南に接し、豊川右岸に沿う低位段丘上に立地。

天文元年(一五三二)田峯だみね菅沼氏の菅沼定継が上平井の大谷かみひらいのおおや城から移って当村の東部幽玄川の西に新城しんじよう、別名新城古城しんしろこじようを築いた。定継は間もなく田峯(現北設楽郡設楽町)に帰って弟定氏がこれを守った。永禄四年(一五六一)野田のだ城を陥れた小原鎮実らの今川勢は勢いにのって新城を攻めたが、定氏は奮戦して守り抜いた。翌五年、今川勢は菅沼定盈に奪い返された野田城を攻めて失敗し、代りに再び新城を襲った。


石田村
いしだむら

[現在地名]伊勢原市石田・高森台たかもりだい一―三丁目

大住おおすみ郡北東端部に位置する台地上にあり、東はたま川を境として上落合かみおちあい(現厚木市)、北は愛甲あいこう郡愛甲村(現厚木市)、西は高森たかもり村、南は下落合しもおちあい村・見付島みつけじま村に接する。大山道・平塚宿ひらつかじゆく道が通る。「和名抄」の大住郡石田郷に比定される。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)一月二〇日条に近江国粟津辺りで木曾義仲を討ったとある相模国住人石田次郎は当地出身とされている(風土記稿)


石田村
いしだむら

[現在地名]西川町睦合むつあい

寒河江さがえ川左岸に近い沖積地に位置し、東は熊野ゆうの村、西は柳沢やなぎさわ村。川岸に立地するため、しばしば洪水の被害を受けた。熊野村と近く、文書類の扱いは両村が一緒に行うことが多かった。中世には北寒河江庄熱塩あつしお郷とよばれ、白岩大江家領であった。最上氏領から元和八年(一六二二)酒井忠重領となり、寛永一五年(一六三八)幕府領、安政三年(一八五六)以降松前藩領。元和八年の高二二三石余(西村山郡史)正保郷帳では田方二〇九石余・畑方一四石余。寛文一三年(一六七三)には高二五七石余で百姓一二戸(「検地帳」睦合史料綴)


石田村
いしだむら

[現在地名]小倉南区石田町・石田南いしだみなみ一―三丁目・上石田かみいしだ一―四丁目・下石田しもいしだ一―三丁目・石田・山手やまて一―三丁目・星和台せいわだい一二丁目・守恒もりつね五丁目・企救丘きくがおか一―二丁目・葉山町はやまちよう一丁目・同三丁目・八重洲町やえすまち南若園町みなみわかぞのまち横代北町よこしろきたまち一丁目・同五丁目・隠蓑かくれみの志井公園しいこうえん志井しい六丁目

蜷田になた村の南、ぬき山系の北麓に位置する。東部を石田川が流れる。古代に一帯は磯であったという(企救郡誌)。中世は石田郷などとみえる。元和八年人畜改帳に石田村とあり、御蔵納分高七三三石余、給人四人分の高二九五石の二筆で、家数九八、人数二〇五(うち百姓一一・名子一九・山伏三)、牛二五・馬一一。


石田村
いしだむら

[現在地名]千歳村石田

大迫おおさこ村の西、あかね川北岸にある。南は新殿にいどの村。明応九年(一五〇〇)一〇月二三日の栄成打渡状(沓掛文書)にみえる井田いだ長峰ながみね名の内の「五郎丸屋敷」は当村の五郎丸ごろうまるに比定される。このとき沓懸美作守(之武)に打渡された五郎丸屋敷の坪付は田六段一六〇歩、貫数八貫分、定納一貫七一六文の地で、以後文亀二年(一五〇二)には「なかしやうの畠」「大迫かしら」「へんさし屋敷」などの隠田が見付かり、沓懸美作へと渡された(同年四月一九日「井田郷長峰名五郎丸隠田注文案」同文書)


石田村
いしだむら

[現在地名]守山市石田町

赤野井あかのい村の東、野洲やす川左岸の扇状地の中央部に位置。東は守山村下之郷しものごう。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「千弐百四拾六石四斗八升 石田村」とみえる。慶長七年(一六〇二)の検地帳(石田共有文書)では七二町余・一千二二一石余、うち田は六九町余・一千一九〇石余、畑は二町余・三〇石余。高のうち一二九石余が旗本山本領、六八一石余が上野前橋藩領、四一〇石余が旗本雀部領。正保郷帳も高・相給高ともに変わらず、それぞれ幕府領・前橋藩領・雀部領。慶安高辻帳によれば田一千一八八石余・畑二九石余、永荒三石余。


石田村
いしだむら

[現在地名]鯖江市石田上いしだかみ町・石田中いしだなか町・石田下いしだしも

日野川の西岸に位置し、中世は石田庄の地。嘉応元年(一一六九)一一月日付権大僧都顕―解案(東大寺文書)大蔵おおくら庄の四至を記して「北限石田庄堺」とある。その後の経緯は明らかでないが、室町時代には京都の東寺領となっていたらしい(福井県史)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高二三八〇・四一三石とある。正保郷帳で上下の二村に分れ、上石田村は田方八一四石余・畠方一九六石余、下石田村は田方一千二二八石余・畠方一四〇石余。


石田村
いしだむら

[現在地名]北淡町石田

長畠ながばたけ村の西、常隆寺じようりゆうじ山系北の山裾の谷間にあり、南東および北から西へ丘陵が続く。北の机浜つくえはま村へは急坂を下る。富島としま川支流鳴見なるみ川が北西流する。永正一六年(一五一九)八月三日、あわちや兵衛大夫満近が曾禰又三郎に売却した淡路国「つくへ七村」の伊勢道者株のなかに、「いした 一ゑん」とみえる(「道者売券」来田文書)


石田村
いしだむら

[現在地名]朝来町石田

現朝来町域の北部、北流する円山まるやま川の右岸に位置し、北は伊由市場いゆういちば村、南は多々良木たたらぎ村。治水工事(江戸時代か)が行われる以前、円山川は当地付近で蛇行し、一帯は荒地・石原であったと考えられる。地名はこのことに由来し、ほかにも元石田もといしだ山波さんなみ中野なかのなど開拓にちなむ小字名が多い。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高四〇九石余、宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高四二七石余。


石田村
いしだむら

[現在地名]霊山町石田

霊山の西麓に位置。西の山戸田やまとだ村から当村を経て宇多うだ玉野たまの(現相馬市)に至る中村街道が石田川に沿って通り、霊山南側から行方なめかた草野くさの(現飯舘村)を経て原町はらのまち(現原町市)に至る街道の分岐点は行合いきあい道と称される。ほとんどが山地で、集落の多くは谷間や山中にあった。伊達朝宗の四男為家が当地に住し、石田を名乗ったといい(伊達世臣家譜)、石田文書考(霊山町史)によれば、弘安二年(一二七九)当時、石田次郎入道明円後家が存在したことが知られる。戦国期には懸田氏領に含まれたと推定され、天文七年(一五三八)の段銭古帳に記載はない。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高六九七石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ一分、家数八五(役家三二、肝煎・小走二、諸職人・山伏・脇家五一)、人数三一九、役木として桑、楮・紅花各少しがある。


石田村
いしだむら

[現在地名]宇佐市石田

四日市村の東に位置し、東は辛島からしま村、北は葛原くずわら村。四日市村境、瓦塚かわらづかでは法隆寺系忍冬唐草文軒平瓦が多数出土した。同所一帯は周辺より一―二メートル高く、近年の発掘調査で溝・土壙・柱穴などを確認、また軒先瓦・硯・土器碗や銅製の飾金具なども出土し、宇佐郡衙跡とみる説もある。明徳二年(一三九一)二月一八日の沙弥勝宗田畠譲状案(辛島文書)によると、勝宗が次男太郎次郎漆島守親に譲渡した地に辛島・葛原郷時成ときなり今藤いまふじ名内「一所二段石田用作坪一所立石一段本ママ卅代安光名内自菊丸請返畢」、同郷安光やすみつ名内「一所一反廿石田中依」などがあった。


石田村
いしだむら

[現在地名]会見町田住たずみ

諸木もろぎ村の南東、小松谷こまつだに川中流右岸の谷間、越敷野こしきのの西麓に位置する。拝領高は二七三石余、本免は四ツ四歩。藪役銀一匁五分が課せられ(藩史)、米子組士栗木氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三〇八石余、竈数三八。「伯耆志」では家数三九・人数一六〇、林二五町七反余。享保九年(一七二四)荻名おぎな村分領大谷おおたに山の入会をめぐって寺内てらうち村など一一ヵ村と争った星川谷一〇ヵ村の一で、文政二年(一八一九)には当村と他の二三ヵ村との間で草刈争論となり、当村から判鎌五枚で春八十八夜から八月一日まで草刈することで内済した(以上「在方諸事控」)


石田村
いしだむら

[現在地名]長浜市石田町

堀部ほりべ村の南、南北の丘陵から西に延びる丘陵麓に集落を形成。豊臣秀吉の五奉行の一人、石田三成の出身地とされる。中世においては山室やまむろ保として推移し、郡名未詳で登場する石田郷は、当地のこととも考えられる(守山市の→石田郷。天正三年(一五七五)羽柴秀吉は、昨年の不作のため当年の年貢半租と田地開墾を命じている(三月三日「羽柴秀吉書状」清水文書)。同一九年四月の御蔵入目録(林文書)にみえる長岡ながおか(現坂田郡山東町)のうち石田村五三二石は当地のことか。


石田村
いしだむら

[現在地名]日野市石田、国立くにたち市石田など

多摩川・あさ川の合流点に位置する村。新井あらい村の東にあり、浅川を挟んで南側にも村域が広がる。天文(一五三二―五五)頃に原図が作成されたとみられる高幡高麗一族屋敷・下地等絵図(史籍雑纂)に浅川の北岸、「新井之屋敷」(新井村)の東隣に「石田屋敷」とみえる。北条氏所領役帳によれば円城寺某が「多東郡石田」の一〇貫文の地を与えられていた。


石田村
いしだむら

[現在地名]寒川町石田東いしだひがし石田西いしだにし

寒川郡の中央部に位置し、津田つだ川や鴨部かべ川の本流・支流が貫流して肥沃な平野を形成している。旧南海道とみられる長尾ながお街道が北部を東西に横断、原始時代の遺跡や古代寺院跡・式内社があり、古くから開けた地であった。古代の寒川郡石田郷(和名抄)の地で、康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)によれば同郷は富田とみだ庄の西に接し、その境は「石田郷内東寄艮角西船木河并石崎南大路南泉畔」であった。南大路は南海道のことであろう。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の讃岐国内の公領を書上げた部分に「石田郷定氏卿」とみえる。


石田村
いしだむら

[現在地名]川越市石田

府川ふかわ村の南東、入間いるま川右岸の低地に立地。北方石田本郷いしだほんごう村と谷中やなか村の間に一一町余の飛地があった(郡村誌)。小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富嶋某の所領のうちとして「河越筋石田」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施されたという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三五六石余・畑高一一一石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高四六九石余、反別田三四町七反余・畑一三町九反余、ほかに開発分高二七石余(反別田二町余・畑八反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高四四六石余・外高二三石余、名主二名。


石田村
いしだむら

[現在地名]静岡市石田一―三丁目・中田なかだ四丁目・登呂とろ二―三丁目・同五丁目・南八幡町みなみやはたちよう

上島かみじま村の東に位置する(天保国絵図)。戦国期は石田郷と称された。寛永九年(一六三二)幕府領、寛文四年(一六六四)久能山東照宮領となったとみられ(「徳川家綱領知判物」久能山東照宮文書など)、変化なく幕末に至る。元禄郷帳に高五三四石余とあるが、天保郷帳では高三六〇石余。旧高旧領取調帳では東照宮領三五六石余、悪王神社除地一石余・牧牛ぼくぎゆう寺除地三石余。東照宮の御飾納人足八人および御煤払人足・御松立御掃除人足を勤め、蕗・蓬・菖蒲・御菓子柿などを負担(「御山年中証記」久能山東照宮文書、「駿府広益」)


石田村
いしだむら

[現在地名]福野町石田

たび川左岸に位置し、同川に支流大門だいもん川が合流する地点にある。南は田屋たや村。元和五年(一六一九)の家高新帳では役家数九。正保郷帳では高四九五石余、田方三二町三反余・畑方七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五一七石、免五ツ五歩、小物成は山役五六匁(三箇国高物成帳)。元禄五年(一六九二)の検地引高五六石などにより天保一〇年(一八三九)の高四七〇石(「高物成帳」菊池家文書)。所属組は八塚やつづか村と同じ。延宝四年(一六七六)には役家数二二(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)


石田村
いしだむら

[現在地名]玄海町大字石田

仮屋かりや湾北部の入江に面する村。村の大半が丘陵地で、石田川があるが水量に乏しい。沖合の仏崎ほとけざき島・ふじ島・島は樹木が茂り景観がよい。字ツカの海岸沿いにコウゴクがある。

有浦家文書の康永元年(一三四二)一一月七日の源(佐志)勤から子女姫寿への譲状に「石田海夫助次郎一類値賀村内田地屋敷任浄覚譲状可知行」とある石田はこの村である。


石田村
いしだむら

[現在地名]久住町仏原ほとけのはる 石田

洲崎すさき村の北東、いち川右岸に位置。郷帳類には村名がみえず、元禄見稲簿に市村のうち石田村とみえ、市村に含まれていたと思われる。旧高旧領取調帳では高三五九石余。岡藩領時代仏原組に属し、当村には小庄屋が置かれた(安永七年大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。文化八年(一八一一)百姓一揆の際小庄屋善兵衛宅が打毀された(岡藩領百姓騒動見聞記)。岡藩の豪農百撰中八位に宇兵衛、三六位に小庄屋右源太、五九位に長左衛門、九二位に金左衛門がみえる(「農家百人撰」北村文庫)


石田村
いしだむら

[現在地名]仁賀保町田抓たつかみ 石田

白雪しらゆき川中流の低地のほぼ中央に位置し、北は田抓村、東は馬場ばば村、南は立井地たていち村・三日市みつかいち村、西は百目木どめき村に接する。

由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に仁賀保郷の一村として村名がある。支配の変遷は平沢ひらさわ村と同じで、寛永元年(一六二四)仁賀保氏の分知に際し内膳誠政(二千石家)領となった。


石田村
いしだむら

[現在地名]佐和田町石田

真野まの湾に注ぐ石田川中流に展開する。南は八幡やはた町・中原なかはら村・河原田かわはらだ町、西は青野あおの村、北は二宮にくう村、東は市野沢いちのさわ村・上長木かみながき村・下長木村。石田郷の遺称地。「佐渡故実略記」に伝える慶長九年(一六〇四)の「御代官所目録・河原田城付」では分米高二一〇石一斗余。元禄七年(一六九四)の検地帳(石田区有)では、田二三町七反余、うち上々田が一五町で、石盛も二〇あり、良田地帯である。


石田村
いしだむら

[現在地名]阪南町石田

自然田じねんだ村の北西にあり、南は桑畑くわばた村に接する。村の南西部は山地で北東部に平地が広がる。ほぼ中央を尾崎おざき村から紀州に向かう井関いせき峠越の道が通る。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ高四六四石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では九一七石余。延享元年(一七四四)和泉国村高記では七九五石余となり以後大幅な変化はない。


石田村
いしたむら

[現在地名]明野町東石田ひがしいした

桜川右岸の台地上にあり、北は倉持くらもち村。常陸大掾平国香の本拠地で、天慶の乱では平将門軍に襲われて国香は敗死、「将門記」に「其ノ四日ヲ以テ、野本・石田・大串・取木等ノ宅ヨリ始メテ、与力ノ人々ノ小宅ニ至ルマデ、皆悉ク焼キ巡ル」と記される。

江戸時代は天領・旗本領で、寛文一一年(一六七一)に深谷忠兵衛の検地があり(上野村誌)、元禄六年(一六九三)の常陸国真壁郡石田村田畑小物成帳(中島家文書)には、村高七八四・九六三石、反別八八町二反七畝一八歩とある。


石田村
いしだむら

[現在地名]立田村石田

東は宮地みやじ村、西は遠く後江ひつえ村に面する鵜戸うど川沿いの村。富安とみやす輪中の一村として古くからの村。「徇行記」によれば、概高七三九石余は一円蔵入地。田は三三町三反四畝余、畑は一五町六反九畝余。貞治五年(一三六六)の開墾とされ、「寛文覚書」に戸数七四、人数三六九とある。「徇行記」に「西ノ方ニ鵜戸川アリ、其ホトリハ頽畠多ク皆真菰生ナリ、其外田面卑湿ノ地ナレハ堀田多シ、是ヲ又畔田トモイヘリ、水腐ノ地ヲホリテ土ヲアケ畔ヲ高クシテ種ルユエ畔田ト唱ヘ来レリ、畔ヲ村人クネト訓ス、又此辺ハ恒ニたまりみつ タヽヘシ故、江通ニ高ク橋ヲカケ、其下ヲ航自由ニ往来セリ」とし、一向宗東派の玉泉ぎよくせん寺を記す。


石田村
いしだむら

[現在地名]東予市石田

周桑しゆうそう平野の中山なかやま川の左岸の低地の村落。西は周敷しゆうふ村と吉田よしだ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「石田村 芝原有」と村名がみえ、高八八〇石四斗五升二合とある。西条藩領。

天保一三年(一八四二)の「西条誌」によると、石田村は東西一五町半、南北およそ七町の区域で、家数一一一、人数およそ五〇五とある。当村には用水が一二ヵ所あり、そのうち瓢箪ひようたん池が最も大きいが、旱魃時には水が減り、水車や撥釣瓶で農民が灌水に苦労すると記されている。


石田村
いしだむら

[現在地名]雄和町石田

雄物川の右岸にあり、北は平沢ひらさわ村に接する。村名の初見は天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)で、「参百弐石弐升九合 たからか村 石田村」とある。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)のうち御代官所之帳には「一、百八拾弐石三升 豊嶋庄之内石田村」とある。

元禄期(一六八八―一七〇四)までは妙法村に含まれており、享保一四年(一七二九)の河辺郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)によれば、宝永期(一七〇四―一一)には石田妙法村と称されたが、享保年間に妙法村・石田村となる。


石田村
いしだむら

[現在地名]榛原町大字石田

伊那佐いなさ山西南麓、芳野ほうの川東方に位置。宇太水分神社古図に「石田」を記す。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「石田郷開田八反」とみえ、嘉元三年(一三〇五)の僧簾円水田処分状(沢氏古文書)には「宇陀郡ヌルヘの里下石田」とある。慶長郷帳の村高二五一・〇八石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)幕府領に編入。元禄検地により村高二四四・三七一石。

弘化二年(一八四五)の石田村明細帳(石田の笹岡家文書)によれば水田のうち五町余は「用水掛リ候ヘ共天気之節ハ川水無数候故旱損仕候、洪水之節者水損仕候、水損第一場所ニ御座候」、八町余は「天水場ニて御座候故、天気之節者旱損第一場所ニ御座候、雨ふり之節ハくさり青立可成候」とあり、立地上恵まれない耕地状況にあった。


石田村
いしだむら

[現在地名]立山町石田

常願寺川中流右岸、利田りた村の北東に位置。利田村安和良あわらから四町一四間(三州測量図籍)。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四〇石、免三ツ五歩、小物成は鮎川役一匁、鮭役三匁(出来)・鱒役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


石田村
いしたむら

[現在地名]下館市西石田にしいした

小貝こかい川右岸に位置し、北は野田のだ村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)と寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に村高六六〇・二三四石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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