日本歴史地名大系 「石神社」の解説 石神社いしづちじんじや 愛媛県:西条市西田分石神社[現在地名]西条市西田国鉄予讃本線石鎚山(いしづちやま)駅の南方一キロの高台に鎮座する。祭神は石土毘古神。旧県社。本社のほか、石鎚山中腹常住(じようじゆう)にある成就(じようじゆ)社(一四二〇メートル)、山頂に頂上社(一九八二メートル)があり、この三社を総称して石鎚神社という。一般に本社を口之宮とよんでいる。例祭は七月一日から一〇日までで、智・仁・勇を象徴する三体の神像を六月三〇日に神輿で本社から中之宮の成就社に移し、翌早朝の開門を合図に、さらに頂上社に移す。これを「お山開き」と称し、非常な賑いを呈する。大祭中は、四国はもちろん、中国・九州、遠く北海道方面からも、白衣をまとった数万の信者が集まる。 石神社いしじんじや 広島県:比婆郡東城町塩原村石神社[現在地名]東城町塩原内堀(うつぼり)川に沿って開けた平地のほぼ中央部、八面名(やつおもてみよう)の小高い丘の上に鎮座する。塩原(しおはら)の産土社で、もと石神(いしがみ)大明神とも称した。祭神は猿田彦大神。旧村社。鎮座年代は不詳。「国郡志下調書出帳」や「芸藩通志」によれば、神体は高さ一丈一尺・横一丈一尺の巨石で、年々長大になるという。前記書出帳は「石神明神ハ多飯山の峰より飛下り給ひ、此石高年々ふとらせ給ふよし申伝、今の社地より少し北にあたり纔なる平地有、下(を)り神と称し、彼峰より此所へ飛下り給ひ、其後今の社地江移らせ給ふよし、然共旧記あるひは証跡等も無之事故、唯今よりの申伝ニ御座候」と記す。 石神社いしじんじや 三重県:員弁郡藤原町石川村石神社[現在地名]藤原町石川石川(いしかわ)の北、下野尻(しものじり)集落との境にある。祭神誉田別命ら一一柱で旧村社。江戸時代は八幡宮として石川村・東禅寺(とうぜんじ)村両村の氏神であった。慶応三年(一八六七)に再建されている。また明治四四年(一九一一)一〇月石川村内の神祠を合祀した。「延喜式」神名帳員弁郡一〇座の一に比定される(神名帳再考証、北勢古志、神祇志料)。しかし式内石神社の比定については諸説あり、「五鈴遺響」は度会延経の「神名帳考証」を引いて飯倉(いぐら)村(現北勢町飯倉)説をとる。 石神社いしじんじや 広島県:神石郡油木町新免村石神社[現在地名]油木町新免虎伏(とらふせ)山にあり、祭神石凝姥命、神体は約三メートル角の巨石で、その上に本殿が建つ。旧村社。仁寿元年(八五一)大和国石上(いそのかみ)神宮(現奈良県天理市)の分霊を勧請したと伝え、採鉄・採銅などに関係する神社として崇敬されたと考えられる。神石郡内には同じく石上神宮を勧請したと伝える明見(みようけん)神社(現三和町亀石)があるが、宝亀五年(七七四)三月一二日付の勘籍(正倉院文書)に「備後国神石郡志麻郷戸主物部水海戸口物部多能」とみえ、古代神石郡に石上神宮と関係の深い物部氏一族が住していたことが知られる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by