日本大百科全書(ニッポニカ) 「禅譲・放伐」の意味・わかりやすい解説
禅譲・放伐
ぜんじょうほうばつ
中国における天子ないしは王朝の交代に認められる二つの方式。禅譲は、有徳の者を選び出して天子の位を譲る平和的交代の方式であって、堯(ぎょう)から舜(しゅん)、舜から禹(う)への交代が理想とされる。「禅」も「ゆずる」の意。放伐は『孟子(もうし)』の「湯(とう)は桀(けつ)を放ち、武王は紂(ちゅう)を伐うつ」に基づき、殷(いん)の湯王が夏(か)の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐してそれぞれ新しい王朝を始めたように、暴力による交代の方式である。放伐は『孟子』などが是認するところであって、天命の帰趨(きすう)による正当づけがなされたが、周の武王に反対して首陽山(しゅようざん)に隠れた伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の話にもみられるように、禅譲に比べて評判が悪く、そのため殷の湯王も夏の桀王の譲りを受けたのだとする異説さえ生まれた。また漢の景帝は、轅固生(えんこせい)と黄生(こうせい)の2人が放伐についての議論を始めたとき、口にすべきではない問題として中止させている。
こうして、実際は放伐によらざるをえない王朝の交代が、禅譲の美名によって行われるに至った。堯、舜、禹の禅譲を真禅譲あるいは内禅とよぶのに対して、仮(か)禅譲あるいは外禅とよぶ禅譲の方式である。その最初の例をつくったのは前漢(ぜんかん)王朝を奪った王莽(おうもう)であるが、その後、魏(ぎ)が後漢(ごかん)にかわり、晋(しん)が魏にかわってから南北朝を経て隋(ずい)、唐、五代に及び、最後に宋(そう)の太祖が後周(こうしゅう)の恭帝から譲りを受けるに至るまで、3世紀から10世紀の間に十数回にわたって繰り返された王朝の交代は、すべてこの方式に従った。すなわち、禅譲の先触れとして、天子から次期王朝の創業者となるべき実力者に「九錫(きゅうしゃく)」とよばれる9種の栄典が授与される。引き続いて位を譲る意志を示す詔が下されるが、それを丁重に固辞し、このようなやりとりが三度繰り返されたうえでようやく即位するという形式を踏むのが常であった。そしてその間、取り巻きたちからは即位を勧める勧進表が奉られ、また各地方からは太平の世の到来を告げるさまざまの祥瑞(しょうずい)の出現が報告された。
唐の劉知幾(りゅうちき)は、実際の歴史上に繰り返された禅譲が欺瞞(ぎまん)に満ちたものであることから類推して、堯、舜、禹の禅譲についてもそのようなものが行われたはずがないと疑っている(『史通』疑古篇(へん))。しかし、いかに欺瞞に満ちたものであったとはいえ、王朝の交代が禅譲の形式を借りて行わなければならなかったところに、為政者に徳望が要求された中国社会の一つの時代の特色を認めるべきであろう。
[吉川忠夫]