福勝寺(読み)ふくしようじ

日本歴史地名大系 「福勝寺」の解説

福勝寺
ふくしようじ

[現在地名]長浜市大戌亥町

笠置山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。湖北十ヵ寺の一つ。寺伝によれば、行基の開基で法相宗に属し、弘長年間(一二六一―六四)輪宗が親鸞に帰依し、真宗に改宗したという。蓮如が留錫し、その故をもって文明六年(一四七四)親鸞・蓮如連座絵像を下付されたという。准如様御筆御影御賛御裏書(龍谷大学蔵)と題して巻子装された一通に「右賛者蓮如上人之真影書之、下坂福勝寺与之、後上人之時雖免之、依錯乱紛失之間、今書与之、天十四」とあり、蓮如より蓮如絵像を下付されていたと思われる。「本福寺由来記」には「文明九年ニ御坊ヲ新在家ニ二間三間ノクツヤニ造立アル御坊也(中略)北郡福勝寺ノ堂百貫トアルヲ七十貫ニ買テ新在家ノ御坊ニ立申」とみえる。


福勝寺
ふくしようじ

[現在地名]下津町橘本

加茂かも川北岸の山麓にある。岩屋山金剛寿院と号し、高野山真言宗。本尊千手観音。加茂組寺社書上(下津町史)によると大同年中(八〇六―八一〇)空海の開基と伝え、本尊千手観音は空海作という。本堂は現存する寛文二年(一六六二)の棟札に「福勝寺千手堂国主命以葺繕且擁護六社之内大神宮弁財天社同修之」とあるが、様式上室町時代中期を下らない時期のものとされ、国指定重要文化財


福勝寺
ふくしようじ

[現在地名]上京区七番町

出水でみず通に南面する。竹林山と号し、真言宗善通寺派。本尊薬師如来。「坊目誌」では、空海が河内国古市ふるいちなか(現大阪府羽曳野市)に創建したと記す。正嘉年中(一二五七―五九)山城醍醐寺の僧覚済があぶら小路五条坊門ごじようぼうもん(現京都市下京区)へ移し、その後も度々移転し、宝永五年(一七〇八)の焼亡後、現在地に移った。後陽成天皇勅願所とされ、後西天皇は左近の桜を当寺に分栽、以後桜寺とも称するようになった。また豊臣秀吉武運長久を願って千成瓢箪を寄進したことから、瓢寺あるいは瓢箪寺ともよばれるようになったという。江戸時代の朱印寺領は四石(京都御役所向大概覚書)。本尊薬師如来は峰の薬師と称し、もと洛西みねの堂(現京都市西京区にあった法華山寺)に安置していたのを元弘の乱の際に移したという(坊目誌)


福勝寺
ふくしようじ

[現在地名]播磨町古田三丁目

播磨町の北西部にある。江戸時代は古向こむかい集落の西端に位置した。万年山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。もとは摂津国川辺かわべ六瀬むつせ(現猪名川町)にあり、景福けいふく寺と号した。同寺は天正(一五七三―九二)の初期、外護者平尾一族の没落により寺門が衰退したので、一一世大桂が同一三年阿閇あえ庄古向の古城跡に移した。阿閇庄は真言宗の盛んな地域であったが、庄内の一〇余の堂庵に随徒を派遣して禅寺に改め、教化の拠点とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「福勝寺」の解説

福勝寺

和歌山県海南市にある高野山真言宗の寺院。山号は岩屋山、院号は金剛寿院。本堂、祈祷所である求聞持堂は国の重要文化財に指定されている。

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