改訂新版 世界大百科事典 「科田法」の意味・わかりやすい解説
科田法 (かでんほう)
朝鮮,李朝初期に行われた土地制度。高麗末期には賜給田,口分田の増加により,貴族の大土地支配が拡大して土地制度(田柴科)が崩壊し,受田不能となった官僚層などに不満が高まっていた。李成桂(李朝の太祖)ら新興官僚は,この不満を背景に,量田事業で全国の土地を掌握し,1390年に公私の田籍を焼却したうえで,91年,科田法を施行した。この改革は,畿内の土地は第1科150結から第18科10結(結は面積の単位。結負制)まで18等級に分けた文武官僚などを中心に再配分して収租権を与え,畿外の私田はすべて国家の収租地である公田とするものであった。また畿内には功臣田,畿外には軍田がおかれた。土地(私田)を没収された高麗王室・王室支持派は没落し,李王朝の成立基盤が形成された。しかしこの改革が対象としたのは官僚の私田であり,全国すべての土地を整理できたわけではなく,また科田も事実上世襲化された。こうして科田法施行後も大土地支配は拡大したし,増加する官僚群に支給する科田も不足をきたした。このような矛盾から科田法は崩壊し,1466年,実職のある官吏だけに受田を限定する職田法に移行した。科田法は収租権レベルでの改革であり,土地の所有・経営にまで及ぶものではなく,権力者の農庄拡大をくいとめられなかったし,自営農にも変化を与えなかった。だがこの改革で農庄内の土地所有関係が整理され,佃戸の耕作権が保証されて地主・小作関係が固められた。
執筆者:吉田 光男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報