デジタル大辞泉
「竹下登」の意味・読み・例文・類語
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竹下 登
タケシタ ノボル
- 肩書
- 元・衆院議員(自民党),第74代首相
- 生年月日
- 大正13年2月26日
- 出生地
- 島根県飯石郡掛合村(現・掛合町)
- 学歴
- 早稲田大学商学部〔昭和22年〕卒
- 経歴
- 造り酒屋の長男として生まれ、学徒動員で陸軍飛行隊に入隊、少尉で終戦を迎える。のち学校教員、自民党島根県連青年団長、島根県議を経て、昭和33年衆院議員に当選。連続当選14回。この間、36年自民党青年局長、38年通産政務次官、39年内閣官房副長官、46年第3次佐藤内閣官房長官、49年第2次田中内閣官房長官、51年三木内閣建設相、53年衆院予算委員長、54年第2次大平内閣蔵相、56年党幹事長代理を歴任。57年11月の第1次中曽根内閣発足から、60年12月の第2次中曽根第2回改造内閣に至るまで、蔵相を4期連続務めた。60年先進5ケ国蔵相会議で“プラザ合意”に加わる。政界復帰が危ぶまれている田中元首相の間隙を縫って、同年に創政会を旗上げ、62年7月には二階堂進、小沢辰雄らと袂をわかち、113人を率いて竹下派を結成、11月第1次竹下内閣を発足。首相在任中は税制改革に取り組み、平成元年消費税を導入したほか、全国の市町村に一律1億円を交付する“ふるさと創生”事業を実施し話題を呼んだ。また昭和天皇の逝去で元号を“平成”に改めた。しかし、昭和63年の“リクルート事件”をきっかけに政治不信が広がり、平成元年6月に退陣した。3年党最高顧問。退陣後は自らを“平成の語り部”と称し、最大派閥・竹下派のオーナー、小渕派の創設者として以後の内閣への影響力を保持した。
- 受賞
- レジオン・ド・ヌール・グラン・ド・フィシエ勲章
- 趣味
- 麻雀 ゴルフ
- 没年月日
- 平成12年6月19日
- 家族
- 弟=竹下 亘(衆院議員) 孫=影木 栄貴(漫画家)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
竹下登
たけしたのぼる
(1924―2000)
政治家。島根県生まれ。1947年(昭和22)早稲田(わせだ)大学を卒業し、島根県の中学校教師となる。青年団活動で政治基盤を築き、1951年島根県議会議員、1958年自民党衆議院議員となり、1971年第三次佐藤栄作内閣の官房長官で初入閣、得意な「根回し、気配り」で政策調整、国会対策に活躍。1974年田中角栄(たなかかくえい)内閣で内閣官房長官、1978年大平正芳(おおひらまさよし)内閣の大蔵大臣、1982年中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣で大蔵大臣などを歴任した。1985年田中派から独立して創政会を旗上げ、1986年創政会を解散、自民党幹事長となり、1987年竹下派「経世会」を結成し、自民党最大派閥となって党を支配、同年第12代自民党総裁、第74代、46人目の首相に就任。ふるさと創生を目標に掲げたが、消費税導入による不人気、リクルート事件の疑惑で退陣した。のち宇野宗佑(うのそうすけ)、海部俊樹(かいふとしき)、宮沢喜一各政権づくりで影響力を発揮したが、1992年(平成4)には竹下派が小渕(おぶち)派と羽田(はた)派に分裂し影響力は大きく低下した。2000年政界を引退。
[伊藤 悟]
『竹下登著『証言 保守政権』(1991・読売新聞社)』▽『竹下登著『政治とは何か――竹下登回顧録』(2001・講談社)』▽『岩瀬達哉著『われ万死に値す――ドキュメント竹下登』(新潮文庫)』
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竹下 登
タケシタ ノボル
昭和・平成期の政治家 元・衆院議員(自民党);元・首相。
- 生年
- 大正13(1924)年2月26日
- 没年
- 平成12(2000)年6月19日
- 出生地
- 島根県飯石郡掛合村(現・掛合町)
- 学歴〔年〕
- 早稲田大学商学部〔昭和22年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- レジオン・ド・ヌール・グラン・ド・フィシエ勲章
- 経歴
- 造り酒屋の長男として生まれ、学徒動員で陸軍飛行隊に入隊、少尉で終戦を迎える。のち学校教員、自民党島根県連青年団長、島根県議を経て、昭和33年衆院議員に当選。連続当選14回。この間、36年自民党青年局長、38年通産政務次官、39年内閣官房副長官、46年第3次佐藤内閣官房長官、49年第2次田中内閣官房長官、51年三木内閣建設相、53年衆院予算委員長、54年第2次大平内閣蔵相、56年党幹事長代理を歴任。57年11月の第1次中曽根内閣発足から、60年12月の第2次中曽根第2回改造内閣に至るまで、蔵相を4期連続務めた。60年先進5ケ国蔵相会議で“プラザ合意”に加わる。政界復帰が危ぶまれている田中元首相の間隙を縫って、同年に創政会を旗上げ、62年7月には二階堂進、小沢辰雄らと袂をわかち、113人を率いて竹下派を結成、11月第1次竹下内閣を発足。首相在任中は税制改革に取り組み、平成元年消費税を導入したほか、全国の市町村に一律1億円を交付する“ふるさと創生”事業を実施し話題を呼んだ。また昭和天皇の逝去で元号を“平成”に改めた。しかし、昭和63年の“リクルート事件”をきっかけに政治不信が広がり、平成元年6月に退陣した。3年党最高顧問。退陣後は自らを“平成の語り部”と称し、最大派閥・竹下派のオーナー、小渕派の創設者として以後の内閣への影響力を保持した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
竹下登【たけしたのぼる】
政治家。島根県出身。早稲田大学卒業。島根県議を経て,1958年自由民主党から衆議院議員に当選。1971年に内閣官房長官として初入閣,以後,建設相,蔵相などを歴任。田中派に属していたが,1985年2月〈創政会〉(竹下派)を結成,田中角栄元首相と袂(たもと)を分かつ。1986年党幹事長に就任,1987年7月竹下派〈経世会〉を結成,国会議員113名の自民党最大派閥となる。同年10月中曾根康弘首相の指名により党大会で総裁に選出され,11月首相。自論の〈ふるさと創生〉を推進しようとしたが,1989年4月,リクルート疑惑(リクルート事件)をきっかけとする政治不信の責任をとって退陣を表明。同6月に内閣総辞職。→竹下登内閣
→関連項目宇野宗佑|宇野宗佑内閣|中曾根康弘内閣
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竹下登
たけしたのぼる
[生]1924.2.26. 島根
[没]2000.6.19. 東京
政治家。 1947年早稲田大学卒業。中学教員を経て,1951年島根県議会議員。 1958年衆議院議員。以後連続当選 13回。その間,自由民主党青年局長,官房長官,建設大臣,党幹事長代理を歴任後,第1次・第2次中曽根康弘内閣の大蔵大臣。 1985年田中角栄元首相の反対を押し切って創政会を結成。田中派の衆参両議員 113人を結集して竹下派のリーダーとなり,1986年党幹事長に就任。安倍晋太郎,宮沢喜一らと党後継総裁を争い,1987年 10月中曽根首相より総裁の指名を受け,同年 11月第 74代内閣総理大臣に就任。消費税導入と税制改革をはかったが,1989年6月リクルート事件にからむ疑惑で辞任。退陣後は党内最大派閥のリーダーとして宇野内閣と海部内閣の誕生に政治的影響力をもったが,1992年東京佐川急便事件が原因で竹下派は分裂した。 2000年5月,病気を理由に政界からの引退を表明,6月に死去。
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竹下登 たけした-のぼる
1924-2000 昭和後期-平成時代の政治家。
大正13年2月26日生まれ。島根県議をへて,昭和33年衆議院議員(当選14回,自民党)。佐藤派,のち田中派に属す。49年第2次田中内閣の官房長官。のち三木内閣の建設相をはじめ,蔵相,党幹事長などを歴任。60年竹下派をつくり,62年首相。63年消費税を導入。平成元年リクルート事件で辞任した。退陣後も歴代の自民党政権誕生に影響力をもった。平成12年6月19日死去。76歳。島根県出身。早大卒。
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竹下 登 (たけした のぼる)
生年月日:1924年2月26日
昭和時代;平成時代の政治家。衆議院議員;首相
2000年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の竹下登の言及
【リクルート事件】より
… 国会での追及と検察当局の捜査の結果によれば,未公開株を贈られた政治家は自民党13名,民社党2名,社会党・公明党各1名であった。このなかには中曾根康弘内閣の閣僚4名,官房副長官がおり,贈与を受けた宮沢喜一蔵相は辞任(1988年12月),竹下登首相も辞任に追い込まれ,同内閣は崩壊(1989年6月),中曾根は自民党籍を離脱した(1989年5月)。また元官房長官藤波孝生,公明党議員池田克也が受託収賄罪で,自民党議員安倍晋太郎,宮沢,加藤六月の各秘書が政治資金規正法違反で,NTT代表取締役真藤恒,文部次官高石邦男,労働次官加藤孝らが収賄罪で起訴され,真藤,加藤の有罪が確定している。…
※「竹下登」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」