〈かんやがみ〉ともいう。古代の中央の官営製紙所である紙屋院ですいた紙をいう。紙屋院が嵯峨の野宮(ののみや)の東方に設けられたのは,平城天皇の大同年間(806-810)であった。それ以前の官営製紙所の正式名称は不明であるが,一般には紙屋と呼ばれていた。紙屋や紙屋紙の名称は《正倉院文書》にも現れてくるが,最も盛んに用いられたのは,平安時代の女流文学の宮廷生活の描写においてであった。はじめ紙屋院では,檀紙(だんし)のようなコウゾ(楮)の生漉紙(きずきがみ)をすいていたが,しだいに打曇や飛雲のようなすき模様紙や染め紙など飾りをほどこした技巧的な紙を中心にすくようになり,大量に使われる公用紙(多くは楮紙)は地方産の紙にまかせるようになったと思われる。すき模様紙の技術には,いったん染めた紙をたたいて繊維に戻し,模様にすき返す技術が含まれていた。貴族社会の没落で保護者のなくなった紙屋院は,都会に大量に出る反故(ほご)紙を原料として,再び紙に再生するすき返しの紙(宿紙ともいう)をすくようになった。すき返し紙は繊維が傷んでいるので弱く,また墨書きの色が脱色できないので薄黒く,むらのある粗紙になりやすい。そこで薄墨紙(うすずみがみ)とか,水雲紙(すいうんし)とか呼ばれた。本来は高級な紙をすいて,日本の製紙の指導機関であった紙屋院の紙屋紙が,粗悪なすき返しの紙の代名詞であるかのように理解されるほどになった。
執筆者:柳橋 真
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紙屋院(かみやいん)で漉(す)き出された和紙。もとは図書寮紙屋院(ずしょりょうしおくいん)で漉かれた紙を示し、728年(神亀5)の『正倉院文書』に初出するが、平安時代の嵯峨(さが)天皇の大同(だいどう)年間(806~810)に京都の野宮(ののみや)の東方へ紙屋院が拡充設立されてからは、そこで漉かれる上質な紙の一般名となった。中国から輸入された唐紙(からかみ)をしのぐ優秀な、麗しい、ふくよかな紙として、上流貴族の間でもてはやされた。王朝文学のなかにしばしばその賛辞がみられる。紙屋紙の声価はおよそ4世紀近く続くが、平安時代末期に貴族の権威が低下し、紙屋院の機構が衰退するとともにその紙質も低下し、陸奥紙(みちのくがみ)などの優れた地方産紙が出回るにつれ、ついに故紙の再生、すなわち宿紙(しゅくし)の代名詞のようになった。紙屋院のそばを流れる川は紙屋川とよばれ、紙漉きの伝統は川に沿って続くが、江戸時代から明治にかけては西洞院紙(にしのとういんがみ)などのちり紙が盛んに生産された。
[町田誠之]
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…平安時代には野宮(ののみや)の東(嵯峨野)にあったことが《西宮記》に記されており,その近くを流れる天神川は今なお紙屋川ともいわれている。紙屋院ですかれた紙は紙屋紙と呼ばれ,上質で,写経や宣旨・綸旨の紙,あるいは宮廷での使用等にあてられたようで,《源氏物語》などの文学作品にも見られる。また,故紙をすき直して造る宿紙(しゆくし)は紙屋院ですかれていたことから,宿紙の生産がふえるにしたがい,宿紙を紙屋紙と呼ぶようになっていったようである。…
…また鎌倉時代以降,天皇の側近に仕える蔵人(くろうど)が天皇の意を奉じて出す綸旨(りんじ)のことを,〈薄墨の綸旨〉と呼ぶのは,綸旨の用紙に宿紙を用いたためである。綸旨に限らず,もともと宿紙はおもに宮中で使われたので,紙屋院(かみやいん)で多く漉かれ,後に紙屋紙(かみやがみ)といえば宿紙のことをさすほどになった。【編集部】。…
※「紙屋紙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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