細田村(読み)さいたむら

日本歴史地名大系 「細田村」の解説

細田村
さいたむら

[現在地名]西区押部谷町細田おしべだにちようさいた

明石川の上流に位置し、南方は高和たかわ村。一五世紀には細田村と南接する性海しようかい寺の裏山をめぐる境相論が発生し、文明二年(一四七〇)一〇月二二日の浦上則宗・阿閉重能連署奉書(大西文書)により双方の新儀を止める旨命じられた。天正一二年(一五八四)七月一四日、羽柴秀吉は明石郡押部谷「才田村」三六八石余の知行を安宅甚五郎(信康)に認めている(「羽柴秀吉知行方目録」萩原員崇氏所蔵文書)。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方六八三石余・畑方一二〇石余、「はへ山」あり。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西一三町二〇間・南北二町五〇間、人数五三三・家数六七。


細田村
ほそだむら

[現在地名]温泉町細田

村の北にある。集落の東側を春来はるき川が流れ、同川は当村北方の出合であい(当村と笛村・井土村の境界一帯)岸田きしだ川右岸に合流する。春来川に沿って山陰道が通る。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ほそた村」とみえる。江戸時代の領主の変遷歌長うたおさ村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高四六石余。元和三年(一六一七)の宮城豊盛領二方郡高帳でも高は同じで、小物成として山手米二斗七升、桑手の綿三一〇匁が課せられていた。


細田村
さいたむら

[現在地名]弥生町細田

平井ひらい村の西、番匠ばんじよう川右岸に位置。郷帳類では切畑きりはた村に含まれたと思われる。文政六年(一八二三)の懐中記(弥生町教育委員会蔵)に切畑村組の一村として村名がみえ、田高一〇六石余・反別九町三反余、畑高一四七石余・反別二一町四反余、免三ツ九分、御立林八ヵ所がある。旧高旧領取調帳では高二七八石余。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)によれば、地内に小竹こちく坂口さかぐち黒沢口くろさわぐち山面やまつら寺内てらうち向下こうげ下小谷しもこだに大谷おおたに尾岩おいわがある。


細田村
ほそだむら

[現在地名]足助町細田

現国道一五三号の南に沿う。東は千田せんだ村、南はたま村、西から北へかけて永野ながの村・大井おおい村・小田こだ村に接する。集落は小起伏面上にあって山麓に点在。縄文時代中期、弥生時代中期・後期の大境おおざかい遺跡が山麓の緩傾斜地にある。また鎌倉時代の塩狭間しおはざま古窯跡群(一号窯―三号窯)があり、瓦類・日用雑器を焼く。蓮弁文壺片が注目される。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。


細田村
ほそだむら

[現在地名]小原村西細田にしほそだ

田代たしろ川の中流域にあり篠平ささだいら市場いちば丹波たんばを通る飯田街道が通ずる。集落は、母生父もしようぶなかしもの三組に分れる。下貝戸しもがいとというカイト名が残る。寛永郷帳では岡崎藩領、天明六年(一七八六)旗本久世三四郎領で明治維新に至る。「愛知県西加茂郡各村沿革調」によれば、明治一八年(一八八五)の戸口は五七戸・二四一人。


細田村
さいだむら

[現在地名]掛川市細田

東海道往還沿いの村。さか川とその支流垂木たるき川の間にあり、南は高御所こうごしよ村。かつては雨桜あめざくら天王社の神田のため斎田さいだと称していたらしい(掛川誌稿)。宝永七年(一七一〇)巡見奉行に出した書面によると、当村は堰水雨池もなく水旱の損失によって慶長年中(一五九六―一六一五)田地が荒れて百姓も転退したことから、諸役免除となったといわれる(同書)。正保郷帳に村名がみえ、田方二一五石余・畑方一六石余、掛川藩領(幕末に至る)


細田村
ほそだむら

[現在地名]葛飾区細田一―五丁目・高砂たかさご一―二丁目・同四丁目・鎌倉かまくら一―二丁目

曲金まがりがね村の南に位置し、東は鎌倉新田、南は奥戸おくど新田、西は中川を隔て立石たていし村。田園簿に曲金新田とみえるのが当村の前身で、田三五一石余・畑七二石余。元禄郷帳には細田村とある。「風土記稿」によれば検地は慶安元年(一六四八)に行われた。用水小合こあい溜井から引水。


細田村
ほそだむら

[現在地名]浜松市協和町きようわちよう

白須しらす村の西、庄内しようない半島の中ほどに位置。正保郷帳に村名がみえ高七二石余、田五一石余・畑二〇石余。領主の変遷は堀江ほりえ村と同じ。文政一三年(一八三〇)の旗本大沢領国役金割帳(庄内町自治会文書)は当村と乙君おときみ村および西にし村を合せて小村三郷とし、高二〇九石余とする。


細田村
ほそたむら

[現在地名]郡山市田村町細田たむらまちほそた

金沢かねざわ村の南、阿武隈高地西縁丘陵に立地。田村氏の出城細田城があり、天正九年(一五八一)岩城勢との合戦があった(藤葉栄衰記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に細田とみえ、高五九七石余、田丸氏の知行地。初め会津領、寛永四年(一六二七)三春藩領、正保元年(一六四四)幕府領と変遷、同二年から三春藩領。


細田村
ほそだむら

[現在地名]加茂川町細田

北は大木おおき村・三谷みたに村、東は上田うえだ村に接し、豊岡とよおか川と宇甘うかい川に挟まれた高原上の集落。寛永備前国絵図に村名がみえ、高五四〇石余。「備陽記」では田畠五四町九反余、家数九七・人数四八七。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高八五四石余で蔵入と家臣八名の給地。二口高六二一石余、残高五〇三石余、田方二八町余・三六九石余、畑方二六町七反余・一三三石余、家数八七、うち社方二、人数三一六、うち社方五。


細田村
ほそだむら

[現在地名]加古川市野口町良野のぐちちようよしの

安田やすだ村の北に位置し、西部を別府べふ川が北から南へ流れる。永正一二年(一五一五)八月日と天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には細田の作人がみえ、寄進散田のうちには細田南地頭分の一反がみえる。慶長国絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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