胆沢城跡(読み)いさわじょうあと

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

胆沢城跡
いさわじょうあと

岩手県奥州市にある平安時代の鎮守府遺跡胆沢城は,律令政府による胆沢の蝦夷制圧直後の延暦 21 (802) 年に陸奥国胆沢城使の坂上田村麻呂により造営された。その後まもなく鎮守府が多賀城 (→多賀城跡 ) から移され,鎮守将軍,軍監以下の職員および兵士らが配置された。北上川西岸の河岸段丘にあり,北方にその支流胆沢川を控えた遺跡は,1辺約 670mの正方形を呈し,周囲には築地跡が門,櫓の遺構とともに残り,その外側に幅広い溝跡がある。内部には掘立柱建物跡や列柱跡があり,古瓦や土器,木器,鉄器などが出土する。また,築地南方でも建物跡が発見されている。 1922年国の史跡に指定。

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国指定史跡ガイドの解説

いさわじょうあと【胆沢城跡】


岩手県奥州市水沢区佐倉河渋田にある古代城柵跡。東は北上高地、西は奥羽山脈に囲まれた北上盆地のほぼ中央、北上川沿いに立地する。征夷大将軍として派遣された坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が802年(延暦21)に築城し、この年、蝦夷(えみし)の指導者アテルイは降伏した。翌年にはこれより北の北上川と雫石(しずくいし)川の合流点近くに、約840m四方の志波(しわ)城(盛岡市郊外)が築かれたが、水害のせいで主要拠点になりえず、812年(弘仁3)ごろに志波城に代わって規模の小さい徳丹城(紫波(しわ)郡矢巾(やはば)町)が築かれた。胆沢城は最前線に位置することから重要視され、国府のある多賀城から鎮守府が移され、陸奥国北部を統治する軍事・行政拠点として、後三年の役(1083~87年)あたりまで機能した。1922年(大正11)に国の史跡に指定された。発掘調査によれば、幅2.4m、高さ3.9mの築地で画された約675m四方という巨大な外郭と、その内部の大垣で囲われた90m四方の政庁域からなる。そして郭内には政庁を中心として、官衙や厨などが配されていた。外郭の外周には幅5mの大溝があり、内周にも幅3mの溝がめぐらされ、築地には各面に門や櫓(やぐら)が築かれた。政庁には正殿や脇殿、正門となる南門などが設けられ、外郭の南門と政庁の南門との間に、引見のためのもう一つの門(政庁前門)が築かれていた。鬼瓦、蕨手(わらびで)刀、硯、木簡などが出土し、すぐ近くの奥州市埋蔵文化財調査センターに展示されている。JR東北新幹線水沢江刺駅から車で約15分。

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