日本歴史地名大系 「胆沢城跡」の解説
胆沢城跡
いさわじようあと
〔歴史〕
律令国家による東北経営は七世紀から行われていたが、八世紀初めには多賀城が創建され、鎮守将軍・按察使などが任命された。「続日本紀」宝亀七年(七七六)一一月二六日条に「発陸奥軍三千人伐胆沢賊」とあり、この頃東北経営の前線が胆沢にまで迫っているが、同一一年には上治郡の大領伊治公呰麻呂が
胆沢の地は征東将軍紀古佐美が「水陸万頃」と評したように(「続日本紀」延暦八年七月一七日条)、律令国家にとって魅力ある地であったが、日高見蝦夷の本国であり、奈良時代の末頃からは北上川上流の蝦夷がここに結集し、「征東」軍と対峙していた。北上川作戦を再開した年の「続日本紀」延暦八年(七八九)六月三日・九日条に載る紀古佐美の奏文の「胆沢之地、賊奴奥区」「胆沢之賊惣集河東」という表現がこのことを物語っている。古佐美の率いる「征東」軍は北上川を左岸に渡って「賊師夷阿弖流為之居」を攻めるが、「巣伏村」の戦いで壊滅的な大敗を喫し、この作戦は不首尾に終わった(同書六月三日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報