能仁寺(読み)のうにんじ

日本歴史地名大系 「能仁寺」の解説

能仁寺
のうにんじ

[現在地名]飯能市飯能

天覧てんらん山麓にある曹洞宗寺院。武陽山と号し、本尊は普賢・文殊両菩薩を脇侍にもつ盧遮那仏。当寺に伝わる「武州能仁寺記」によれば、中山家範が父家勝のために創建したといい、同じく当寺の「能仁寺鐘銘并序」では家勝自身の創建と伝えるが、実際は家勝が文亀年間(一五〇一―〇四)頃、通幻派の斧屋文達を招いて開いた禅道場を、家範が本格的寺院としたようである。その後、二世格翁桂逸・三世材室天良・四世格外玄逸までは各々朝廷から禅師号が許されている(前掲能仁寺記)。天正一九年(一五九一)一一月徳川家康から「高麗郡加治郷之内」で寺領五石が寄進され(「徳川家康朱印状」寺蔵文書)、宝永二年(一七〇五)には一挙に五〇石に加増された(「徳川綱吉朱印状」同文書)

能仁寺
のうにんじ

[現在地名]広川町名島

雁蕩山と号し、救世観音宗。本尊薬師如来高城たかしろ山南麓の台地境内とし、現在は薬師堂と僧舎一棟を残すにすぎないが、中世臨済宗で、当地方屈指の寺院であった。開基興国こうこく(現和歌山県由良町)の心地覚心(法灯国師)の高弟覚明(三光国師)。正保三年(一六四六)薬師堂再興の時、薬師如来の胎内より出てきたといわれる書付(続風土記)によれば、正平六年(一三五一)九月に後村上天皇の勅願により建立されたことがわかる。

能仁寺
のうにんじ

[現在地名]真岡市根本 愛宕下

根本ねもと山南麓にあり、大雄山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊釈迦如来。寺伝によれば興国四年(一三四三)足利尊氏の発願によって仏国国師の法弟不識妙宥が開基となり、恵心作と伝える銅造釈迦牟尼坐像を本尊とし、文殊・普賢二菩薩(現在なし)を脇士として安置し創建したもので、尊氏から永一千貫の朱印地の寄進をうけ、鎌倉円覚寺派十大寺の一に列せられたという。応永二六年(一四一九)称光天皇下賜と伝える「関東名藍」の扁額が仏殿正面に掲げられている。天正年間(一五七三―九二)、慶長一四年(一六〇九)に火災に遭ったが、両度とも仏殿・扁額・本尊は罹災を免れた(下野名蹟図誌)

能仁寺
のうにんじ

[現在地名]高萩市上手綱

上手綱かみてつなの南側、小高い地に林に囲まれて藁葺本堂が建つ。天台宗で妙林山尊法院と号し、本尊は釈迦如来。

「松岡地理志」は大宝年中(七〇一―七〇四)役行者が草創、貞観五年(八六三)慈覚大師が再建、のち澄円が再興、次の亮珍の代の建久三年(一一九二)竜子たつご山の城主手綱太郎が祈祷所としたという。寛文(一六六一―七三)頃までは京都青蓮しようれん院の末寺であったが、のち真壁まかべ黒子くろご(現関城町)千妙せんみよう寺末となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報