バラ科に属する樹木。主に北半球の温帯に広く分布するが、美しい花を付ける種類はアジア、特に日本列島に多いとされる。高さが2メートル前後のものから、20メートルを超える高木までさまざま。これまで国内で確認された野生種はカスミザクラやオオシマザクラなどがある。野生種や変種から育成された栽培品種は200種以上。ソメイヨシノは栽培品種で、3~5月に薄いピンク色の花を一斉に咲かせる日本を代表する品種。
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出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
バラ科(APG分類:バラ科)の落葉高木または低木で、おもに北半球の温帯と暖帯に分布する。サクラ属のうち、スモモ、モモ、ウメ、ニワウメ、ウワミズザクラなどの亜属を除いたサクラ亜属のものを一般にサクラと称し、花の美しいものが多く、日本の花の代表として外国にも知られている。なお、食用のサクランボはカラミザクラ(唐実桜)やセイヨウミザクラ(西洋実桜)などの系統のものである。日本の山野にはヤマザクラなど約10種類を基本にして、変品種をあわせると100種類ほどのサクラが野生しており、また、これらから生まれた200~300の園芸品種が知られている。江戸時代には品種が区別され、天和(てんな)元年(1681)に出た水野元勝(もとかつ)の『花壇綱目(かだんこうもく)』には「桜珍花異名の事」として40品種のサクラが載せてある。近年のものでは『最新園芸大辞典』巻5(1970、誠文堂新光社)が305品種を載せ、『サクラの品種に関する調査研究報告』(1982、日本花の会)には193品種が図説されている。
[小林義雄 2020年1月21日]
分子系統に基づく分類では、サクラ属(スモモ属)Prunusは、バクチノキ属Laurocerasus、ウワミズザクラ属Padus、スモモ属Prunus、サクラ属Cerasusに再分する考え方がある。一般にサクラとされるものはサクラ属Cerasusである。
[編集部 2020年1月21日]
サクラ属は一般に低木または高木であるが、一部には枝垂(しだれ)性のものや枝がみな上向する品種もある。葉は枝に互生し、単葉で、葉身、葉柄、托葉(たくよう)をもった完全葉である。葉身の縁(へり)に鋸歯(きょし)があり、葉柄または葉身基部に蜜腺(みつせん)が1対または1~5個あって、蜜を分泌し、托葉は落ちる。花は単生することもあるが、多くは散形または散房花序になって咲く。萼(がく)、花弁、雄しべ、雌しべを備えた両性花で、花托は広がって萼筒(がくとう)状になり、5枚の萼片があって、喉部(こうぶ)に5枚の花弁と萼片とが交互の位置につく。その内側に普通は雄しべが30~50本着生し、雌しべは1本で子房は萼筒状の花托の中にあり、子房は中位。子房は1心皮からなる1室で、1個の胚珠(はいしゅ)を入れているが、そのうち1個が成熟する。果実は核果で、外側が肉質になり、内側に内果皮が木質化した核があり、核の中に1個の種子を含む。
[小林義雄 2020年1月21日]
サクラにはよく知られているヤマザクラ(山桜)やソメイヨシノ(染井吉野)のほかにもいろいろな種類があり、早春から晩春まで各地で咲き乱れ、また四季咲き性のものは初冬にも花がみられる。以下に日本のおもな野生種と園芸種を示す。
[小林義雄 2020年1月21日]
2018年(平成30)に約100年ぶりに野生種の新種であるクマノザクラが見つかった。ヤマザクラと同所に見られるが開花時期が早い。紀伊半島の熊野川流域に分布する。
[編集部 2020年1月21日]
本州の宮城県から西の日本各地にもっとも普通に自生し、赤茶色に染まった新葉とともに淡白紅色一重咲きの花が散房状になって咲く。各部に毛がなく、葉の裏面は白色を帯びる。ヤマザクラ系には八重咲きのコノハナザクラ(木花桜)やゴシンザクラ(御信桜)などがあり、一重咲きのワカキノザクラ(稚木桜)は二~三年生の幼木で開花する。同じく一重のフダンザクラ(不断桜)や、ヤマザクラとマメザクラ(豆桜)の雑種といわれるフユザクラ(冬桜)のように、花が初冬と春の2回咲く品種もある。
[小林義雄 2020年1月21日]
中部地方以北の本州、北海道の山地に多く生え、四国の石鎚(いしづち)山脈にも自生する。一重咲きである。ヤマザクラより紅色の強い花をつけるのでベニヤマザクラ(紅山桜)といわれ、また北海道に多いのでエゾヤマザクラ(蝦夷山桜)ともいう。新潟県阿賀(あが)町の極楽寺にはノナカザクラ(野中桜)とよぶ、花が大きく紅色の美しい老木がある。
[小林義雄 2020年1月21日]
北海道から九州にかけての山地に自生し、葉や花に毛があることからケヤマザクラ(毛山桜)ともよばれているが、ヤマザクラのように葉の裏面が白くはない。ナラノヤエザクラ(奈良八重桜)はカスミザクラの八重咲き品種であり、長野県塩尻(しおじり)市片丘において発見されたカタオカザクラ(片丘桜)は一重咲きの花が二~三年生の幼木で開花する。
[小林義雄 2020年1月21日]
伊豆七島に自生し、伊豆半島、房総半島のものは植林したものが野生化したものといわれている。薪炭(しんたん)用に植栽するのでタキギザクラ(薪桜)ともよばれる。白色一重咲きのやや大きい花が開葉と同時に咲き、香りがあり、葉の縁の鋸歯は先が芒(のぎ)状に長くとがる。成長が速く、八重咲きもあり、花は変異性に富む。
[小林義雄 2020年1月21日]
オオシマザクラを主としてヤマザクラ、オオヤマザクラなどの間で繰り返し交雑され、改良選出された品種の一群の総称。一重、八重、菊咲き、花色の濃淡、香りなど変化に富んだ品種が多数ある。ショウゲツ(松月)、イチヨウ(一葉)、カンザン(関山)、フゲンゾウ(普賢象)などは大輪の八重咲きで、葉状に変化した雌しべが1~2本あり、ウコン(鬱金)、ギョイコウ(御衣黄)など黄緑色八重咲きの花が咲く変わったサクラもある。
[小林義雄 2020年1月21日]
本州、四国、九州の山地に自生し、各地に大木が残っている。アズマヒガン(東彼岸)、ウバヒガン(姥彼岸)ともいう。全体に毛が多く、開葉前にやや小形の一重咲きの花が咲き、萼筒は壺(つぼ)形である。枝の垂れるシダレザクラ(枝垂桜)は寺院などでよく植えられ、エドヒガンの品種で八重咲きのヤエベニシダレ(八重紅枝垂)がある。コヒガン(小彼岸)はヒガンザクラ(彼岸桜)ともいい、エドヒガンとマメザクラの雑種で、エドヒガンより葉が小さい。
[小林義雄 2020年1月21日]
明治初年ころ、東京・染井(現在の豊島(としま)区巣鴨(すがも)付近)から売り出されたサクラで、いまでは全国各地に広く植栽されている。オオシマザクラとエドヒガンの雑種で、若枝や葉、花に毛があり、開葉前にエドヒガンより大きい一重咲きの花が木を埋め尽くして美しく咲く。
[小林義雄 2020年1月21日]
富士山、箱根山に多いのでフジザクラ(富士桜)またはハコネザクラ(箱根桜)ともいい、全体に小形で、開葉前に一重咲きの花が咲く。フジキクザクラ(富士菊桜)はマメザクラの菊咲き品種で、花弁が360枚にもなり、雌しべが多数になった花もある。本州の中部地方以西にはキンキマメザクラ(近畿豆桜)が分布する。
[小林義雄 2020年1月21日]
本州と九州の一部に自生し、春早くに一重で小形の花が咲く。
[小林義雄 2020年1月21日]
北海道から九州にかけての深山に生え、花の柄のもとに小さい葉がついている。また別種のミネザクラ(峰桜)は本州の中部地方以北の高山と北海道に生える。ミネザクラはタカネザクラ(高嶺桜)ともいう。
[小林義雄 2020年1月21日]
ヒカンザクラともいい、中国大陸南部、台湾に分布し、沖縄県のものは自生説と野生化説があり、関東地方以西の暖地に植栽される。開葉前に半開の濃緋紅色一重咲きの花が下垂して咲き、沖縄では2月上旬、東京では3月下旬に咲く。
[小林義雄 2020年1月21日]
日本の各地にサクラの名所があるなかで、奈良県の吉野山は古くからヤマザクラの名所として知られ、下(しも)千本、中千本、上(かみ)千本、そして奥千本へと1か月余り花が咲き続ける。京都市の嵐山(あらしやま)や醍醐寺(だいごじ)もヤマザクラが多く、茨城県の桜川、東京都の小金井(こがねい)などもかつてはヤマザクラが多数植えられていた名所である。高知県物部(ものべ)村西熊(にしくま)国有林のヤマザクラ林、岐阜県池田町霞間ヶ渓(かまがたに)のヤマザクラやエドヒガンの樹林、新潟県新発田(しばた)市加治川(かじかわ)地区橡平(とちだいら)のオオヤマザクラやカスミザクラなどの樹林が開花したときは壮観である。栃木県の日光中禅寺湖畔、群馬県の榛名(はるな)湖畔ではオオヤマザクラが5月上旬に咲き、北海道日高の旧御料場並木、小樽(おたる)市の小樽苗畑(なえはた)、厚岸(あっけし)町の国泰寺(こくたいじ)などいずれもオオヤマザクラの名所である。サトザクラの品種が多く集められている所としては、京都市御室(おむろ)の仁和寺(にんなじ)、同市上京(かみぎょう)区の平野神社をはじめ、大阪市の造幣局通り抜け、東京都八王子市の森林総合研究所多摩森林科学園サクラ保存林、北海道松前町の松前公園などが著名である。
ソメイヨシノを主とした名所は各地に多数あるが、なかでも東京都の上野公園、村山貯水池、埼玉県の山口貯水池、福島県郡山(こおりやま)市の開成山公園、宮城県大河原(おおがわら)町の白石(しろいし)川堤防、秋田県仙北(せんぼく)市角館(かくのだて)町の檜木内(ひのきない)川堤、青森県弘前(ひろさき)市の弘前公園などの花はすばらしい。
外国ではアメリカのワシントン市ポトマック河畔のサクラが有名である。これは1912年(明治45)に当時の東京市長尾崎行雄が日米親善のため寄贈した、ソメイヨシノのほか9種類3100本の苗木がもとになったものである。
天然記念物として保護されている名木も多く、大島のサクラ株(東京都)、狩宿(かりやど)の下馬(げば)ザクラ(静岡県富士宮市)は特別天然記念物に指定されている。山梨県北杜(ほくと)市武川(むかわ)町の山高神代ザクラはエドヒガンの巨木としては日本一であり、岐阜県本巣(もとす)市の根尾谷淡墨(ねおだにうすずみ)ザクラ、山形県長井市の伊佐沢(いさざわ)の久保ザクラなどいずれも大木である。シダレザクラの大木としては福島県三春(みはる)町の三春滝ザクラがあり、いまなお樹勢が盛んである。また、新潟県阿賀野(あがの)市の梅護(ばいご)寺の珠数掛(じゅずかけ)ザクラ、岐阜県大野町の揖斐(いび)二度ザクラなど変異に富んだ花をつけるものもある。
[小林義雄 2020年1月21日]
繁殖はおもに接木(つぎき)か実生(みしょう)によるが、挿木のできるものもある。果実を結ばない八重咲きや園芸品種は接木で増殖する。台木は一般にアオハダの挿木苗が使われているが、オオシマザクラの実生苗がよく、エドヒガンなどヒガンザクラ系にはエドヒガンの実生苗を用いる。実生の場合、乾燥した種子は発芽が悪いので、6月、果実ができたころ、種子をとってすぐ播(ま)くか、翌春まで種子を土中に埋めておいて早春に播く。植栽は、排水のよい適潤な肥沃(ひよく)地で、日当りのよい所を選び、過湿地や風当りの強い所は避ける。
俗に「桜伐(き)る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」のたとえにあるように、サクラは切り口から腐りやすく、また、その部分からの萌芽(ほうが)力が弱いので、剪定(せんてい)はしないほうがよい。やむをえず剪定する場合は切り口に殺菌剤の入った癒合剤を塗布するとよい。てんぐ巣病、穿孔褐斑(せんこうかっぱん)病、がんしゅ病、材質腐朽病などの病気にかかった部分は切除して焼却し、切り口に癒合剤を塗布する。葉を食害するオビカレハ(ウメケムシ)、アメリカシロヒトリ、モンクロシャチホコには、DEP剤、MEP剤などを散布し、樹皮と材の境を食害するコスカシバにはMEP剤を樹幹被害部に塗布する。ウメシロカイガラムシは冬季に石灰硫黄(いおう)合剤を塗布するか、初夏にMEP剤を散布するとよい。
[小林義雄 2020年1月21日]
ヤマザクラ、オオヤマザクラなどの材は良質のやや硬い散孔材で、辺材が黄褐色、心材が赤褐色で光沢があり、加工しやすく、ゆがみが少ないので、器具材、家具材、床柱や敷居などの建築材、小細工物、板木、薪炭など用途が広い。樹皮は樺細工(かばざいく)に用い、小箱や鞘(さや)などの張り皮、曲物(まげもの)の綴(つづり)皮とし、また樹皮は去痰(きょたん)剤として薬用にする。塩漬けにしたオオシマザクラの葉は桜餅(もち)を包み、カンザンなど八重桜の花は漬け花にして桜湯にして飲む。
[小林義雄 2020年1月21日]
花といえばサクラのことをさすほど、サクラは日本の代表的な花木であり、国花ともされている。春の桜狩りは、秋の紅葉(もみじ)狩りと並んで日本の代表的な行楽行事とされており、大和(やまと)の吉野山をはじめとして、サクラの名所とされている所が全国各地にある。花祭も盛んに行われており、京都の平野桜祭(上京区、平野神社)、今宮やすらい祭(北区、今宮神社)などが知られている。また、花見時に婚礼を行うのを嫌ったり、壱岐(いき)島のようにサクラを焚(た)くことを忌む土地もある。「花月(かげつ)正月」といって、3月3日ごろ山野に遊んで花見をし1日を過ごすことは、全国的に春の行事として行われている。しかし農家にとっては、これは農作の忙しい時期に入る前の儀礼の一つであった。サクラの開花によって農作業の時期を知ることが行われ、山形県では「種蒔(たねまき)桜」といって、種播(ま)きの時期をサクラの開花によって判断するという。長野県下伊那(しもいな)郡では「苗代桜」といって、花の開きぐあいによって籾(もみ)播きの時期を知ったり、その期日を定めたという。また、同郡豊丘(とよおか)村の姫宮神社境内にある古桜になにか異常がおこると、凶兆であるという。3月の節供にはサクラの花を神様に供えたり、大枝を桶(おけ)などに入れて庭に飾るが、「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」といって、サクラを伐ると成長しないため、伐るのを嫌う。
サクラについての伝説は多く、なかでも「桜杖(づえ)」の伝説は全国各地で語られている。地に挿した杖が成長して樹木になったというもので、弘法(こうぼう)大師とか西行(さいぎょう)法師などの名僧に付会したものが多い。これには「逆さ桜」というのがあり、根元より上のほうが太いとか、枝が下を向いているとかいう。香川県三豊(みとよ)市財田(さいた)町には、弘法大師がサクラの杖を地面に挿したのが花を咲かせたという「世の中桜」があるが、このサクラの花の多い枝の方角が豊作、少ない枝の方角は不作と伝えられている。
また兵庫県明石(あかし)市の柿本(かきのもと)神社(人丸(ひとまる)神社)には「盲杖桜」というのがある。昔、筑紫(つくし)(福岡県)からきた一人の盲人が人丸の塚に詣(もう)で、「ほのぼのと誠あかしの神ならば、我にも見せよ人丸の塚」と詠むと、たちまち目があき、大いに喜んで、不要となった杖を地に挿したものが成長したという。「駒繋(こまつなぎ)桜」というのも多く、愛知県豊橋(とよはし)市の鞍掛(くらかけ)神社には、源頼朝(よりとも)が馬をつないだという「駒止め桜」がある(現在の木は1976年に植えられたもの)。静岡市熊野神社には、サクラの木の傍らに「桜塚」という小さな祠(ほこら)がある。これは「わんぱこ様」とよばれているが、昔膳椀(ぜんわん)が不足した際、この祠に借用を頼むと翌朝かならず効験があったという。以上のように、サクラも日本に広く行われた樹木崇拝の民俗の一つとして考えられたことがわかる。
古来、サクラの木は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の霊木とされ、伊勢(いせ)神宮の桜宮は殿舎がなく、1本のサクラの木を神体としているといわれる。なお、サクラは日本の象徴のようにいわれているが、サクラの樹齢は比較的短いためか、伊勢の朝熊(あさま)神社のようにこれを神木としている例はあまりみられない。橘三喜(たちばなのみつよし)の『一宮巡詣記(いちのみやじゅんけいき)』には、「諏訪(すわ)大社(長野県)の七木」というものがあり、「桜タタイ木」というのがその一つに数えられている。これは、7年ごとに行われる大祭ののちに廻神(めぐりがみ)といって、村々を回る神使(しんし)が行う神事を湛(たたい)と称したことから、七木はその祭場を示す木と考えられており、その一つにサクラがあったことを示している。
[大藤時彦 2020年1月21日]
日本人とサクラのかかわりを示すもっとも古い記録は、福井県鳥浜貝塚遺跡の縄文時代前期の地層から出土した弓である。弓筈(ゆみはず)(弭(ゆはず)。弓の両端の弦(つる)をかけるところ)の部分をサクラの樹皮で丹念に巻いて補強し、赤い漆を塗ったものが3例発見されている。サクラの樹皮を使った細工物は現代も続いているが、その中心地は秋田県角館(かくのだて)町で、ここの樺(かば)細工は200年ほど前の天明(てんめい)年間(1781~1789)に、佐竹家の藤村彦六(ひころく)が武士の手内職として広めたことに始まるという。なお、ヤマザクラの樹皮を茶筒や文箱などに貼(は)り付けたこの細工は、1975年(昭和50)に伝統的工芸品に指定されている。
サクラが実用面で利用されたものに、さらに農事暦がある。各地に残る「種播桜」「苗代桜」などの名称からうかがえるが、これは古代人の桜観にもつながり、国文学者折口信夫(おりくちしのぶ)は、『万葉集』の藤原広嗣(ひろつぐ)の歌「此(この)花の一弁(ひとよ)の中(うち)に百種(ももくさ)の言(こと)ぞ籠(こも)れるおほろかにすな」の背景には、サクラの開花を1年の生産の前触れとして重んじる習慣があったのではないかと推測した(『古代研究』)。また、サクラの花占いは『古事記』にも片影をみせる。木花開耶姫命の「木花」はサクラをさすという見方が一般的であるが、その姫は身ごもった子が天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子であるかどうかを、自ら産屋に火を放って焼き占う。シカの骨や亀甲(きっこう)を焼いて吉凶を占うことは古くから行われていたが、その際に使った薪(まき)がウワミズザクラであったことは、『古事記』その他に記録されている。木花開耶姫命がサクラの象徴とすれば、サクラが吉凶の占いにかかわっていたことの裏づけとなろう。
こうした予祝とは別に、花を観賞の対象とする習わしは万葉時代からみられる。『万葉集』にはサクラを詠んだ歌が42首載るが、そのうちの4首ははっきりと庭や宿のサクラを詠んでおり、当時すでに観賞用として栽培下にあったことが知れる。
最古の品種はナラノヤエザクラで、聖武(しょうむ)天皇が奈良の三笠(みかさ)山で発見して移植したと伝えられる。「古(いにしえ)の奈良の都の八重桜……」と伊勢大輔(いせのたいふ)に歌われたナラノヤエザクラが各地に広がったのは、接木(つぎき)技術の発達によっており、藤原定家の『明月記(めいげつき)』にその接木の話が載っている。鎌倉・室町時代にはフゲンゾウ(普賢象)、スミゾメ(墨染)、タイザンフクン(泰山府君)など、現在も伝わる品種が登場するが、爆発的に品種が増えるのは江戸中期で、文献には江戸時代を通じて400近い品種が名をとどめている。
[湯浅浩史 2020年1月21日]
『古事記』履中(りちゅう)天皇の段や『日本書紀』履中天皇3年(402)11月条などに「磐余(いはれ)の若桜の宮」について書かれているのが早い例であり、『書紀』允恭(いんぎょう)天皇8年(419)2月条では、衣通郎女(そとおりのいらつめ)に天皇が贈った歌にサクラが詠み込まれている。『万葉集』では、140首余りもあるハギ、120首近いウメに比べて、サクラは40首ばかりで、それほど多いとはいえないが、「桜花咲きかも散ると見るまでに誰(たれ)かもここに見えて散り行く」(巻12、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ))、「あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我恋ひめやも」(巻17、大伴家持(おおとものやかもち))などと詠まれている。漢詩では『凌雲集(りょううんしゅう)』にサクラの詩が収められている。『古今集』のサクラの用例は、「桜」「桜花」「山桜」「花桜」「かには(樺)桜」(物名(もののな))を含めて43首、題からサクラと知られる「花」10首もあり、「桜色」も1首加わり、ウメの「梅」「梅の花」24首、題からウメと知られる「花」5首よりかなり多い。「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(春上、在原業平(ありわらのなりひら))、「見渡せば柳(やなぎ)桜をこきまぜて都ぞ春の錦(にしき)なりける」(春上、素性(そせい)法師)、「久方(ひさかた)の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(春下、紀友則(きのとものり))などの歌がある。『枕草子(まくらのそうし)』では、「木の花は」の段に「桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる」のを賞し、また瓶(かめ)にいけられたようすが記されている。『源氏物語』では、「野分(のわき)」で、紫の上の姿を「春の曙(あけぼの)の霞(かすみ)の間(ま)より面白き樺桜(かばざくら)の咲き乱れたるを見る心地(ここち)す」とよそえているのが印象的で、「花宴(はなのえん)」のような華麗な王朝絵巻もある。花に耽溺(たんでき)し、「願はくは花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃(ころ)」(『山家集』)と詠んだ西行(さいぎょう)の風狂も有名。近世歌謡集の『松の葉』には「桜づくし」がある。本居宣長(もとおりのりなが)もサクラを愛し、「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人問はば朝日に匂(にほ)ふ山桜花」と詠んだ。芭蕉(ばしょう)には「吉野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠(きがさ)」「奈良七重七堂伽藍八重桜(ならななへしちだうがらんやへざくら)」がある。
王朝貴族にとってサクラの花は春の自然美の代表的な景物であり、咲き散る花の動きの微妙な変化に一喜一憂し、ひたすら花の姿を賞美した。サクラの花の散るのにいさぎよさをみるのは、近代のややゆがんだ受け止め方で、古来、文学の世界ではサクラの花はもっぱら賞美の対象であったのである。
[小町谷照彦 2020年1月21日]
『佐野藤右衛門著『桜』(1961・光村推古書院)』▽『大井次三郎・太田洋愛著『日本桜集』(1973・平凡社)』▽『斎藤正二著『日本的自然観の研究』(1978・八坂書房)』▽『三好学著『櫻』(1980・冨山房)』▽『本田正次・松田修著『花と木の文化――桜』(1982・家の光協会)』
栃木県中東部にある市。2005年(平成17)、塩谷郡(しおやぐん)氏家町(うじいえまち)と喜連川町(きつれがわまち)が合併して市制施行、さくら市となる。西端を流れる鬼怒(きぬ)川沿いに平野が広がり、北部は高原(たかはら)山から延びる丘陵地となっている。JR東北本線(宇都宮線)のほか、国道4号、293号が通じる。喜連川は、中世には塩谷氏、近世には喜連川氏(足利(あしかが)氏の血縁で、四品格式10万石)の城下町で、奥州街道の宿場町として繁盛した。また氏家も奥州街道の宿場町で、阿久津河岸(あくつかし)は鬼怒川舟運の起点であった。農業は稲作が中心で、野菜栽培、畜産、ハウス園芸などが盛ん、またシイタケの菌床栽培も行われている。工業は、喜連川工業団地と蒲須坂(かますざか)工業団地があり、自動車工業、紙製品、金属加工、食品工業などの企業が進出している。喜連川温泉、鋸(のこぎり)のコレクションを収蔵した「さくら市ミュージアム」、ゴルフ場などがある。また、勝山城跡、鬼怒川堤防の桜堤、早乙女(そおとめ)の桜並木、お丸山公園など、サクラの名所が多い。面積125.63平方キロメートル、人口4万4513(2020)。
[編集部]
サクラは古くから日本人に親しまれ,日本の花の代表として海外にまで知られる。一般にサクラと総称しているものは,主として北半球の温帯と暖帯に分布しているバラ科サクラ属サクラ亜属の主として落葉性の樹木で,花がいっせいに開花して美しいものが多く,広く観賞されている。日本にはヤマザクラ,オオヤマザクラをはじめ,カスミザクラ,オオシマザクラ,マメザクラ,エドヒガン,チョウジザクラ,ミヤマザクラ,タカネザクラなど10種類ほどの自然種を基本として,変種や品種をあわせると約100ほどの種類が野生している。サクラ類の多くは陽樹で,しかも二次林を構成する生長の速い種が多いため,人家で栽植するにも好適であり,これらの野生種から多数の園芸品種が育成され,その数も200から300といわれる。古く奈良時代から栽培化された八重咲きのサクラが知られていたが,サクラの品種がまとまって記録されるようになったのは江戸時代からで,水野元勝の《花壇綱目》(1681)に40品種のサクラがのっている。その後,多くのサクラ図譜が出ているが,松岡玄達の《怡顔斎桜品(いがんさいおうひん)》(1758)には69品種,桜井雪鮮描画,市橋長昭撰の《花譜》,《続花譜》上と下,《又続花譜》,《花譜追加》の5冊(1803-04)には252図が出ている。大井次三郎著,太田洋愛画の《日本桜集》(1973)には154図がのっている。英語ではセイヨウミザクラのように実を食べるものをcherry,日本で改良された花をみるサクラをJapanese cherry,flowering cherry,Japanese flowering cherryと呼び,区別している。
サクラの葉は互生し,縁に鋸歯があり,多くは葉柄の上部に1対またはそれ以上のみつ腺がある。花序は散房状,散形状,総状などになり,花の基本は,円筒形をした萼筒の上部に5枚の萼片があり,萼片と交互になって5枚の花弁がつき,萼筒上部の内側に通常40本内外のおしべが3段ぐらいついている。めしべは普通1本あり,子房は萼筒内の底に子房周位の状態におさまり,子房の上には細長い花柱がある。果実は核果で,果肉のなかに1個の硬い核があり,1種子が含まれている。
日本にはサクラの種類が多いので,早春から晩春までサクラがつぎつぎに咲き,なかには季節はずれの初冬に咲くサクラもある。早春の2月に淡紅色の花が咲くものにカンザクラ(寒桜)P.×kanzakura Makinoがある。これはヒカンザクラとオオシマザクラの雑種で,大寒桜(おおかんざくら),修善寺寒桜などの品種がある。カンザクラの一方の母種であるヒカンザクラ(緋寒桜)P.cerasoides D.Don var.campanulata (Maxim.) Koidz.はカンヒザクラ(寒緋桜)ともいわれ,中国南部,台湾に分布し,琉球に野生化している。葉が展開する前に,花弁が半開した濃緋紅色の花が下向きに咲く。沖縄では1~2月に開花し,関東以南の暖地でも2~3月の早春に咲くサクラとして植えられている。まれに栽培されている中国原産の桜桃(おうとう)と呼ばれるシナミザクラP.pseudocerasus Lindl.も,大木にはならないが花期の早いサクラである。しかし,俗にサクランボといって果実を食用にしているセイヨウミザクラP.avium L.の花は4月になってから咲く。
春の彼岸ごろになると全体に毛の多いエドヒガン(江戸彼岸)P.spachiana(Lavallée ex H.Otto)Kitam.f.ascendens(Makino)Kitam.が,萼の基部がつぼ形にふくらんだ小型の花を,葉の出る前に咲かせる。本州,四国,九州の山地に生え,朝鮮半島,中国にも分布しており,各地に巨樹,名木が残っている。日本一大きいといわれる山梨県北杜市の旧武川村山高神代桜(やまたかじんだいざくら)をはじめ,山形県伊佐沢の久保桜,岐阜県根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら),巨岩を割って生えている岩手県盛岡市の石割桜(いしわりざくら)などはいずれもエドヒガンの大木で,天然記念物になっているものが多い。エドヒガン系の糸桜も同じころ枝をやさしく垂れさげて,淡紅白色一重の花を開く。福島県三春町の三春滝桜(みはるたきざくら)は糸桜の巨木として古くから知られており,京都市の平安神宮,東京都の神代植物公園などにある八重紅枝垂(やえべにしだれ)は紅色,八重の美しい花が咲く。このエドヒガンとマメザクラの雑種のコヒガン(小彼岸)P.×subhirtellaMiq.はヒガンザクラ(彼岸桜)とも呼ばれ,長野県伊那市の旧高遠町の城跡公園のものは有名である。
4月になると,全国各地に広く植栽されており,最も普通に花見の対象になっているソメイヨシノ(染井吉野)P.×yedoensis Matsum.の花が咲いてくる。明治初年ごろに東京の染井から広がり始めたもので,オオシマザクラとエドヒガンの雑種と考えられている。若枝や葉,花部などに毛があり,葉を開く前に大きな一重の花が木を埋めつくして美しく咲く。ソメイヨシノの仲間には,北アメリカでソメイヨシノの実生から選出された〈アメリカ〉やオオシマザクラとエドヒガンの交配によってつくられた三島桜,天城吉野(あまぎよしの)などがある。チョウジザクラ(丁字桜)P.apetala(Sieb.et Zucc.)Fr.et Sav.は本州と九州の山地に生え,花径1.5cmほどの小さい花が春早くに咲く。マメザクラ(豆桜)P.incisa Thunb.も花が早く開葉の前に咲き,木が全体に小型なので〈豆桜〉といわれている。関東,甲信地方から静岡県東部の山地に生えているが,富士,箱根地方に多いので,フジザクラまたはハコネザクラともいわれている。純白な花弁に,鮮緑色の萼をつけた緑萼桜(りよくがくざくら)や八重咲き,菊咲きなどの品種があり,本州の中部より西の山地には変種のキンキマメザクラ(近畿豆桜)var.kinkiensis(Koidz.)Ohwiが分布している。
昔から日本人に親しまれてきたヤマザクラ(山桜)P.jamasakura Sieb.ex Koidz.は,4月に赤茶色に染まった葉を広げると同時に,淡紅白色の花をほころばせる。ソメイヨシノが出現しなかった明治以前の観桜の主役はもっぱらヤマザクラで,奈良の吉野山,京都の嵐山などは古くからの名所である。本州の宮城県以西,四国,九州の山野に生え,韓国の済州島にも分布している。ヤマザクラは葉や花部に毛がなく,花の裏面の白みの強いものであるが,葉の一部に毛を散生するウスゲヤマザクラも混ざって生えている。2~3年生の幼木で開花する稚木桜(わかきのさくら)と呼ぶ一歳桜もあり,八重咲きの木の花桜(このはなざくら),御信桜(ごしんざくら)などの花は少し遅れて咲く。カスミザクラ(霞桜)P.leveilleana Koehneはヤマザクラより山地の上部に生え,花期もやや遅れる。葉や花部に毛があるのでケヤマザクラとも呼ばれているが,葉の裏面に白みがなく,花が白い。北海道から九州の山地に生え,朝鮮半島,中国東北部まで分布している。奈良市の知足院(ちそくいん)にある有名な奈良八重桜はカスミザクラの八重咲きで,花期が遅く,4月下旬になって淡紅色の花が咲く。ヤマザクラにつづいて咲くオオヤマザクラ(大山桜)P.sargentii Rehd.は,北海道の山地に多いのでエゾヤマザクラ,あるいは紅色の花が咲くのでベニヤマザクラともいい,北海道では5月に入ってから咲き,新冠の桜並木,小樽苗畑,厚岸の国泰寺など名所が多い。サハリン,南千島,北海道から本州,四国の愛媛県,徳島県,朝鮮半島に分布している。本州中部では標高700~1000mのところに生え,ヤマザクラより上部の山地に出てくる。新潟県新発田市大峰山の橡平(とちだいら)のサクラ樹林は天然記念物になっている。オオヤマザクラやヤマザクラなどのサクラの樹皮は色つやがよいので,タバコ入れ,小箱などの外側にはるのに用いられ,秋田県角館の樺皮細工(かばざいく)は有名である。樹皮はまた去痰剤として薬用にもしている。ヤマザクラの仲間のサクラ材はやや硬い散孔材で良質なので,器具・家具・建築材になり,版画の版木にはサクラ材が最高である。最近はサクラ材の量が少なくなったので,カバノキ科のカンバ材がサクラ材といわれ,流通している。
ヤマザクラに似たサクラには,海岸に適応した型にヤマザクラまたはカスミザクラから分化したといわれているオオシマザクラ(大島桜)P.lannesiana(Carr.)Wils.var.speciosa(Koidz.)Makinoがある。伊豆七島,伊豆半島,三浦半島,房総半島に分布していて,3月から4月ごろ開葉とともに開花する。タキギザクラ(薪桜)ともいわれ,薪炭用にするので,伊豆,三浦,房総の各半島では植林され,それが野生化したものもある。葉は大きくて毛がなく,縁には先がのぎ状の鋸歯があって,裏面は白みがない。オオシマザクラの葉は塩漬にして,桜餅を包むのに使われている。
4月の中旬から下旬になると,変化に富んだ花の咲く栽培のサトザクラ(里桜)P.lannesiana(Carr.)Wils.が咲いてくる。オオシマザクラを主として,それにヤマザクラ,オオヤマザクラなどが交雑したものから改良選出された園芸品種の総称であって,一重,八重,色の濃淡,香りのよいものなど多数の品種がある。一重でも太白のように花が大きくなり,花径5cm以上の大きな白花を開くものもある。サクラは花弁5枚が基本であるが,おしべが花弁に変化すると花弁が増加してきて,八重咲きになる。花弁化が不完全なときは葯だけが花弁状に変わり,花糸の先に旗のようにつくので,これを旗弁と呼んでいる。旗桜には旗弁があるので,この名がつけられた。御車返し(みくるまがえし)は一重の花と旗弁をもった6~8枚の花弁がある花が,同じ木に混じって咲くので〈八重一重〉ともいわれている。法輪寺や福禄寿,楊貴妃(ようきひ)などは花弁が15~20枚ある淡紅色大輪の花が咲く。公園によく植栽されている関山(かんざん)や普賢象(ふげんぞう)には花弁が30枚内外ある大きな花が咲き,これらの花を塩漬にしたものは桜湯に使われている。普賢象は室町時代から知られている古い品種で,花は長い柄があって垂れさがり,緑色の葉状に変化しためしべが2本ある。普賢象の名は普賢菩薩の乗ったゾウの鼻を花にたとえ,葉化しためしべの先に残っている2本の花柱をきばに見立てて名付けられたという。花弁が100枚から300枚以上にも増加した菊咲きのサクラもあり,兼六園菊桜は金沢の兼六園にあったサクラで,老木になると350枚から380枚の花弁のある花をつけ,一つの花の中にさらにもう一つの花が重なり,いわゆる二段咲きになっている。花色の変わったものもあり,鬱金(うこん)や御衣黄(ぎよいこう)は黄緑色の八重の花が咲く。
春も深まった5~6月になると,ミヤマザクラ(深山桜)P.maximowiczii Rupr.が咲く。花は花柄のもとに小さい葉をつけ,北海道から九州までの深山に生える。本州中部以北の高山や北海道に生えるタカネザクラ(高嶺桜,別名ミネザクラ(嶺桜))P.nipponica Matsum.や,葉柄,花柄などに毛のある変種のチシマザクラ(千島桜)var.kurilensis(Miyabe)Wils.は,山地の雪どけとともに咲く。
日本には初冬の季節はずれに毎年花が咲き,また4月にも再度花が咲く変わったサクラがある。フユザクラ(冬桜)P.×parvifolia Koehneはコバザクラ(小葉桜)ともいわれ,白色,一重の花が11月から12月いっぱい咲き,群馬県藤岡市の旧鬼石町の桜山では木枯しの吹くころに花見ができる。コヒガン系のものにも,八重咲きの十月桜や一重の四季桜のように,初冬と春の2回きまって咲くサクラがある。ヤマザクラ系の不断桜も季節はずれに咲き,10月下旬から4月下旬まで咲きつづける。
サクラ属ウワミズザクラ亜属のウワミズザクラP.grayana Maxim.やイヌザクラP.buergeriana Miq.などは小さい花が多数集まって細長い穂になって咲き,サクラといわれているが,とくに美しいものではない。ウワミズザクラは北海道南西部から九州までの山地に分布しており,花は白色で小さく,花弁より長いおしべがある。よく似たエゾノウワミズザクラP.padus L.(英名(European)bird cherry)は北海道など北半球の亜寒帯に広く分布するが,おしべが花弁より短いので区別できる。ウワミズザクラの花序の軸に数枚の葉をつけているが,本州,四国,九州,済州島に分布するイヌザクラの花序の軸には葉がない。本州中部以北,北海道の山地に生えるシウリザクラP.ssiori Fr.Schm.は花序の軸に葉があるが,おしべは花弁とほぼ同長で,葉は大型で,基部が心形である。バクチノキP.zippeliana Miq.やリンボクP.spinulosa Sieb.et Zucc.は暖地に分布する常緑高木で,秋に穂状の花を開く。
サクラは実生,接木,挿木などで繁殖させる。新品種の育成や台木用の苗作りは実生による。6月ごろ果実を採取して種子(核)を取り出したら,翌年の春まで土の中に貯蔵しておき,2月ごろまくのがよい。種子は乾燥させると発芽が悪くなる。八重桜などの園芸品種は,接木で繁殖する。台木はオオシマザクラの実生苗やアオハダの挿木苗が使われ,ヒガンザクラ系の台木にはエドヒガンの実生苗やヒガンダイザクラの挿木苗がつかわれる。植栽は日当りのよい適潤な肥沃地で,排水のよいところがよく,浅根性なので風当りの強くないところを選ぶ。〈サクラ切るばか,ウメ切らぬばか〉といわれるように,サクラは切口から腐りやすいので,やむをえず太い枝を切った場合には切口に殺菌剤の入った癒合剤を塗って腐食を防ぐ。また,天狗巣病,癌腫病などの病害にかかっている部分は切り取って焼却し,切口に癒合剤を塗るのがよい。葉を食害するオビカレハ(ウメケムシともいう),モンクロシャチホコ,アメリカシロヒトリ,コスカシバなどの虫がつきやすい。
執筆者:小林 義雄
近代以降の日本人は,子どもの時分から,サクラに関する予備観念を植え付けられてきた。いわく〈サクラは国花である〉,いわく〈サクラは日本のみの原産である〉と。そこで,日本男児と生まれたるものだれしも祖国のために桜花のごとく〈散りぎわ美しく〉死んでこそ本懐と心得るべきであると教え込まれ,多くの若者が数次の戦争に狩り出されては〈死に急ぐ〉といった痛ましい事態が起こった。また,それとはまったく正反対の社会事象ということになるが,第2次世界大戦が終息した直後,日本国じゅうの公園や並木通りのサクラが,忌まわしい軍国主義や忠君愛国のシンボルだからとの理由で,容赦なく切り倒されてしまった。植物文化史を通観しても,これほどまでに一つの国民が一つの植物を玩弄(がんろう)し冒瀆(ぼうとく)した事例はほかに見当たらないであろうと思われる。いったい,〈国花〉なる概念からして,学問的根拠もなにもない,すこぶるいいかげんな取決めによるものでしかない。そして,明治国家のオピニオン・リーダーが脱亜入欧政策の一環として新たに植え付けた〈国花はサクラ〉という考えのおかげで,いまだに大多数の日本人は,サクラを愛するに当たり,国花だからサクラを愛するといった心理的虚構に寄りかかったままである。
また〈サクラは日本のみの原産〉とする通説がある。しかし,サクラは中国(四川省,雲南省ほか)にもたくさん自生し,インドやミャンマーの山岳地帯にはヒマラヤザクラPrunus cerasoidesやヒマラヤヒザクラP.carmesinaが美しい花を咲かせており,日本以外にもサクラの原産地があったことを知らされる。セイヨウミザクラP.aviumおよびスミノミザクラ(酸果桜桃)P.cerasusに至っては,小アジアから東ヨーロッパ,北ヨーロッパにかけて森林のなかにはいくらでも自生する。セイヨウミザクラは,自生種はそれほどでもないが,園芸品種になると案外に美しい花をつける。オランダ経由で早くからアメリカへ渡ったサクラも,この美しいセイヨウミザクラの1種であり,現在でも,アメリカ北部や中西部で美しい花を咲かせて日本人来訪者を驚かせるサクラは,このセイヨウミザクラのほうの子孫である。--これら明白な事実も,永い間,日本人には隠蔽されていた。〈さくら博士〉として有名な三好学(1861-1939)が大正デモクラシー期に刊行した《人生植物学》(1918)には,〈昔は支那には桜は無いやうに思ったが,今日では多数の桜が西部幷(ならび)に西南部の山中で発見された〉〈印度にはヒマラヤ桜(Prunus Puddum)と云ふ美しい種類があって,ヒマラヤの中腹に生えて居る。日本の紅山桜に似て,花が赤く,且(かつ)萼(がく)が粘(ねば)る〉とある。ところが,この正しい科学的記述は後退を余儀なくされ,同じ三好が昭和10年代に出した《桜》(1938)では,これらに関する記述はぼかされてしまっている。自然科学的学問業績もときとして政治権力の圧力に屈服することのありうる事例の一つである。
しからば,いつごろから日本人はサクラを日本固有の花と思い込むようになったか。従来は,《古事記》上巻に〈爾(ここ)に“誰(た)が女(むすめ)ぞ”と問ひたまへば,答へ白(もう)ししく,“大山津見神(おおやまつみのかみ)の女,名は神阿多都比売(かむあたつひめ),亦の名は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と謂ふ”とまをしき〉とあるコノハナノサクヤビメの〈サクヤ〉が音声的に転化して〈サクラ〉になったのだから,神代の時代にサクラは存在し,したがってサクラは日本固有のものであると主張されてきた。だが,サクヤがサクラに転化したという説明(本居宣長《古事記伝》以来の定説)だけで,サクラを日本固有の植物とする議論は成り立ちにくい。ついで《日本書紀》に2ヵ所あらわれるサクラは,一つは履中天皇の宮殿〈稚桜宮(わかざくらのみや)〉とその御名代(みなしろ)である〈稚桜部〉との命名由来,もう一つは允恭天皇と衣通郎姫(そとおりのいらつめ)との恋愛ロマンスである。ともに,白文で〈時桜花落于御盞〉〈天皇見井傍桜華〉と表記されているから,強大となった大和王権とサクラとの結びつきを想定することは必ずしも無理ではない。サクラが登場する文献のうちで3番目に位置する《懐風藻》(751成立)のサクラは2ヵ所,一つは近江守采女朝臣比良夫(おうみのかみうねめのあそみひらふ)の五言詩に〈葉緑園柳月 花紅山桜春〉(葉は緑なり園柳の月,花は紅(くれない)なり山桜(さんおう)の春),他は長屋王(ながやのおおきみ)の五言詩に〈松烟双吐翠 桜柳分含新〉(松烟(しようえん)双(なら)びて翠(みどり)を吐(は)き,桜柳(おうりゆう)分(わ)きて新(あたら)しきことを含(ふふ)む)に見えている。7~8世紀の日本律令貴族知識人らが先進国の中国文化を懸命に模倣=学習したことは周知であるが,この〈葉緑園柳月 花紅山桜春〉も,じつは《文選(もんぜん)》十四所収の沈休文の有名な五言詩〈早(つと)に定山を発す〉の中の〈野棠開未落 山桜発欲然〉(野棠(やとう)は開いて未だ落ちず,山桜は発(ひら)いて然(も)えんとす)を下敷きにして換骨奪胎したものにすぎなかった。結局,日本の律令知識階級にとって,サクラを賞美する行為は,それが中国詩文に見えていたればこそ模倣する値うちがある,というふうに了解されていたのである。《万葉集》にもサクラの歌が44首見えるが,この数はウメの歌118首に比較するとはるかに少ない。詩歌の手本になっている中国詩文におけるサクラの扱い方が,ウメに比べてはるかに小さかったためと考えられる。その後,勅撰三大漢詩集(《凌雲集(りよううんしゆう)》《文華秀麗集》《経国集》)の時代でも,サクラはウメよりも軽い地位に置かれ,摂関期の《古今和歌集》になって初めて数量的にウメを圧倒するに至る。これをもって,日本化の自覚のあらわれと賞賛する論者もあるが,一方,平安王朝文化が華美軽佻に流れた証拠だと見る論者もあり,《古今和歌集》の美学的規範そのものは中国詩文的教養に根ざしていたことのみは否定しようもない。
ともかく,このようにして,《懐風藻》このかた,古代の日本知識人は,中国にサクラがないなどといった謬見(びゆうけん)を抱いたためしはなかった。古代ばかりではない。中世随想家も,戦国武将も,彼らは一様にサクラを愛したことにまちがいはないが,しかも,ひとりとしてサクラが日本にしかない固有の花木だなどと主張した者はいない。日本のサクラの美しいのは絶対だが,もろこしにもこの美しい花はあるはずだから当然そこでも賞愛されているだろうと,そう思っていた。西行法師の〈ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月(もちづき)の頃(ころ)〉〈ほとけには桜の花をたてまつれ我が後(のち)の世を人とぶらはば〉の和歌や,長谷川等伯,久蔵親子の智積院障屛画〈桜図〉には,サクラを〈世界の花〉として賞美する精神姿勢以外の狭小な志向はまったく感じられないではないか。
サクラを〈日本国原産の花〉という謬見のほうへ引きずり込んでいったのは,かえって近世の学者,それも一流の学者であった。貝原益軒《花譜》(1698)の〈二月/桜〉の項をみると,〈文選の詩に,山桜は果の名,花朱,色火のごとし,とあれば,日本の桜にはあらず。からのふみに,日本の桜のごとくなるはいまだみず。長崎にて,から人にたづねしにも,なしとこたふる〉とある。この貝原説が,中国にサクラが存在しないことを主張した最初である。さらに10年後の《大和本草》(1709)では,前著の〈から人〉の実名を挙げ,〈日本の桜と云物(いうもの)は,中華に之(これ)無き由,延宝年中長崎に来りし何清甫(かせいほ)いへり。若(もし)あらば中華の書に記し,詩文に述作し,賞詠すべきに此樹なきと云は,実説なるべし。朝鮮にはあり〉と記す。すなわち,福岡藩儒医で,当時,日本最高の博物学者であった貝原益軒(1630-1714)は,わざわざ長崎へ行き,中国から来た貿易商人に会って質問し,中国にサクラがないという情報を得,これをもとに叙上の記載をなしたのである。サクラが中国にないという新情報は,延宝年間(1673-81)の日本知識人に強烈な衝撃を与えたらしく,もうひとり,同時代の百科全書的大学者である新井白石(1657-1725)も,近世言語学の古典と仰がれる《東雅(とうが)》(生前未刊行,写本のみ流布)のなかに〈むかし朱舜水(しゆしゆんすい)に,ここの桜花の事を問ひしに,桜桃は此にいふサクラにあらず,唐山にしても,もし此にいふサクラにあらむには,梨花(りか)海棠(かいどう)の如き,数ふるにたらじと,我師也(わがしなりし)人は語りき〉と記述している。わが師なりし人とは木下順庵(1621-98)をさし,朱舜水(1600-82)とは長崎に亡命してきた明の儒者で,のちに帰化して水戸藩で古学的儀礼や農業実学などを講じた学者である。結局,亡命インテリ朱舜水は,中国奥地にはサクラの自生地がいくらでもあるのを知らず,自分の狭い生活地域空間のなかでの知識をもとに,中国にはサクラがないと答えてしまい,さきの貝原益軒著作に名の挙がっている何清甫の情報を正しいとする証言を行ったのである。
そして,延宝年間から100年経過した明和・安永・天明(1764-89)ごろになると,国学者らによって,サクラは日本にしかないという考え方が増幅され拡大解釈され,それを基礎にして,まったく新しい命題の理論化が図られるようになる。本居宣長が,有名な〈しきしまの大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山桜花〉と歌いあげて,日本観念論の勝利を宣言する段階では,もはやだれひとり中国にサクラがあるとは信じなくなってしまっていた。
もちろん,幕末本草学者のなかには,誤報=誤伝に基づく学説に訂正要求を突き付ける人もあるにはあった。江戸幕府の命を受けて江戸医学館で本草学を講義し,また大著《本草綱目啓蒙》(1803)の著者としても名高い小野蘭山(1729-1810)は,弟子の井岡冽(れつ)に筆記させた《大和本草批正(ひせい)》というゼミナール速記録のなかで,貝原益軒の犯した誤謬をひとつひとつ指摘し,〈中華に桜と云ふは朱花なり。欲然と云こと,桃及杏にも賦せり。然らば正朱色を云にも非ず。桜にも用ゐて可なり。中華にては桜と桜桃とを混ず〉〈紅毛には桜あり。○どゝにうす,図あり〉と明言している。ドドネウスRembertus Dodonaeus《草木誌Cruydt-Boeck》(1554)は,日本へはオランダ語版1618年刊と1644年刊と2種類のものが入ってきており,一目瞭然(りようぜん),16世紀以前のオランダ(ドドネウスはライデン大学医学教授であった)に美しいサクラが咲いていた事実がわかる。1659年(万治2)3月に和蘭(オランダ)商館長ワーヘナルが幕府に献上したドドネウス《草木誌》を,小野蘭山は,江戸の医学館かどこかで手に取りたしかめたから,自信をもって〈紅毛には桜あり〉といい切ることができたのであろう。
だが,幕末社会全体の文化動向としては,このときにはすでに〈国学の勝利〉のほうが決定的なものになっており,また尊王攘夷の勢いのほうが日増しに強くなり,サクラに関する科学的真理になどだれも耳を貸さなくなっていた。誤報=誤伝に端緒づけられた〈サクラ日本原産説〉〈サクラ国民性論〉は,明治近代ナショナリズムに受け継がれることとなった。
執筆者:斎藤 正二
西洋で話題になるサクラはほとんどの場合サクランボ(セイヨウミザクラ)のことで,チェーホフ《桜の園》も日本的な観賞用サクラの庭園ではなく,サクランボ果樹園を舞台としている。またG.ワシントンが切り倒したことを正直に父親にわびたという有名な逸話に登場するサクラの木も,農園のサクランボであった。しかし,アメリカのポトマック河畔の有名なサクラ並木は,1909年に東京市長尾崎行雄が贈ったソメイヨシノなどをもととしている。ただし同年に贈られた2000本の苗木は虫害のためすべて焼却され,12年に改めて3100本が贈られた。
サクラは一般に春,純血,処女の象徴で,キリスト教伝説ではその中のサクランボがマリアの聖木とされる。マリアがこの実を夫のヨセフに求めて拒絶されたとき,枝がマリアの口もとにまでたわんできたといい,そこから花は処女の美しさに,サクランボは天国の果実にたとえられるようになった。またイギリスではサクランボを1粒ずつ食べながら,結婚できるかどうかうかがいを立てる恋占いがある。花ことばは〈教養〉〈精神美〉,日本のサクラは〈富と繁栄〉,実が二つついたサクランボは〈幸運〉や〈恋人の魅惑〉の象徴とされる。なおサンカオウトウの仁(じん)は青酸成分を有し,民間で鎮痛薬として用いられた。
執筆者:荒俣 宏
栃木県中部の市。2005年3月氏家(うじいえ)町と喜連川(きつれがわ)町が合体して成立した。人口4万4768(2010)。
さくら市南西部の旧町。旧塩谷郡所属。人口2万8720(2000)。関東平野の北端に位置し,鬼怒川東岸の平地を占める。中心集落の氏家は近世には奥州街道の宿場町で,1898年に東北本線が付け替えられて氏家駅ができてから塩谷郡南部の中心となった。南西端にある上阿久津は明治期まで鬼怒川舟運の終点として栄えた。宇都宮藩家老山崎半蔵によって1656年(明暦2)鬼怒川から取水する市ノ堀用水が開削されてから水田が開け,現在も総面積に占める耕地の割合が高い。水田単作地帯であったが,近年は野菜や花卉の施設園芸が増えている。製靴,コンクリート製品などの中小工場もある。勝山に民俗資料館があり,日本ののこぎり約600点が展示されている(現在は同じ勝山のさくら市ミュージアムに展示)。氏家氏の勝山城跡がある。
さくら市北東部の旧町。旧塩谷郡所属。人口1万4171(2000)。矢板市の東に接する。那珂川支流の江川や内川,荒川などによって開析された喜連川丘陵が北西から南東方向に走る。中心集落の喜連川は近世を通じて喜連川氏の陣屋がおかれ,また奥州道中の宿場町として栄えた。明治以降は鉄道,国道からはずれたため停滞した。産業の中心は農業で,米作のほか養鶏も行われる。清流を利用したアユの養殖は県内生産量の過半を占める。東北自動車道矢板インターチェンジに近い西部の丘陵地に大規模な工業団地が造成され,三菱自動車研究所が進出している。
執筆者:千葉 立也
下野国の奥州道中の宿場で,喜連川氏の封地。古くは東山道すなわち奥州白河関へ抜ける街道にあたる。中世は土豪塩谷氏の居城があったが,1590年(天正18)豊臣秀吉が,古河公方足利氏を復活させて3500石を与え,徳川家康は喜連川(足利)頼氏を5000石に加増した。喜連川氏は10万石に相当する別格の待遇を受け,参勤交代や領民への諸課役を免ぜられた。近世の奥州道中は,1600年(慶長5)関ヶ原の戦に先立って,上杉氏攻撃のため小山城に出陣した家康が,大田原城を強化したように,当初から重視され,宇都宮~氏家~喜連川~佐久山~大田原から白河関へ抜ける道が,本街道となった。中でも喜連川宿は那須郡の小川,馬頭方面ならびに烏山城下へそれぞれ分岐する要地であった。荒川左岸の小城下は,大小100名に満たない小家臣団の居住地と,天保年間(1830-44)に290軒ほどを数える宿の町並みで構成されていた。旅籠屋は30~40軒ほどであった。
執筆者:河内 八郎
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…後期ローマ帝国の財政は3部門で運営された。皇帝財産はおもに皇帝領を管理し,聖恩賜局(サクラエ・ラルギティオネスsacrae largitiones)は鉱山,鋳造所,国営工場を管理し,現金税を徴収し,軍隊に賜金を払った。3部門のうち最も重要なものは親衛隊長官の役所で,兵士や役人への食糧配給,帝国公共便や公共建築の維持,毎年の現物税の徴収額を計算する任を負った。…
…バラ科の落葉果樹。園芸上は核果類に属し,オウトウ(桜桃)という。サクラ類の果実は1個の核をやわらかく多汁な果肉が包みこんでいるので,多くのものが食べられ,ソメイヨシノやヤマザクラの果実も苦くて美味ではないが,子どもが遊びに食べることがある。また食用にするために栽培されるサクラの種類もいくつかある。広い意味でのサクランボはサクラ類の果実を総称するが,園芸上では栽培種の果実をサクランボと称している。そのなかで日本の果樹として重要なものはセイヨウミザクラ(甘果オウトウ)P.avium L.(英名sweet cherry)で,サクランボの名称で市販されている果物は大部分が本種である。…
…中国原産の落葉小高木で,バラ科サクラ属のウメ亜属に分類される(イラスト)。ムメともいう。…
…古く男女が自然植物の花や枝葉をめで,これを頭髪にさして飾りとした風習があったが,のち中国から伝わった冠の飾りにつけた髻華(うず)と習合して,ながく年中行事のうちの一部にこの風習が伝えられた。そのおもなものは大嘗会(だいじようえ),賀茂や石清水の臨時祭(使いや舞人,陪従など),政治的な行事では列見や定考(こうじよう)のとき,また踏歌節会(とうかのせちえ)のときなどで,さす花にはフジ,サクラ,ヤマブキ,リンドウ,キク,ササ,カツラなどがあった。これらは,さす人や行事によって種類がちがい,フジの花は大嘗会のとき天皇および祭使が,また列見のとき大臣などが巾子の左にさす。…
… 日本の場合は法律で定められた国花はない。しかし,一般にはサクラないしキクが日本を表徴する花として用いられていることが多い。【野村 通年】。…
…桜の花を観賞するために野山に遊びに行く行事。酒や馳走を用意し,花を見ながら宴を催す。特定の庭園の桜のもとで行う例も多い。現代も盛んで,花の時期には桜の名所は花見客でにぎわう。露地に敷物を敷いて席を設け,飲み食いをし,歌い踊ってさわぐのは,江戸時代に,江戸,大坂,京都などの大都市を中心に発達した庶民の花見の風俗の継承である。元来,花見は個人の趣味ではなく,社会慣習になっていたところに意味がある。中国・近畿・関東地方では,旧暦3月3日か4日に,山に登って飲食をする行事を,花見と称した。…
…大和国南部の地名。狭義には吉野川流域の吉野山など表吉野をさすが,広義には十津川・北山川流域など奥吉野も含まれる。吉野川沿いの宮滝遺跡は,縄文・弥生以来の複合遺跡であるように,原始以来文化の発展がみられた。《日本書紀》には神武紀から吉野が登場し,吉野国神(くにつかみ),吉野国栖(樔)(くず)などの伝承が著名。宮滝遺跡にあったと推定される吉野宮(よしののみや)は同応神紀に初見し,壬申の乱において大海人(おおあま)皇子(天武天皇)は吉野に逃れてから挙兵,吉野宮にはとくに持統朝にしばしば行幸が行われた。…
…奈良県吉野郡吉野町の山。大峰山脈の北端で,金峰山(きんぷせん)(青根ヶ峰)から北西方向につらなる約8kmの山稜部分を称する。大峰山の入口で,金峰山修験本宗の総本山金峯山寺(蔵王堂)があり,また源義経や南朝ゆかりの史跡や伝承地に富む。役行者(えんのぎようじや)によって蔵王権現の神木とされたという桜は,参詣者などの献木により一山を埋め,吉野神宮付近の下千本,如意輪寺付近の中千本,吉野水分(みくまり)神社付近の上千本,西行庵付近の奥千本として有名。…
※「さくら」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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