出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
炊飯や湯沸しに用いる蓋つきの器具。釜を〈かま〉とよむのは,古代朝鮮語の音によるとも,竈(かまど)から転じたともいう。《正倉院文書》《延喜式》などの記録をみると,釜と竈はしばしば混同されていたようである。《和名抄》では釜を加奈閉(かなえ),末路賀奈倍(まろかなえ)と訓じ,足のない底の丸い釜としている。古くは土器で,古墳の副葬品としては,竈,釜,甑(こしき)がひとそろいで発掘されている。金属製の釜は,中国古代に現れた3本足の鼎(てい)を祖型として発達したものと考えられ,日本への渡来時期は不明だが,奈良時代には盛んに用いられていた。多くは鋳鉄製で,銅製もあった。江戸時代の《和漢三才図会》では,鼎(あしかなえ),釜(まろかなえ),鑵子(かんす),鍑(さがり)などの種類をあげている。鼎は足釜,釜は丸底の煮炊き用,鑵子は茶釜,鍑は懸釜のことである。このほか,湯屋用の大釜もあり,東大寺大湯屋には鎌倉時代に重源が作らせた鉄製大釜(口径232cm)がのこっている。
執筆者:大角 幸枝
一般に飯炊き釜は中央部よりやや上に羽(鍔(つば)ともいう)がつき,羽釜(はがま)と呼ばれる。鍋より深く,口が狭く,竈に載せて用いる。煮炊きを囲炉裏で行う地方では鍋が古くから使われたが,江戸時代末期から都市を中心にしだいに羽釜が広まった。羽釜の羽は,薪などを燃料とする場合,熱効率を高め,煤煙を減少させるのに効果があった。蓋には分厚く重い木が使われ,飯をむらすのにつごうがよいといわれ,さらに重石を載せることも行われたが,実際の効果は少ない。蓋に下駄の歯のような2本の把手がつくのは,木のそりを防ぐためである。羽釜は自動炊飯器の普及によって,今日ではほとんど利用されなくなった。
執筆者:佐々田 道子
茶の湯の礼式に用いられる湯を沸かす釜。ほとんどが鋳鉄製であるが,銅,銀,金などもある。湯釜は奈良時代から作られており,平安時代には厨房具として用いられていたが,鎌倉時代に至って茶の湯の興隆に伴い,専用の茶の湯釜が製作された。伝説では建仁年間(1201-04)に明恵が筑前芦屋の鋳工に釜を鋳させたのが始りという。その祖型は在来の飯釜,湯釜に求められるが,しだいに工芸品として完成されていった。基本形は,共蓋または唐銅蓋をそなえ,胴に2個の鐶付(かんつき)を持つもので,真形(しんなり)釜と呼ぶが,産地,時代,釜師によってさまざまな形態が作り出されており,さらに文様,作者,所持者,伝来などに由来する名称がつけられる。
産地としては,筑前芦屋と下野天明(てんみよう)が古くから知られる。芦屋釜は大内氏歴代の保護により栄えたが,大内氏が滅び京釜が隆盛をみるとしだいに衰退し,江戸時代初期には終滅した。芦屋の鋳物師には大江,太田,藤原などの家系がある。また博多,肥前,伊勢,越前,播磨,石見,伊予などに鋳工が移住して芦屋系の作風を広めた。芦屋釜の特色は滑らかな地肌と絵画的地紋にある。真形釜が多く,古いものは羽釜の形式をとっている。天明釜は平安時代からの鋳物製作を継承した関東を代表する釜で,室町時代には盛んに京都に運ばれ,珍重されたと考えられる。無地釜が多く,早くから羽を持たない釜が作られた。天明の鋳物師には卜部姓が多い。相模小田原にも分派があり,小田原天猫と呼ぶ。芦屋,天明の次に栄えたのは京都三条釜座で作られた京釜である。室町時代末期に始まり,西村道仁,辻与次郎などの名人を輩出し,名越家,西村家,大西家などが興り,諸家は千家をはじめとする茶匠と,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康などの権力者の保護のもとに栄え,一部の家系は現在に至っている。名越,大西両家のように江戸に分派を興した家もある。また加賀前田家の保護により現代に及ぶ宮崎家など地方で活躍した釜師も多い。
執筆者:大角 幸枝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ご飯を炊いたり、湯を沸かすのに用いる陶製または金属製の容器。普通、鍋(なべ)よりも底が深く、口が狭く、上部(甑(こしき))と底部の境に鍔(つば)(羽口(はぐち))をつくり、飯釜(めしがま)には重厚な木蓋(きぶた)を置くが、湯釜にはつまみのある、釜と同材の蓋を置く。飯釜の大きさは、その炊く米の容量をもって何升炊きといい、湯釜の大きさは、その口径をもって何寸という。またその個数を数える単位は古くは何枚といった。
釜はカナエ(鼎)が訛(なま)ったもので、古くはマロガナエ(円鼎)ともいい、すでに奈良時代に製作されていた。もともとは湯を沸かすためのもので、以前は飯を蒸すには甑が、飯を炊くにはもっぱら鍋が使用されていた。鍋は、糅飯(かてめし)(米にほかのものを混ぜて炊いた飯)や麦飯を炊く湯とりの方法に適し、つるがあるので自在鉤(かぎ)にかけて、いろりでする炊事に便利であった。これに対し釜は、米の飯の炊乾(たきぼし)の方法に適していたので、近世に入って米食が普及し、竈(かまど)が改良されるとともに、ようやく炊飯用として一般化した。ここに、飯釜と湯釜の別も生じ、飯釜を単にカマとよび、湯釜をチャガマ、カンスなどというようになった。なお、昭和30年代ころからは家庭燃料がほとんどガスや電気となり、飯を炊く道具も電熱・ガスを利用する自動炊飯器が広く普及している。
[宮本瑞夫]
炊飯用の羽釜(はがま)に一升(1.8リットル)または三升炊きのものから、一合ぐらいの釜飯(かまめし)用の小さなものもある。また村寄合や大家族の家など大量炊事用には、鍔がなく上のほうに開いた平釜が用いられた。このほか、圧力を利用する圧力釜、湯沸かし専用の茶釜、茶の湯に用いる口の小さい鑵子(かんす)とよばれるものなどがある。また製造工業用の大型のものなど、用途によっていろいろである。特殊なものとしては、釜の内に仕切りがあって、口が二つある湯茶両様を兼ねた銅壺(どうこ)などもあり、これはもっぱら大きな商家や遊女屋などの主人に愛用された。
なお釜は、鉄製、銅製、アルミニウム製、陶製、土製のものが多く、蓋には重くてじょうぶなケヤキやカシが使われ、茶の湯釜の蓋には、釜と同材の銅製、銀製、真鍮(しんちゅう)製などが用いられた。
[宮本瑞夫]
釜に関する俗信や習俗も多くみられるが、古く『拾芥抄(しゅうかいしょう)』に、釜から発する「釜鳴り」によって吉凶を占う風習がみられる。また古くからの俗説に、地獄で罪人を煮るという地獄の釜は、盆と正月の16日に限り蓋をあけ、罪人を許すと信じられ、群馬県多野郡では、盆の16日を「釜の口開(くちあき)」とよび、茨城県の旧新治(にいはり)郡地方では旧7月1日を「釜蓋開(かまぶたあき)」とよんでいる。この日は、精霊が地獄を出るので、土に耳を当てるとその音が聞こえると信じられていた。そのほか、九州北部には、結婚の当日、花嫁の頭に釜の蓋をかぶせる「釜蓋被(かまぶたかぶせ)」の習俗などもみられる。
[宮本瑞夫]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…炊飯や湯沸しに用いる蓋つきの器具。釜を〈かま〉とよむのは,古代朝鮮語の音によるとも,竈(かまど)から転じたともいう。《正倉院文書》《延喜式》などの記録をみると,釜と竈はしばしば混同されていたようである。…
…これは穴の中で缶(ほとぎ)を焼成することを意味する。日本の竈は炊事のカマドから出ており,釜という字も用いられたが,明治以降は窯の字が一般化している。 日本では最古の縄文土器を焼成した窯はまだ知られていない。…
※「釜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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