荘田平五郎
没年:大正11.4.30(1922)
生年:弘化4.10.1(1847.11.8)
明治時代の実業家。三菱財閥の経営者で,福沢諭吉系財界人の指導的存在。豊後国(大分県)臼杵藩士荘田雅太郎,セツの長男。臼杵生まれ。維新前後に藩より英学修業のため江戸,鹿児島に派遣されたのち,明治3(1870)年慶応義塾に入学,2年後には教師の資格を得た。大阪分校設立の任に当たるなど,福沢諭吉の信頼厚く,塾長格的存在であった。8年2月三菱蒸汽船会社社長岩崎弥太郎から幹部人材として嘱望され,三菱に転じた。三菱会社(8年9月郵便汽船三菱会社と改称)では,翻訳係,複式簿記の導入,会社規則(定款)制定等の重要な職務を担当した。岩崎社長から寄せられた期待の大きさは,岩崎の姪田鶴と結婚した事情からもうかがわれる。12年には本社管事として飛躍する三菱の首脳部の一角を形成するに至った。他方,福沢およびその門下生たちと協力し,福沢の盟友である岩崎の出資を得て,東京海上,明治生命,山陽鉄道などの創立,経営に当たった。 18年,岩崎社長が死去してその弟弥之助があとを継ぎ,三菱会社の海運事業を日本郵船に譲渡して,炭鉱,造船など陸の事業へと展開すると,弥之助社長のために大いに貢献した。先輩格の本社管事川田小一郎が22年に日銀総裁に就任したこともあって,弥太郎死後の三菱は弥之助社長,荘田管事のコンビを軸に動いたといえる。臼杵藩士が設立し,経営難に陥っていた第百十九国立銀行を三菱の傘下に吸収するよう斡旋したこと(三菱銀行の前身),21年からの1年間の海外視察中に製鉄業とビル街建設を提案したこと,製鉄業が無理と知るや造船業の拡充を主張,自ら造船所長を兼任して現地で長崎造船所の近代化工事を指揮したことなど,功績は大きい。41年に岩崎弥之助が死ぬと,2年後管事を退き,三菱系企業の役員として余生を送った。<参考文献>宿利重一『荘田平五郎』
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荘田平五郎(しょうだへいごろう)
しょうだへいごろう
(1847―1922)
明治期の三菱(みつびし)財閥の最高幹部。豊後(ぶんご)国(大分県)臼杵(うすき)に下級武士の長男として生まれる。慶応義塾を卒業後、1875年(明治8)に三菱商会に入社した。有名な「三菱会社社則」や「郵便汽船三菱会社簿記法」を起草した。80年には若くして最高幹部に任ぜられた。85年に郷里の第百十九、第百四十九の両国立銀行が破綻(はたん)すると経営を受け継ぎ、三菱の銀行経営の端緒をつくった。三菱が東京・丸ノ内の原野を陸軍から買ってビル街を建設したのは、荘田の進言によるものであった。97年から長崎造船所の支配人として労務管理制度をつくり、工業予備校を創設した。94年から1910年(明治43)まで三菱合資本社の支配人になり、また東京海上(現東京海上日動火災)、明治生命(現明治安田生命)の会長をはじめ、傍系企業の役員を多数兼任した。合理主義に徹し、固い信念と明確な計算で行動し、三菱の最初の近代的専門経営者であった。妻は三菱の創設者岩崎弥太郎(やたろう)の妹藤岡サキの長女田鶴(たづる)である。
[三島康雄]
『宿利重一著『荘田平五郎』(1932・対胸舎)』
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荘田平五郎 (しょうだへいごろう)
生没年:1847-1922(弘化4-大正11)
明治期の三菱財閥の経営者。豊後国臼杵藩の下級武士の長男として臼杵で生まれる。慶応義塾に学んだ後,1875年に三菱商会に入社し,三菱会社社則や郵便汽船三菱会社簿記法を起草し,80年には早くも最高幹部の一等級管事に任ぜられた。同郷の者が経営していた第百十九,第百四十九の両国立銀行が85年に破綻すると,これを引き継ぐように進言し,三菱の銀行経営の端緒をつくった。彼の意見によって,三菱は89年に丸の内の原野を陸軍から買ってビル街を建設した。97年三菱長崎造船所の支配人に就任,その基盤をととのえた。1894年三菱合資本社の支配人になり,1910年に退職するまで三菱財閥の中枢を歩み,また日本郵船,東京海上保険,明治生命保険,筑豊鉄道,東京倉庫などの三菱系企業の重役を兼任した。合理主義者で冷徹な計算と固い信念で行動し,三菱のあらゆる組織づくりに関係した。
執筆者:三島 康雄
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荘田 平五郎
ショウダ ヘイゴロウ
明治期の実業家 三菱長崎造船所支配人。
- 生年
- 弘化4年10月1日(1847年)
- 没年
- 大正11(1922)年4月30日
- 出生地
- 豊後国臼杵(大分県)
- 経歴
- 臼杵藩士の子。少年期には藩校集成館で白山照山に学び、のち鹿児島開成所に学ぶ。明治3年慶応義塾に入り、福沢諭吉の下で教鞭をとる。8年岩崎弥太郎から嘱望され三菱汽船会社(三菱会社)に入り翻訳係となり、13年管事兼会計課長、18年日本郵船理事、19年三菱社支配人を経て、20年三菱長崎造船所に支配人として赴任、三菱の造船・造機部門興隆の基礎作りに貢献する。この間、東京丸の内ビル街建設を遂行。この他、保険事業にも関与し、29年東京海上火災保険、大正6年明治生命保険の取締役会長となり、別に日本勧業銀行設立委員、東京商業会議所特別議員を務めた。
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荘田平五郎
しょうだへいごろう
[生]弘化4(1847).10.1. 臼杵
[没]1912.4.30. 東京
明治の実業家,三菱財閥の経営者。臼杵藩士で儒者の父をもち,少年期に洋学を修め,維新後慶應義塾に学び福沢諭吉にその才を愛された。 1873年岩崎弥太郎の三菱に入り,彼の姪と結婚,弥太郎の死後は2代目の弥之助のもとで三菱合資 (1893設立) の筆頭管事としてその経営をほとんど掌握した。東京丸の内の土地を買収して三菱地所の基礎を築き,長崎,神戸両造船所を発展させて三菱重工業の基礎を築いたほか,東京海上火災,明治生命の創業などでも,大きな役割を果たした。近代的会社経営の諸制度,簿記,原価計算,職制などを導入した実務的指導者であった。東京商業会議所特別議員なども務めた。
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荘田平五郎【しょうだへいごろう】
実業家。豊後(ぶんご)国臼杵(うすき)藩士の出身。慶応義塾に学び,福沢諭吉に愛されて母校の教壇に立ったが,1875年招かれて三菱商会に入り,のち三菱の大番頭となった。特に東京丸の内ビル街の建設,長崎造船所の経営および保険事業(東京海上保険・明治生命保険)で活躍し,三菱財閥の組織づくり,工業化に貢献した。
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荘田平五郎 しょうだ-へいごろう
1847-1922 明治-大正時代の実業家。
弘化(こうか)4年10月1日生まれ。慶応義塾でまなぶ。明治8年三菱にはいり,13年管事となって東京海上,明治生命などの創立のほか,三菱の銀行・海運業務の基礎づくりにつとめる。長崎造船所の拡張,陸軍練兵場の買収による東京丸の内街の建設などもすすめた。大正11年4月30日死去。76歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。
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荘田 平五郎 (しょうだ へいごろう)
生年月日:1847年10月1日
明治時代の実業家。東京海上会長;明治生命会長
1922年没
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