菖蒲村(読み)しようぶむら

日本歴史地名大系 「菖蒲村」の解説

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]秦野市菖蒲

東端を四十八瀬しじゆうはつせ(当村では川音川・菖蒲川)が北から南西に流れる。足柄上あしがらかみ郡に属する。北は柳川やながわ村・三廻部みくるべ村、南は松田惣領まつだそうりよう(現松田町)大住おおすみ村、東は四十八瀬川を隔て大住郡堀斎藤ほりさいとう村・堀沼城ほりぬましろ村、西は足柄上郡萱沼かやぬま(現松田町)八沢はつさわ村に接する。南端を矢倉沢やぐらさわ往還が東西に通る。この往還は四十八瀬川出水の節は、川下の松田惣領から足柄上郡神山こうやま(現松田町)へ渡り、同郡篠窪しのくぼ(現大井町)を経て大住郡渋沢しぶさわ村に抜ける。「吾妻鏡」建保元年(一二一三)五月七日条によれば、当国「菖蒲」の地が和田合戦の勲功の賞として北条義時に与えられている。小田原衆所領役帳には遠山藤六「六拾貫弐百八拾七文 西郡菖蒲・柳川」とある。

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]鳥取市菖蒲

古海ふるみ村の南、千代川西岸にある。支村として中土居なかどい初岡はつおか合同寺ごうどうじ網原あみはらがあり(因幡志)、永享二年(一四三〇)七月四日の東福寺領因幡古海郷年貢注文(東福寺文書)には同郷内礒安名半分の名主として合同寺左衛門の名がみえている。天正八年(一五八〇)一〇月二八日付の吉川元春の裏判がある田公高次所領目録(岩国徴古館蔵)には惣領又三郎領地分に「志やうふ 五十石」がある。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳には「服部 菖蒲」とみえ、高一千一六八石余、田六五町七反余・圃二六町三反余、物成九五五石余。藩政期の拝領高六七〇石余、本免五ツ九分、藪役銀二匁・山役銀二四匁五分・川役銀五〇匁を課されていた(藩史)

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]上那賀町菖蒲

檜曾根ひそね村の北西菖蒲谷しようぶだに川の流域山間に位置する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「志やうふ村」とみえ、那西なさい郡に属した。正保国絵図では「西納村内菖蒲村」とある。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では西納にしなう(現相生町)の枝村として村名を記す。文化一〇年(一八一三)の高都帳によると高一五石余。「阿波志」では高二一石で水陸田四町八反。天保郷帳には記載がなく西納村または長安ながやす村の高に含まれるとみられる。文政九年(一八二六)の村高家数共相調差出帳(湯浅家文書)によれば高一八石余。

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]大島村菖蒲

保倉ほくら川上流の両岸に位置し、北東はうしはな村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では集落は大島川(現保倉川)の左岸にみえ、「林辺三郎兵衛分菖蒲村 下」とあり、本納三〇石三斗・縄高六一石三斗四升七合五勺、家七軒・三二人。正保国絵図では高一二八石余。天和三年郷帳では高二〇八石三斗余、うち山高五斗四升・漆高一石四斗四升・青苧高三斗六升三合、新田高八七石二斗余、反別田二一町三反余・畑屋敷一〇町二反余。

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]上山市菖蒲

萱平かやたいら川と菖蒲川の合流点近くに位置し、西は大門だいもん村で、蔵王山の登拝口にあたる。正部村とも書く。正保郷帳では菖蒲沢村とあり、田方一九〇石余・畑方二七九石余。元禄一一年(一六九八)村明細帳(三浦文庫)では高四七五石余、うち新田五石余、反別は田一二町七反余・畑二九町六反余で、銭七七三文・薪六一駄・炭六〇俵が課された。天明六年(一七八六)の家数六〇、嘉永五年(一八五二)の家数八四(上山年代略記)。枝郷に萱平がある。森作右衛門家は金森氏の家臣の系譜をもつ土豪で、代代庄屋を世襲した。宝暦(一七五一―六四)頃庄屋役の負担をめぐり村方騒動があり、寛政年間(一七八九―一八〇一)に庄屋を退いたが、文政年間(一八一八―三〇)には復帰した(上山市史)

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]白鷹町菖蒲

石那田いしなだ村の北、最上川右岸に位置し、西方対岸は鮎貝あゆかい村・箕和田みのわだ村。正部とも記した。元禄七年(一六九四)黒滝くろたきの開削により最上川舟運が開かれると、当地に河岸(荒砥河岸)が開かれ、舟陣屋(正部陣屋)・造船場などが設けられた。荒砥あらと河岸では米沢藩年貢米などの津出しが行われた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高二七一石余、免二ツ。家数五(うち役家一、肝煎・小走二)・人数三七、役木として漆・桑・紅花・青苧をあげる。

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]鎮西町大字菖蒲

東松浦半島上場うわば台地の呼子往還沿い丘陵地にある村。村内を流れる早田はやた川は水量乏しく、干害に苦しむ。

有浦家文書の元徳元年(一三二九)一二月二三日の沙弥の和与状に「右雖番訴陳相牙以和与之儀定堺永所止訴訟実□、石室与利菖蒲忌天」とある。慶長絵図には「昌部」と記す。

村内に十二じゆうに社・鎮守ちんじゆ神社がある。「松浦昔鑑」に「建武の頃、塚本五郎栄なる松浦党の一員が菖蒲村に居住す」と記す。

菖蒲村
しようぶむら

中世の入山田いりやまだ四ヵ村の一(→入山田村。村名は応永二四年(一四一七)九月二〇日の入山田四ケ村段銭・田数・年貢米注進状(九条家文書)にみえ、年貢田二町九反余、仏神免田六反余、ほかに六反余の段銭を課せられる地があった。また「二反番頭給」ともみえ、当村に番頭の置かれていたことが知られる。永享二年(一四三〇)頃の当村番頭は道性であった(同年一〇月二日「入山田四ケ村田数并分米注進状」同文書)。「政基公旅引付」によると文亀四年(一五〇四)三月一四日、九条政基は当分の滞在費として当村および船淵ふなぶち村番頭より合せて二貫三〇〇文を借用している(同日条)

菖蒲村
しようぶむら

[現在地名]伊勢市矢持やもち町 菖蒲

横輪よこわ川の上流河谷、しも村の東南にある。一宇いちう郷の一村。曹洞宗の知盛山久昌きゆうしよう寺がある。文治元年(一一八五)創建と伝え、平知盛の伝説もからむ。同寺には承久三年(一二二一)の墨書銘を有する木造阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報