(読み)ハギ

デジタル大辞泉 「萩」の意味・読み・例文・類語

はぎ【×萩/芽子】

マメ科ハギ属の落葉低木の総称。山野に生え、葉は3枚の小葉からなる複葉。秋、蝶形の花を総状につけ、ふつう紅紫色。ミヤギノハギマルバハギなどがあり、特にヤマハギをさす。古くから庭園に植えられ、秋の七草の一。歌に鹿や雁と取り合わせて詠まれ、異称も多く、鹿鳴草しかなくさ・鹿の花妻・風聞草かぜききぐさ・月見草・庭見草などがある。胡枝花。からはぎ。 秋》「一つ家に遊女も寝たり―と月/芭蕉
かさねの色目の名。表は蘇芳すおう、裏は萌葱もえぎまたは青。秋に用いる。萩襲。
紋所の名。萩の花・葉・枝を図案化したもの。

はぎ【萩】[地名]

山口県北部の市。日本海に面し、水産加工業やナツミカン栽培が盛ん。もと毛利氏の城下町で、明治維新には多くの志士が輩出。萩焼の産地。平成17年(2005)3月に阿武郡6町村と合併。人口5.4万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「萩」の意味・読み・例文・類語

はぎ【萩】

  1. 〘 名詞 〙
  2. マメ科ハギ属の落葉低木または多年草の総称。特にヤマハギをさすことが多い。秋の七草の一つ。茎の下部は木質化している。葉は三小葉からなり互生する。夏から秋にかけ、葉腋に総状花序を出し、紅紫色ないし白色の蝶形花をつける。豆果は扁平で小さい。ヤマハギ・マルバハギ・ミヤギノハギなど。はぎくさ。《 季語・秋 》
    1. [初出の実例]「一夜の間に、萩一根生ひき」(出典:播磨風土記(715頃)揖保)
    2. 「一家に遊女もねたり萩と月〈芭蕉〉」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)市振)
  3. (かさね)の色目の名。また、その色目の衣。夏の萩の襲には、表が青で裏が赤または紫、秋の萩の襲には、表が蘇芳(すおう)で裏は萌葱(もえぎ)。織色では経青、緯蘇芳の表で、裏は青とする。はぎがさね。はぎの衣(きぬ)
    1. [初出の実例]「朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑・はぎなど、をかしうて」(出典:枕草子(10C終)一四三)
  4. を図案化した模様。萩の図柄。
    1. [初出の実例]「花柳界では一般に、夏は萩、冬は遠山の衣裳を着ると、妊娠するといふ迷信がある」(出典:橋づくし(1956)〈三島由紀夫〉)
  5. 紋所の名。の花・葉・枝を図案化したもの。抱き萩、萩の丸などがある。
    1. 抱き萩@萩の丸
      抱き萩@萩の丸
  6. おはぎ。ぼたもち。萩の餠。
    1. [初出の実例]「うまいもの・宮城野よりも重の萩」(出典:雑俳・桜がり(1730))
  7. 花札で、七月を表わす札。萩に猪の図柄の一〇点札と、萩に短冊の五点札各一枚および萩の図のみの一点札二枚がある。

萩の語誌

( 1 )「秋はぎ」とも呼ばれるように秋を代表する植物で、「万葉集」では秋の七草の筆頭に挙げられ、植物を詠んだ中で最も歌数が多い。もと「芽」「芽子」と表記された。
( 2 )平安時代以降、鹿、露、雁、雨、風などと組み合わせて、花だけでなく下葉や枝も作詠の対象となり、歌合の題としても用いられた。特に鹿や露との組み合わせは多く、「鹿の妻」「鹿鳴草」などの異名も生まれた。一方、露は、萩の枝をしなわせるありさまや、露による花や葉の変化などが歌われ、また、「涙」の比喩ともされ、「萩の下露」は、「荻の上風」と対として秋の寂寥感を表現するなどさまざまな相をもって詠まれた。
( 3 )「古今‐恋四」の「宮木野のもとあらのこはぎつゆをおもみ風をまつごと君をこそまて〈よみ人しらず〉」などから、陸奥の歌枕の宮城野との結びつきが強い。


はぎ【萩】

  1. 山口県北部の地名。江戸時代は毛利氏三六万九千石の城下町として発展。窯業(萩焼)・水産加工業が行なわれる。北長門海岸国定公園の中心をなし、城下町の景観を残す観光都市。昭和七年(一九三二)市制。

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改訂新版 世界大百科事典 「萩」の意味・わかりやすい解説

萩[市] (はぎ)

山口県北部,日本海に面する市。2005年3月旧萩市と須佐(すさ),田万川(たまがわ)の2町および旭(あさひ),川上(かわかみ),福栄(ふくえ),むつみの4村が合体して成立した。人口5万3747(2010)。

萩市南端の旧村。旧阿武郡所属。1955年明木(あきらぎ)村と佐々並(ささなみ)村が合体,旭村となる。人口2170(2000)。中国山地の中にある山村で,北部に阿武川の支流明木川,南部に佐々並川が北東流し,谷底平野に集落が散在する。村役場は佐々並と明木を2年ごとに交代して置かれていたが,1994年明木に固定された。萩と山口を結ぶ御成道の宿場町として発達し,佐々並には御茶屋が置かれていた。大豆,シイタケ,エノキタケ,ユズの栽培,肉牛の飼育が行われ,特産に豆腐がある。また古くから酒造業が盛んである。国道262号線が通じ,明木は萩,佐々並は山口の商圏に属している。

萩市南部の旧村。旧阿武郡所属。人口1220(2000)。碁盤ヶ岳などの小山地に囲まれ,村内を阿武川が西流する。山間に位置するため林業が盛んで,良質な杉やヒノキを産し,シイタケ栽培も行われる。ユズの栽培も盛んである。アユ漁も行われるが,阿武川ダムの完成後は漁獲が減少した。阿武川ダムは県営の洪水調節,発電用ダムとして1975年完成し,人造湖の湖底には6集落と長門峡の一部が水没した。梵鐘と庭園で知られる梅岳寺,阿武川歴史民俗資料館があり,紅葉で名高い長門峡は県立自然公園に指定されている。天然記念物のユズおよびナンテン自生地がある。

萩市北東部の旧町。旧阿武郡所属。人口3792(2000)。北部は日本海に面しているが,大部分は山間地で,中央部の犬鳴山付近の分水嶺を境に須佐地区と弥富地区に分かれる。中心集落の須佐は日本海に臨む漁港で,1601年(慶長6)石見益田の城主益田元祥が当地に移り,近世を通じて支配した。沿岸航路の寄航地としても栄え,町場も形成された。タバコ,シイタケの栽培が盛んで,肉用の無角牛の飼育も行われている。一本釣り,小型巻網によるアジやイワシの漁獲がある。須佐湾(名・天)を中心とする海岸部は北長門海岸国定公園に指定され,高山(こうやま)の磁石石(天),ホルンフェルスの大断崖千畳敷など雄大な景観がみられる。犬鳴山北麓の唐津には近世に独自の須佐青磁などを焼いた須佐唐津窯跡がある。JR山陰本線,国道191号線,315号線が通じる。

萩市北東端の旧町。旧阿武郡所属。人口3725(2000)。北は日本海に臨み,町の中央を田万川が北流する。日本海に面する中心集落の江崎は天然の良港で,古くから物資の集散地として栄え,江津の湊と称して阿武郡十八郷の米を若狭国へ積み出す港町であった。米作を中心に,クリ,モモ,ナシの栽培,養豚,養鶏が盛んである。特産に煮干し,干しワカメなどの水産加工品がある。室町時代の建築物がある西堂寺や江崎温泉があり,日本海沿岸は北長門海岸国定公園に含まれる。JR山陰本線,国道191号線が通る。
執筆者:

萩市西部,日本海に面する旧市。1932年市制。人口4万6004(2000)。中央部を北西に流れる阿武川は橋本川と松本川に分かれて日本海に注ぎ,その三角州上に中心市街地がある。市域北部を流れる大井川下流域には,金銅製の環頭大刀把頭や耳環を出土した円光寺古墳をはじめとして考古遺跡が多い。海上には羽島,肥島,大島,櫃(ひつ)島,尾島,相島と,はるかに離れて見島の7島が浮かぶ。古く萩浦,萩津とよばれた地は,近世,毛利氏の城下町が開かれたことによって発展,周防・長門両国の政治の中心であった。現在も旧城下の景観をよくとどめ,萩城下町とその東にあたる椿東(ちんとう)にある松下村塾(史),伊藤博文旧宅(史)などの維新史跡に多くの観光客が訪れる。伝統の萩焼士族授産に始まったナツミカンが特産。沿岸には越ヶ浜,玉江浦など古くからの漁村があり,小型底引網,はえなわ,刺網が盛ん。沿岸部をJR山陰本線が通じ,国道262号によって山陽側の山口市,防府市と結ばれる。
執筆者:

近世,長州藩の城下町。東,西,南の三方に山を負い,阿武川の下流,松本川と橋本川によってできた三角州上に位置する。1551年(天文20)陶晴賢(すえはるかた)により大内義隆が滅ぼされると,石見国津和野の城主吉見正頼は陶晴賢討伐の兵を挙げ,毛利氏とともに戦い,57年(弘治3)阿武郡を攻略した。その功として正頼は長門国阿武,厚狭(あさ)と周防国佐波(さば)の3郡に領地を得たが,このとき当地一帯は吉見領となった。70年(元亀1)正頼は萩の指月(しづき)に隠居所を設けて津和野から移り,のちここで没した。

 関ヶ原の戦に敗れ,防長両国に封じられた毛利輝元は幕府と交渉の結果,萩の三角州北西端の指月山(143m)のふもとに城地を定め,1604年(慶長9)築城に着手し,翌年家臣の屋敷割りと町割りを行い,城下町の建設を開始した。08年萩城が完成。三角州の低湿地を埋め立て,萩城三の丸から東にのび東田町で南に向かう基幹道路をつくり,これに街路を平行または直交させて町割りを行った。16年(元和2)橋本川の川筋付替え大工事を行い,城下町の形を整え,松本・橋本両川を天然の外堀とした。城下町は,指月山麓で城に最も近い堀内,北東部の古萩(ふるはぎ),松本川河口西岸にあり廻船問屋や藩の船倉(史)が置かれた浜崎,南部の川島庄の4地区に大別できる。堀内には上層武士の屋敷があり,他地区は侍屋敷,寺社地,町人屋敷が混在していたが,川島庄には百姓屋敷があった。町数は1694年(元禄7)に萩城下本町41,浜崎13であったが(《元禄御国目付記》),1716年(享保1)城下本町で増加して合計58町となり(《巡見御目付集》),以後幕末まで変動はなかった。たびたび洪水に見舞われたため,中央部に1687年(貞享4)新堀川,1739年(元文4)藍場川を開削し,松本川下流に1855年(安政2)姥倉運河を開通させて排水を行い,灌漑や舟運に利用した。1863年(文久3)藩庁が山口に移転したため,萩は城下町の機能を失い,経済的にも大きな打撃を受けた。明治維新後,山口県は勧業局を設置して,士族授産事業としてナツミカン栽培,養蚕,生糸生産,木綿織物,縫製,製陶,養魚,養鶏などを奨励したが,多くは〈士族の商法〉で失敗した。不平士族らによる反政府の萩の乱も起こっている。

 旧城下のうち,呉服町と南古萩町は近世の景観をよく残し,萩城城下町として国の史跡。堀内と平安古(ひやこ)地区は重要伝統的建造物群に選定されている。指月山(天)は海に面して花コウ岩の断崖がそばだち,林相も美しく,萩城跡(史)付近は指月公園になっている。新堀川の南,江向(えむかい)には藩校明倫館の水練池および有備館(史)があり,萩市街各所に城下時代の旧跡がある。
執筆者:

萩市中部の旧村。旧阿武郡所属。人口2617(2000)。村内を大井川が南西流し,南部の旧川上村との境を流れる阿武川には,1975年完成した県営阿武川ダムがある。中心集落の福井下は萩から津和野に至る石州街道が通じ,近世には宿駅が置かれた。村域の大部分が山林で,米作のほかハクサイ,シイタケ,ブドウ,クリの栽培,無角和牛の飼育が行われている。大井川中流の雄滝と雌滝,秋吉造山運動の一翼を担う佐々連(さざれ)鍾乳洞,半田台のカルスト地形などの景勝や重要文化財の森田家住宅がある。

萩市中部東寄りの旧村。旧阿武郡所属。人口2217(2000)。中国山地脊梁部北側の山間にあり,中央を阿武川の支流蔵目喜(ぞうめき)川が南流する。萩から津和野に至る石州街道が通じ,江戸時代,吉部(きべ)には代官所や駅が置かれ,市も開かれた。林野が広いが,農業が中心で米作,野菜やタバコの栽培,養鶏,肉牛の飼育などが行われ,特産にダイコンなどがある。吉部上に鎮座する吉部八幡宮牟礼神社は,江戸時代,牛馬の守護神として崇敬された。北部の東台は自衛隊の演習場になっている。北東部を国道315号線が通る。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「萩」の意味・わかりやすい解説

萩(市)
はぎ

山口県北西部、日本海沿岸の農林水産、観光都市。1932年(昭和7)市制施行。1955年三見(さんみ)、大井(おおい)、見島(みしま)、六島(ろくとう)の4村を編入。2005年(平成17)田万川(たまがわ)、須佐(すさ)の2町および川上、むつみ、旭(あさひ)、福栄(ふくえ)の4村と合併した。面積は合併前の138.26平方キロメートルから698.31平方キロメートルと5倍に拡大した。従来の萩平野を中心とした地域に加えて、南の中国山地の支脈をなす山地帯、東の阿武(あぶ)台地、さらにその北の島根県境までを含めている。大島、相島(あいしま)、見島など日本海の離島を有する。人口4万4626(2020)。沿岸部をJR山陰本線と国道191号が走り、国道262号が南へ延びて山陽沿岸の山口、防府(ほうふ)両市へ通じている。また、萩・三隅道路が通り、国道490号が宇部市に通じ、315号が周南市に通じる。

[三浦 肇]

歴史

市域北部の大井は弥生(やよい)・古墳期の遺跡が多く分布し、条里遺構も残っていて、阿武国造(くにのみやつこ)の本拠といわれる所。『和名抄(わみょうしょう)』には阿武、椿木(つばき)、三島(みしま)の郷名がみられる。萩から約45キロメートル沖合いの離れ島見島にはジーコンボとよばれる7~10世紀の特異な古墳群があって、国指定史跡となっている。萩三角州平野は古代後期になって牛牧庄(うしまきのしょう)として開かれ、中世には川島庄とよばれていた。近世初頭、防長二国に封じられた毛利輝元(もうりてるもと)が指月(しづき)山南麓(ろく)に居城を構え、三角州平野に新しく城下町を建設、しだいに市街の発達をみ、城下58町が成立し、幕末における人口は3万人以上に達した。その主要部は平野の北半部の高燥地に立地し、中央部は長く低湿地として残り、しばしば洪水被害を受けたので、新堀川や藍場(あいば)川が開削された。幕末から明治維新にかけて吉田松陰(しょういん)、高杉晋作(しんさく)、伊藤博文(ひろぶみ)、木戸孝允(きどたかよし)など多くの人材が輩出し、現在もその旧宅が保存され国の史跡に指定されているものも多い。1863年(文久3)藩庁の山口移転後はしだいに衰微し、明治以降もほとんど近代工業の発達をみず、市制施行後も人口の変動は少なく、県北部の地方的中心都市にとどまっている。田(た)町、唐樋(からひ)町、御許(おもと)町に商店街地区、土原(ひじはら)、江向(えむかい)一帯に官公庁地区を形成し、人口集中地区となっている。

[三浦 肇]

産業

かつて農産の首位を占めたナツミカンは近年著しく減産したが、なお城下町萩の代表果樹である。沿岸には大型延縄(はえなわ)漁船の母港越ヶ浜(こしがはま)、玉江浦(たまえうら)のほか、大井の湊(みなと)や浦(うら)、小畑(おばた)、鶴江、三見浦(さんみうら)、見島など漁村が多く、萩漁港の水揚げ高は年5000トンを超え、水産加工では焼き抜きかまぼこを特産する。伝統工芸としては萩(長州)藩御用窯として発達した萩焼があり、長く茶陶としての技法を伝え、三輪(みわ)窯、坂窯など100近くもの窯元があり、優れた陶芸作家も輩出している。現在では茶器のほかに、花器、酒器、食器など多種類の製品がつくられている。北部の田万川地域ではタイやハマチの養殖、須佐地域ではイカの一本釣り漁業が行われている。中部のむつみ地域ではダイコン、福栄地域では高原野菜栽培が盛ん。南部の川上、旭両地域は農林業が主産業で、良材を産出する。

[三浦 肇]

観光・文化財

沿岸一帯は北長門(きたながと)海岸国定公園に含まれ、複式小火山の笠山(かさやま)、海跡湖の明神池(みょうじんいけ)、海水浴場の菊ヶ浜海岸、玄武岩島群の六島諸島など自然の景観に優れる。また萩城跡、松下村塾(しょうかそんじゅく)、東光寺、毛利家墓所など多くの史跡をもち、厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋、口羽(くちば)家住宅、菊屋家住宅(ともに国指定重要文化財)などの武家屋敷や商家の遺構がよく保存されている堀内、平安古(ひやこ)(ともに重要伝統的建造物群保存地区)、呉服町、南古萩(ふるはぎ)町の城下町景観(国史跡)、および松本川河口で廻船(かいせん)、水産業の商業地として発展した浜崎、農村でありながら萩往還の宿駅機能を有していた佐々並市(ささなみいち)の町並(ともに重要伝統的建造物群保存地区)は全国的に広く知られる。そのほか、福栄地域の森田家の住宅は国の重要文化財、川上地域のユズ、ナンテンの自生地は国の天然記念物に指定されている。また、須佐湾は北長門海岸国定公園の一中心をなしている。1996年(平成8)山口県立萩美術館・浦上記念館が開館した。異色の観光都市として2009年には年間220万の観光客が訪れている。

[三浦 肇]

世界遺産の登録

2015年(平成27)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として、萩反射炉、恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾が世界遺産の文化遺産に登録された。

[編集部]

『『萩市誌』(1959・萩市)』『『萩図誌』(1978・萩青年会議所)』『『萩市史』全3巻(1983~1989・萩市)』


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百科事典マイペディア 「萩」の意味・わかりやすい解説

萩[市]【はぎ】

山口県中部,日本海に面する市。1923年市制。山陰本線が通じ,大島,見島,鯖島などの六島諸島を含む。阿武川三角州上にある市街は1600年毛利輝元が指月(しづき)山(天然記念物)に築城して以後周防(すおう)・長門両国の政治中心をなし,幕末には多くの志士を輩出した。城下町の遺構(史跡)が呉服町などによく保たれ,萩城跡,松下村塾,有備館,木戸孝允旧宅,伊藤博文旧宅(いずれも史跡)がある。明倫館は萩藩の藩校。産業の中心は観光だが,高速交通網の整備の立ち遅れで,近年は観光客が減少傾向にある。良港をもち水産加工が盛んで,ナツミカン,萩焼,竹製品を特産。海岸と六島諸島などは北長門海岸国定公園に属する。2005年3月阿武郡田万川町,須佐町,旭村,福栄村,川上村,むつみ村を編入。698.31km2。城下町は2015年,〈明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業〉の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録。5万3747人(2010)。

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動植物名よみかた辞典 普及版 「萩」の解説

萩 (ハギ)

植物。マメ科の落葉低木,園芸植物,薬用植物。ヤマハギの別称

萩 (ハギ)

植物。マメ科の落葉低木

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【山口[市]】より

…市街地は山口盆地の北東隅にあって,14世紀後半,大内氏が館を置いて京都を模した街をつくり,約200年間城下町として栄えた。その後,陶(すえ)氏,次いで毛利氏の支配下に置かれたが,近世には萩に毛利氏の本拠が移されたため,山口はさびれた。幕末の1863年(文久3)藩庁が萩から山口に移転して政治中心地として復活し,明治以降も県庁所在地となって発展してきたが,山陽新幹線の小郡(おごおり)駅から山口線で約25分の内陸にあり,鉄道幹線から離れているため,近代産業の定着を見ず,行政・文教面の中心機能をもつにすぎない。…

※「萩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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