共同通信ニュース用語解説 「葭町」の解説 葭町 葭町よしちょう 東京都中央区の旧町名。現在の同区日本橋人形町周辺。江戸時代初期、湿地帯を埋め立て、遊里が集められ、葭原(吉原)と呼ばれた。遊郭はその後、浅草(現在の台東区千束)に移った。以後、浅草の新吉原に対し、元吉原と呼ばれ、花街として繁栄した。明治時代、俳優で夫の川上音二郎かわかみ・おとじろうと欧米を巡業した、日本初の女優、川上貞奴さだやっこは、葭町の芸者だった。更新日:2017年4月6日 出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報 Sponserd by
日本歴史地名大系 「葭町」の解説 葭町よしちよう 東京都:中央区旧日本橋区地区葭町堀江六軒(ほりえろつけん)町の俗称(「江戸惣鹿子名所大全」など)。また南の甚左衛門(じんざえもん)町をはじめ元大坂(もとおおさか)町・難波(なにわ)町・新和泉(しんいずみ)町など旧吉原(よしわら)の地を含めても葭町とよんだ。芳(よし)町とも記される。親父(おやじ)橋で入堀を東に渡ると、商業地から遊興地へと町の性格が一変し、葭町は若衆の男色を売る陰間茶屋でも知られた。江戸市中の陰間茶屋は寛政(一七八九―一八〇一)頃までは当町をはじめ木挽(こびき)町、湯島天神周辺、麹町天神周辺、神田塗師(かんだぬし)町代地、神田花房(かんだはなぶさ)町(現千代田区)、芝神明前(しばしんめいまえ)(現港区)にあった。 葭町かやまち 香川県:丸亀市丸亀城下葭町[現在地名]丸亀市葭町城の北側に位置する。南北に細長い町で、「西讃府志」に「通町ヨリ東ニ入ル処町長三十間、北ニ折テ西平山ニ至ル二町四十間、北詰ヨリ東ニ折テ雑賀町ニ至ル廿六間、雑賀町ヨリ西平山ニ出ル三十間四尺、松屋町通西ニ折テ米屋町ニ出ル卅間」とある。東は風袋(ふるたい)町、西は北から魚屋(うおや)町・米屋(こめや)町、南は風袋町・通(とおり)町、北は北平山(きたひらやま)町・西平山(にしひらやま)町。万治年間(一六五八―六一)の城下図には北側部分に新町と記される。山崎氏時代にまず北側から町が形成され、大部分は京極氏入封以後に形成されたと考えられる。「西讃府志」の家数は二七九・人数七二一、棒役七四本六歩。 葭町よしまち 愛知県:名古屋市中区葭町[現在地名]中区錦(にしき)一丁目下材木(したざいもく)町の南にある。道筋は堀切(ほりきり)筋を越えて堀(ほり)川沿いに天王崎(てんのうざき)(現栄一丁目・大須一丁目)へ通じる。伝馬(てんま)町筋と堀切筋の納屋(なや)橋との間の二丁をさす。碁盤割の西南隅にあたる(尾張志)。慶長一六年(一六一一)清須の東葭(きよすのひがしよし)町を移して旧号をとなえた(蓬左遷府記稿)。堀川の岸の葭を刈り商売にしたためとする説もある(尾張志)。寛文年中(一六六一―七三)東の字を除き、葭町と改称(町名起因並町家由緒)。 葭町よしまち 三重県:桑名市桑名城下葭町[現在地名]桑名市入江葭(いりえよし)町紺屋(こんや)町の南にあり、南北一条の町屋敷地。東南は堀に面して土塁となっている。北端には葭屋(よしや)門があって、城内へ通じる。隣接の入江町・萱(かや)町と続いて、慶長の町割以前は一面の洲崎であり、「久波奈名所図会」には「葭萱の生ひ茂りて中に入江のある地をならして町割せしなり」とある。元禄家帳(「桑名市史」所収)では家数一七。 葭町よしまち 愛知県:名古屋市熱田区宮宿葭町[現在地名]熱田区白鳥(しろとり)町芦町とも書き、堀川芦(ほりかわよし)町とも称した。北の材木(ざいもく)町境から南の西田中(にしたなか)町境まで、町の長さは西側で三五間余、東側で三三間半。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
百科事典マイペディア 「葭町」の意味・わかりやすい解説 葭町【よしちょう】 東京都中央区の町名。現在は日本橋人形町。湿地帯だったが江戸初期に埋め立てられ,1618年各所に散在していた遊里を集めて葭原(吉原)と称した。陰間茶屋もあり,以後,東隣の人形町とともににぎわった。遊廓は,1657年浅草(現在の台東区千束の地)に移転され,以後浅草の新吉原に対してこの地を元吉原と呼んだ。→関連項目吉原 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 Sponserd by