日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミイラ」の意味・わかりやすい解説
ミイラ
みいら
天然または人工によって保存できる状態になっている死体のこと。一般に人体をさすが、ほかの動物のものをもいう。中国の馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)から発掘されたミイラのように皮膚や筋肉に柔軟性が残っている軟死体もあるが、一般には腐敗する前に死体の水分をなんらかの方法で乾燥させたものがミイラである。一方、屍蝋(しろう)とよび、水中または湿潤の土中で死体の脂肪が化学変化をおこし一種の鹸化(けんか)物となることにより腐りにくくなった死体もあるが、この屍蝋の皮膚は発掘すると黒っぽく変色したり破れたり、におうので、ミイラとして扱っていいかどうかの疑問が残るが、広義にはミイラのなかに加えてよかろう。
[深作光貞]
ミイラの語源
ミイラにあたる外国語は、マミイ(英語、mummy)、モミ(フランス語、momie)、モミア(スペイン語、momia)、ムミイエ(ドイツ語、Mumie)などで、いずれも瀝青(れきせい)(天然アスファルト)を使用したものを意味するアラビア語の「ムミアイ」から派生したものである。ところが、日本語「ミイラ(木乃伊)」はこの系統からの輸入語でなく、没薬(もつやく)「ミルラ」のなまったものである。瀝青もミルラも古代エジプトでミイラ作りに使用されたとされている。ヨーロッパでは中世から18世紀にかけて、ミルラをふんだんに使ってつくったエジプトのミイラが鎮痛剤、強壮剤として珍重され、その断片や粉末が薬剤店でも売られていた。日本にも17世紀中ごろからオランダ船などで薬としてミイラ(ミルラ)が輸入されて、それが200年近く続いた。高価な薬の原料をつきとめているうち、それが乾燥した死体であることがわかり、それ以来「ミイラ」は、薬のミルラでなく乾燥した死体を意味するものとなった。
[深作光貞]
世界の各種のミイラ
ミイラ作りの風習は、世界の五大陸に広く分布している。古今東西を問わず、人間は生前に自分たちと関係深かった人の死を愛惜して追憶するが、腐敗、解体する遺体には恐怖と嫌悪感を覚える。いわば、「保存」と「破壊」の二極があるわけで、日本の火葬方式では、腐る遺体は破壊し、遺骨はたいせつに保存する。しかし、遺体を破壊せず腐らせずに保存できるようにくふうしたのが、ミイラ作りの文化である。
ミイラ作りのポイントは、死体の乾燥にある。人体の含有水分を50%に減らすと細菌類の繁殖がとまり、腐敗、解体しなくなる。この乾燥化のため、アンデス地方などでは死体を砂漠に埋めた。ニューギニア、オーストラリア、アフリカなどでは火をたいて煙と熱気で一種の薫製にしたし、チベットなどでは塩をかけて布を巻き死汁を抜いた。シチリア島などでは遺体を入れた室(むろ)を熱して脱水した。中国や日本のいわゆる入定(にゅうじょう)ミイラは、自ら米麦や栄養物などの穀断(こくだ)ちをして自分の身体を枯らせて死んだものである。ただし、外部からの処置が届きにくく腐りやすい脳や内臓の処理の問題がある。これは気候や乾燥度と関係があり、処理せずにすむ所、脳や内臓を取り出して処理する所などいろいろである。こうしたミイラ作りに最高の技術を駆使したのは、古代エジプトである。
[深作光貞]
エジプトのミイラ
暑熱と乾燥が砂漠に埋めた死体に作用して、しばしば自然がミイラをつくるエジプトでは、人々の死への恐れが再生思想と結び付き、人工的なミイラ作りを発達させた。永生を願っても、またこの世への再生を望んでも、それはかなわぬこと。そこで蘇生(そせい)でき永生もできる、もう一つの死者の世界を別につくり、死者を完全なミイラにし、死者をその世界に蘇生させる呪術(じゅじゅつ)を施し、死者を蘇生・永生させようとしたのが、古代エジプトのミイラ作りの思想である。
こうした人工的ミイラ作りは、紀元前3000年以上の昔から行われ、古王国時代に内臓摘出など保存技術がかなり進歩し、新王国時代にさらに技法に改良が施された。その製法は次のようなものであった。
死後、ただちに衣服をはぎ、ミイラ作り専用のテーブルに置く。脳髄は鼻穴から、先が曲がっているか螺旋(らせん)状になった青銅の棒を差し込み引き出された。この脳髄が保存された証拠はない。次に、鋭利な石刀で一般に左脇(わき)腹を切開して、そこから手を差し入れ、胃、肝臓、脾臓(ひぞう)、肺などの内臓を取り出し、洗浄と乾燥ののち、カノープス(カノピス)とよぶ4個の壺(つぼ)に収納した。ただし、心臓は例外で除去せずに残した。内臓を切除した腹部、胸部はやし酒などで洗浄されたのち、一時的な詰め物がなされた。それから、炭酸ナトリウム、重炭酸ナトリウム、塩化ナトリウムに少量の硫酸ナトリウムが自然に合成されてできたナトロンの中に、遺体を数週間から10週間浸(つ)けて脱水する。ナトロンの粉末の中に浸けたとする説と、溶液の中に浸けたとする説とがあるが、いずれにせよ遺体は乾いて萎縮(いしゅく)する。乾燥後、先の詰め物は取り除かれ、頭部には樹脂、あるいは樹脂をしみ込ませた布を詰める。胴部は麻布やナトロン、おがくず、土などの入った袋を詰め込み、開口部は樹脂、ろう、麻布で閉じ、金属板などで覆った。とくにミイラ作り技術のピークに達した末期王朝時代は、皮膚切開を体の各部分に施し、既述のように皮下に詰め物をして、丸みをもたせた体形に整え、義眼をはめ込み、唇や頬(ほお)を赤く彩ったりした。さらに、首飾り、胸飾り、腕飾り、呪具などをつけ、布巻きの総仕上げに入る。身体の各部に布を巻き、その上に樹脂やゴム液を塗り固めた。布巻きされた顔の上にマスクが置かれる。このようにしてミイラができあがると、「口開き」の呪術儀式が行われる。「口」とは、目、耳、口を意味し、見る、聞く、食べる、語るという機能を回復させる呪術である。オシリス蘇生神話の古式に従い、この呪術が施されると、死者はあの世で蘇生し、この世と同じように生活し始める、とされた。ミイラは古くは箱型棺に収められた。こうした棺に対する装飾は、中王国時代に頂点を極め、第11、12王朝のものを例にとれば、王宮のような建造物が外側に描かれ、左側面にはヒエログリフ、見せかけの扉、目などの装飾が施されている。人型棺が登場し普及するのは中王国時代からであるが、従来の箱型棺は新王国時代に入っても王族の間では人型棺を内に収める外側の棺として引き続き用いられた。聖獣崇拝とあの世での人間の伴侶(はんりょ)のため、イヌ、ネコ、ワニ、タカなどもミイラ化された。
プトレマイオス朝時代になると、瀝青だけを使用した粗雑なミイラ作りになる。棺も石棺から木棺になり、その上に蜜蝋(みつろう)絵の具で描かれた死者の生前の肖像画をはった。これが、文化的に肖像画のはしりとされているが、死者の顔に生き写しのマスクをかぶせる伝統は、すでに古王国時代に現れている。
[深作光貞]
アンデスのミイラ
南米のアンデス地帯は、量においてエジプトに比肩するミイラの大宝庫である。ここには、エジプトと同様、乾燥した海岸砂漠のほかに、高地の寒冷地帯が広がる。こうした自然条件、墓の環境によってつくりだされた、まったく自然なミイラを一つのタイプとすれば、自然条件を認識したうえで意図的に死体をその環境の中に置き、ミイラとなるように手を加えた別のタイプもよくみられる。とくに有名なのは、竪穴(たてあな)式の共同墓地に曲げた膝(ひざ)をあごの下につけてうずくまった座位の姿で、粗い木綿の布でぐるぐる巻きにされたペルー南海岸パラカス地方のミイラであろう。極度の乾燥と砂中の熱で噴き出した死汁が、巻いた布に吸収されミイラ化したのである。この第二のタイプは、紀元前からスペイン征服時まで山岳地帯、海岸地帯を問わずアンデス全域にみられ、7世紀を過ぎると仮面や織物で飾りたてられるようになった。1954年、チリのプロモ山でみつかった幼児のミイラもインカ期の装身具を身につけた生贄(いけにえ)の姿である。古代ペルー人たちの考えは、死者はあの世に生まれ変わるのでなく、あの世に移って蘇生する、したがって遺体をミイラにして完全な姿で保持するのが、生者たちの死者に対する義務であったらしい。あの世に移ってもすぐ生活できるよう、副葬品として土器、衣類、装飾品のほか農具や漁具なども添えてある。一方、ミイラは人間と同じ姿をもちながら、生命のないいわば両義的な存在である。生者たちは、自らの生の世界と死の世界との媒介物であるミイラをつくり、場合によっては祭り、祖先崇拝を強めていったと考えられる。また既述の二タイプと異なり、エジプトのように内臓を除去し、火や瀝青によって乾燥化させ、骨格も木などで代用したミイラもみられる。この第三のタイプは先土器時代にあたるチリ北部海岸の遺跡で確認されているが、その後、インカ帝国の時代までみつかっていない。インカ帝国歴代の皇帝は、この第三の方法によつてみごとなミイラとなり、神殿に皇祖以来、代々の順位で飾られ、着せ替えなどを行う特定の人々による奉仕を受けていたと伝えられる。
[深作光貞]
日本・中国の入定ミイラ
弥勒(みろく)信仰といって、釈迦(しゃか)が救い残した衆生を弥勒菩薩(ぼさつ)が釈迦入滅後56億7000万年したら救済にこの世に下生(げしょう)するという信仰がある。その弥勒の衆生救済の仕事を手伝うため、禅定に入り(結跏趺座(けっかふざ)して)宗教的瞑想(めいそう)のまま肉体を保存して死を待つのが、入定の思想である。実際は五穀断ち・十穀断ちなどの苦行をし枯木のようにやせ衰えて死ぬわけだが、信仰的には死ではなく弥勒の下生を待つ姿とみなしている。
中国での最初の入定ミイラは単道開(359)である。インドからきた僧の慧直(えちょく)もその30年後に入定している。それ以来この伝統が続いた。ただし、この入定ミイラがしだいに庶民の信仰の対象になるにつけ、隋(ずい)・唐の時代になると、ミイラの上に麻布と漆を重ね塗りして一種の乾漆仏のようにし、のちには金泥をかぶせたりした。中国では、こうしたミイラを真身仏、肉身仏とよぶが、1954年と1970年に台湾台北市で2人の僧が金泥の肉身仏になっている。
一方、日本には11世紀に中国からこの思想が伝わり、12世紀にはミイラに対する信仰が確立したと考えられる。重要なのは後述する藤原三代のミイラを除いて、日本のミイラはすべて僧侶(そうりょ)である点である。真言(しんごん)宗の開祖空海に入定伝説があり、このころの文献では覚鑁(かくばん)以下8人の入定僧が出ているが、実物はない。入定ミイラで現存する最古のものは新潟県長岡(ながおか)市寺泊(てらどまり)西生(さいしょう)寺にある弘智法師(入定1363)である。17世紀になると、入定は苦行修験(しゅげん)の行人たちのものとなり6体、18世紀は2体、19世紀は5体、最後のミイラは1903年(明治36)に新潟県で入定した仏海である。こうした入定ミイラの多くは、出羽(でわ)三山で修行した修験道の行者たちで、五穀・十穀断ちし死期が近づくと土中に行人(ぎょうにん)塚とよばれる室をつくって入り、死を待ったと伝えられるが、実際は土中入定よりも、地上入定のほうが多い。結局、栄養分の補給を断つことで、身体が腐敗しにくい構造に変化し、死後、約3年といわれる地下室への安置を経て、乾燥したミイラができあがるのである。しかし、地上入定の際、身体の周囲にろうそくの火を絶やさずにしておいたことでミイラ化した山形県鶴岡(つるおか)市注連寺の鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)(入定1829)や、エジプトなどのように内臓を除去し、石灰粉を詰めた山形県鶴岡市南岳寺の鉄竜海上人(入定1868)の例もある。こうした入定ミイラを日本では即身仏とよび、貧苦に苦しむ東北、日本海沿岸の小作人たちの信仰の的となった。
岩手県中尊寺の藤原清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)の遺体がミイラ化していることは有名で、腐敗しているためミイラ化の手法をたどることは困難であるが、入定とは関係ない。19世紀、間宮(まみや)林蔵が『北蝦夷図説(きたえぞずせつ)』で触れている樺太(からふと)(サハリン)のアイヌの首長のミイラ作りや、アリューシャン列島でみつかっているミイラの例などから、北方からの影響を考える必要があろう。
[深作光貞]
シチリア島のミイラ
特殊な例としては、イタリアのシチリア島パレルモ市のカトリック、カプチン派僧院の地下に約8000体のミイラがある。1646年の大干魃(かんばつ)にミイラを担ぎ出して雨乞(あまご)いの大祈祷(きとう)を行って雨を降らして以来、死後ミイラになろうとする者が激増し、僧院側も密室火熱、ヒ素やカルシウムの水風呂(ぶろ)浸けなどの方法で、ミイラの量産を行い、いまも保管しているものである。
[深作光貞]
北米のミイラ
北米でも、少なくともヨーロッパ人の入植当時まで、先住民が死体をミイラとして保存していたことが知られている。フロリダ地方では、乾燥させた死体に衣服を着せ、砦(とりで)の間仕切り壁につくった壁龕(へきがん)に安置していたし、バージニア地方に住んでいた先住民ポウハタンの首長は、死後、内臓摘出、いぶし出しを受けたのち、銅の粒を体に詰め込まれ、縫合されたという報告がある。またアリゾナなどの乾燥地帯では、自然にミイラ化した古代の人々の死体がみつかっている。北西海岸のヌートカ、クライスカットなどの社会でも報告例はあるが、アラスカを経由してアリューシャン列島に広がるこれらの地域で、ミイラが鯨猟の成功と結び付いて語られることは興味深い。
[関 雄二]
中・南米のミイラ
中米では、古代アステカ王国の戦士がミイラになっている絵が記録として残っているし、メキシコ南部のミュシュテカ、サポテコ、さらにグアテマラ、ユカタン半島のマヤの人々も死者をミイラとして保存していたようである。16世紀ころのグアテマラ、キチェ・マヤ人の伝説集である『ポポル・ブフ』にも、葬儀とミイラに言及している部分があるが、実際のところ、中米におけるミイラの製法については、ほとんどわかっていない。
南米では、すでに触れたペルーが有名であるが、先史時代のコロンビアのチブチャ人の社会でも首長の死体をミイラにしたという。古代エクアドルの海岸地帯に栄えたエスメラルダ、マンタの各文化でも、またエクアドル・アマゾンの先住民ヒバロにしても、死体全体ではなく、頭部だけをミイラにして保存した。最近まで首狩りの風習が残っていたヒバロの場合、狩りとった頭部は、まず骨が取り除かれ、湯で煮たあと、熱した砂を詰めた。
[関 雄二]
オセアニアのミイラ
この地域における死体保存の意味はおおよそ四つに分けられる。(1)親類・友人を失った哀しみへの対処、(2)ある階層の人々への公的義務、(3)死者の魂による災いを防ぐ、(4)残された家族の置かれた地位(たとえば未亡人)を社会に示す、がそれらである。オセアニアでは確かにミイラ作りは複雑な葬儀の一部として組み込まれてはいるものの、死後の信仰を完遂するために行うエジプトの場合と違い、動機も処理も一時的な性格が強く、儀礼ののち、放置されることが多い。ポリネシアのタヒチ島の首長の死体も、太陽熱による乾燥、油の塗布、内臓の摘出、香を浸した織物の充填(じゅうてん)を経て、美しく着飾られ、一定期間祭られるが、それが過ぎると頭蓋(とうがい)骨は親者が持ち帰り保存し、残りの骨は埋めてしまう。サモア、ニュー・カレドニア、オーストラリア、ニュー・ヘブリデス諸島、ニューギニア本島でも多少の差異はあるが、同様なミイラ作りが報告されており、この地域に広がる頭蓋崇拝と関連した形で存在している点には注意すべきであろう。
[関 雄二]
アフリカ・アジアのミイラ
エジプトを除くアフリカ地域でもミイラはつくられている。中央アフリカなどでは火に当てるだけの乾燥でミイラをつくっていたが、複雑な工程をもつものもあった。たとえばコンゴ民主共和国(旧ザイール)では、マニオク(キャッサバ)で死体を洗浄し、西方拝礼の儀式を行ったのち、内臓を取り出し、死体をとろ火で乾燥させる。それに赤土を塗ったあと、織物で包む。ナイジェリアのイボ、イビビオ、カメルーンの諸民族でも類似した形態がみられるが、カナリア諸島のように古代エジプトの技術を直接取り入れた地域もあるので、その起源に触れるのには注意が必要である。
最後にアジア地域だが、この地域には、インドを発祥地とする火葬が広まっているため、ミイラ作りの重要性をみいだすことは困難である。例外的にミャンマー北方のアオ人、コニャ人、さらにチベット・ビルマ語系諸族では、太陽熱、火による乾燥、あるいは内臓摘出があった。しかし、このミイラ化は一時的であるものが多く、最終的には焼却されたりした。
[関 雄二]
『L・デロベール、H・レシュレン著、小池辰雄訳『ミイラ――世界の死者儀礼』(1980・六興出版)』▽『ジョージス・マクハーグ著、小宮卓訳『世界のミイラ』(1975・大陸書房)』▽『安藤更生著『日本のミイラ』(1961・毎日出版社)』▽『深作光貞著『ミイラ文化誌』(1977・朝日新聞社)』▽『A・P・ルカ著、羽林泰訳『ミイラ――ミイラ考古学入門』(1978・佑学社)』