虫生村(読み)むしゆうむら

日本歴史地名大系 「虫生村」の解説

虫生村
むしゆうむら

[現在地名]中主町虫生

現中主町の南東端、家棟やなむね(童子川)左岸平地に立地。村名は虫生神社の祭神蚕生(虫生)神に由来するという(中主町史)壱之坪いちのつぼ七之坪しちのつぼなどの古代条里の数詞坪地名が残る。虫生神社は安元二年(一一七六)二月の八条院領目録(国立公文書館蔵山科家古文書)に「近江国虫生」とみえ、鳥羽上皇の皇后美福門院が御願寺の歓喜光かんきこう(跡地は現京都市左京区)に施入したと推定され、美福門院の死後娘の八条院に伝領されている。「民経記」寛喜三年(一二三一)九月一六日・同二一日条によれば虫生社は、伊勢神宮への勅使参宮に要する駅家雑事を課せられ、その免除を願出たが、認められなかった。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に歓喜光院領として「石山寺 虫生社 三条局」とみえ、領家は石山いしやま(現大津市)で三条局の知行。

虫生村
むしゆうむら

[現在地名]豊岡村虫生

敷地しきじ川の上流に位置し、南は岩室いわむろ村、北は山東やまひがし(現天竜市)。もと敷地村の枝郷で、延宝五年(一六七七)の検地の際の村切りにより同村から独立したという(寛政一〇年「秣山出入敷地村返答書」佐野家文書)元禄郷帳によると高三七石余。宝永六年(一七〇九)年貢割付状(高木家文書)によれば皆金納。宝永年間まで幕府領(高木家文書・松井家文書)。享保郷村高帳では幕府領・旗本丸毛領・同鈴木領。

虫生村
むしゆうむら

[現在地名]但東町虫生

中山なかやま村の北、太田おおた川の右岸にあり、出石・宮津道(丹後道)が通る。北東口藤森くちふじがもり村。古くは中山村のうちであったが、寛永一九年(一六四二)に同村の僧都そうずほか高一四七石余が分れて当村が成立した(宝永三年「村明細帳」虫生村文書、安牟加神社文書など)。分村後の領主変遷水石みずし村に同じ。慶安三年(一六五〇)検地帳(虫生村文書)では高二二六石余。出石封内明細帳でも同高で、この内訳は屋敷四石余・麻畑二石余・田方二〇七石余・畑方一一石余、ほかに古新発高七斗余。

虫生村
むしうむら

[現在地名]野沢温泉村大字虫生

平林ひらばやしななまき両村の間に位している。

この村の初出は、慶長七年(一六〇二)八月一四日、海津城主森忠政が長沼又六・中山右衛門・滝川孫右衛門を奉行に命じて実施した虫生村御検地野帳(野崎文雄氏蔵文書)である。この野帳は末尾の集計部を欠くため石高は不明であるが、同年の川中島四郡検地打立之帳によると、一四三石一斗四升三合で野沢温泉のざわおんせん村の最優位にある。慶安五年(一六五二)三月の田畑検地帳にみると、村高は本高一六〇石六斗四升七合、新田高四三石七升三合となっている。

さて森右近検地野帳で注目されるのは苧麻からむし(青苧)なる地目である。

虫生村
むしゆうむら

[現在地名]川西市虫生・清和台東せいわだいひがし清和台西せいわだいにし

柳谷やなぎたに村の北東、猪名いな川の右岸に位置する。永享三年(一四三一)九月一六日の高勢寄進状(多田神社文書)多田ただ院阿弥陀坊長日行法料田として多田院に寄進された田のうち「虫生」の三三〇歩があり、加地子一石半の地であった。文安二年(一四四五)道祐は先祖相伝の私領「虫生村ヒエ田」を多田院阿弥陀坊の千部経方に寄進している(同年一一月九日「虫生道祐寄進状」同文書)

虫生村
むしようむら

[現在地名]光町虫生

両国りようごく新田の北に位置し、西は南東流する栗山くりやま川を境に上総国武射むしや於幾おき(現横芝町)。文禄三年(一五九四)の検地帳(土屋家文書)の表紙に「佐倉領之内虫生」とある。寛文四年(一六六四)の井上政清領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、高岡藩領であった。同八年の鷹場五郷組合帳では芝崎組に属し、高二四七石。

虫生村
むしうむら

[現在地名]上中町武生むしう

つつみ村の西方、きた川の右岸に位置する。「むしょう」ともいう。建久七年(一一九六)六月日付の若狭国御家人注進案(東寺百合文書)にみえる虫生五郎頼基は当地を本貫とした者か。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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