改訂新版 世界大百科事典 「蠟」の意味・わかりやすい解説
蠟 (ろう)
wax
水に親和性がなく,通常70℃前後または若干高めの融点をもつ有機物の固体で,ある一定の軟化温度幅をもち,可塑性で,溶融粘度が低く,独特のつやや硬度をもった物質の総称。ワックスともいう。元来,蠟は人類が天然物からのこのような物性のものを採取利用したものなので,蜜蠟,イボタ蠟,木蠟,地蠟(ちろう)などと抽出物質の名を冠して呼ばれる多様な物質を含んでおり,その組成も多様である。天然物の油脂に対比してみると,油脂が高級脂肪酸グリセリドであるのに対して,主要な生物系天然蠟は高級脂肪酸の1価(まれには2価)のアルコールエステルであるところから,化学的に定義する場合は,高級脂肪酸の一価または二価アルコールエステルを蠟としている。しかし蠟の名称は前述のように物性由来のものであるため,たとえば地蠟,石油系パラフィンは飽和炭化水素系であり,木蠟は高級脂肪酸グリセリドであるが,慣習上蠟の名称を使用している。一方,鯨油は高級脂肪酸エステルであるが常温で油状なので油と呼ばれ,羊毛脂は蠟であるが動物脂の連想から脂と呼ばれる。また脂環構造のステロイド類にも蠟状を示すものがある。他方,近年蠟状物性を示す物質が多く合成されており,たとえば封蠟,各種シーリング剤は蠟とは関連のない有機物,高分子オリゴマーの場合が多い。
天然物から採取される蠟はこのように多様であるが,大別して植物蠟,動物蠟,その他に分けられる。蠟を構成する高級脂肪酸は一般に飽和脂肪酸が多く,化学的にも油脂より安定で,空気中では変質しにくい。水に不溶,アルコール,クロロホルム等の有機溶媒に可溶である。蠟の採取方法は原料によって当然異なるが,加熱圧搾または溶剤抽出法によることが多い。得られた素蠟をそのまま利用することもあるが,多くは脱色,脱臭の精製工程を経て製品とする。精製には水蒸気,二酸化炭素を吹き込んで不純物を除去する方法がとられる。また硫酸,アルカリでの洗浄,活性白土,酸性白土,骨炭での吸着処理,漂白等も行われる。蠟の性質や品質は,油脂と同様に,融点,凝固点,比重,ヨウ素価,酸価,エステル価などで表示される。
植物蠟
代表的な植物蠟として,資源的にも重要なものはカルナウバ蠟で,ブラジルなど熱帯南アメリカに産するロウヤシの葉から分泌されるものである。ミリシルアルコールとセロチン酸のエステルが主成分で,融点が78~84℃と蠟としては最も高く,つや出し剤として重用される。北アメリカやメキシコに産するトウダイグサ科のPedilanthus pavonisやEuphorbia antisyphiliticaから得られるカンデリラ蠟candelilla waxも商品化されていて,ろうそく,レコード,電線被覆材料,つや出し用に用いられる。そのほか,シュロの表面をおおって分泌するパーム蠟,サトウキビの茎中に存在し,砂糖工業の副産物として得られるカンショ蠟,アメリカ南西部,メキシコ北部に産するツゲ科のSimmondsia californicaの種子から得られるホホバ蠟 jojoba wax(ジョジョバ油ともいい,油状の蠟),モチノキ科,ヤマグルマ科植物の樹皮を腐敗させ砕いて得るとりもちがある。化学成分では油脂に属するがハゼノキの果皮から圧搾法や抽出法で得る木蠟も,蠟型材,繊維処理剤,化粧品などに広く重用された。
動物蠟
動物蠟には昆虫に帰属するものとして代表的なものに蜜蠟がある。ミツバチの腹部から分泌され,巣房をつくる原料となっているもので,主成分はミリシルアルコールとパルミチン酸のエステルである。ハチの巣を加熱,圧搾し,少量の硫酸を含む水中で煮沸してろ過冷却して固化させる。淡黄褐色であるが日光漂白などで白色蠟とする。化粧品や医薬品(軟膏基剤),光沢剤,ろうそくに利用する。虫白蠟 insect wax,別名イボタ蠟はイボタノキに群生するイボタロウカイガラムシが分泌するもので,またイチジク属,アカシア属などの植物に寄生する昆虫のラックカイガラムシが分泌するものはシェラック蠟 shellac waxである。これらは合成品によって代替されるまではレコード材料,電気絶縁材,ワニス原料として重要なものであった。鯨蠟は,マッコウクジラ,ツチクジラの頭蓋中にある油を冷却する際に油中から白色蠟状の固形物として分離されるもので,脂肉からも冷却圧搾して得られる。主成分はセチルアルコールとパルミチン酸のエステル。これを採取した後の液状の蠟は鯨油(マッコウ鯨油,ツチ鯨油)と呼ばれる。かつては工業的に大量に採取されたが,現在は捕鯨制限により,工業原料としてはほとんどその位置を失い,合成品に代替されている。そのほか,炭化水素系の石蠟,地蠟については〈パラフィン〉〈地蠟〉の項を参照されたい。
執筆者:内田 安三
日本における生産・利用史
古くは蜜蠟を輸入していたが,平安後期にこれがとだえて松やに(脂)蠟を使った。室町時代にふたたび輸入されたときに,その製法も伝えられ,日本に自生していたヤマハゼから蠟を製したが,ハゼが琉球に到来し各地に広がるにしたがい,ハゼを利用した。ハゼから蠟を製するには,実を採取し,せいろうで蒸して爛(ただ)らかせ,臼でついて生蠟(きろう)にする。さらに生蠟を太陽光線でさらして晒蠟(さらしろう)(白蠟(はくろう))にし,これからろうそくをつくる。産地から大坂へは18世紀の半ばまでは生蠟で輸送し,晒蠟以下の製造が大坂や京都の都市手工業であった。光源としてはナタネ油よりろうそくが明るく清潔なので,徐々に一般家庭で消費されるようになり,蠟の需要が高まると,熊本,久留米,山口,宇和島,松江など西南諸藩では専売制としてハゼの実の自由販売を禁じ,藩が一手に買い上げ製蠟をした。また会津藩では漆蠟が生産された。
→ハゼノキ
執筆者:岡 光夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報