白華山と号し、天台宗。本尊十一面千手観音。もと
享禄二年(一五二九)三月一八日の陰刻銘のある銅花瓶(寺蔵)に「那智補陀洛 千手堂常住不出 享禄二己丑天三月十八日 時本願善光上人 同道清 良賢 永次作」とみえる。この千手堂は補陀洛山寺の本堂をさすと考えられるが、享保二〇年(一七三五)の本願中出入証跡之写(青岸渡寺文書)によると、享禄頃、千手堂が那智山造営のための勧進の権利を有する那智七本願の一寺として配下の熊野比丘尼・山伏を統率していたことがわかる。「続風土記」も寛文記によるとして「比丘尼山伏の本寺として修理す」とみえる。室町時代中期頃の成立という闘鶏神社本「那智参詣曼荼羅」に補陀洛山寺が描かれるが、同種の曼荼羅図が当寺にも蔵されることから、千手堂配下の熊野比丘尼がこの曼荼羅図を絵解し、浜宮や当寺の造営修理の勧進を行ったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦(なちかつうら)町浜の宮にある天台宗の寺。白華山と号する。本尊は十一面千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)。寺伝によれば、孝昭(こうしょう)天皇(第5代)の代にインド龍樹菩薩裸行上人(りゅうじゅぼさつらぎょうしょうにん)の開基という。『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、1233年(天福1)源頼朝(よりとも)の家臣下河辺行秀(しもかわべゆきひで)が出家して智定房と改め、那智浦から観音の浄土である補陀落へ行くため、船に乗って渡海したことで有名である。那智山造営のための七本願の一寺として熊野比丘尼(びくに)、山伏を統率していた。1382年(弘和2・永徳2)造立の本尊十一面観音立像は国指定重要文化財。ほかに文武(もんむ)天皇の宸筆(しんぴつ)と伝えられる「日本第一補陀洛山寺」の勅額(ちょくがく)、一条(いちじょう)天皇勅額、銅花瓶(けびょう)1口、祐善(ゆうぜん)が寄付した銅仏餉鉢(ぶっしょうばち)、那智参詣曼荼羅(さんけいまんだら)などが蔵されている。二位尼(にいのあま)(平清盛(きよもり)妻)、平維盛(これもり)などの墓がある。
[田村晃祐]
…もともと熊野本宮には狩人による開創の伝承があり,熊野部千与定(ちよさだ)(千与包(かね))と名のる犬飼の男が本宮大湯原(おおゆのはら)で射取った猪を食べた(《熊野権現御垂迹縁起》)とあり,この猪(別の伝承では熊)を媒介として,本宮における阿弥陀如来の出現という形をとったらしく,本宮の本地は阿弥陀如来とされ,本宮そのものも〈証誠殿(しようじようでん)〉として,極楽往生の証明を受けられる場所と信じられるようになった。那智神社の近傍にも補陀洛山寺(ふだらくせんじ)(補陀洛寺とも)が置かれ,この浜から沖へ向かってこぎ出す〈補陀落渡海〉が行われた。これは南方の観世音菩薩の浄土である補陀落浄土にあこがれて大海に航行しようとするもので,ごく古い死者処理の方式である水葬の慣行と関係深いと思われるが,このようにして,本宮の本地は阿弥陀如来,那智の本地は千手観音,もう一つの新宮速玉神社の本地は薬師如来として,仏教による解説が整い,三山は仏教色の濃厚な山岳宗教の霊場として喧伝されるにいたった。…
…また浄蔵,応照,仲算に代表される那智千日修行は滝修行を中心とするものである。 一方,那智山を補陀落浄土とみなしたことから,那智山権現の供僧寺であった青岸渡(せいがんと)寺が西国三十三所観音巡礼(西国三十三所)の第1番札所とされ,また那智の浜ノ宮から海上に船出して補陀落浄土に往生しようという補陀落渡海も行われ,補陀洛山寺の住僧をはじめ,渡海者が輩出した。熊野大社【宮本 袈裟雄】。…
※「補陀洛山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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