デジタル大辞泉
「豊竹若太夫」の意味・読み・例文・類語
とよたけ‐わかたゆう〔‐わかタイフ〕【豊竹若太夫】
義太夫節の太夫。
(初世)[1681~1764]大坂の人。通称、河内屋勘右衛門。初世竹本義太夫の門人。元禄16年(1703)豊竹若太夫を名のり、竹本座に対抗して豊竹座を創設。のち、上野少掾・越前少掾を受領。
(10世)[1888~1967]徳島の生まれ。本名、林英雄。昭和25年(1950)若太夫を襲名。豪放な語り口に特色があった。
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とよたけ‐わかたゆう【豊竹若太夫】
- 義太夫節の太夫。初世。大坂の人。初世竹本義太夫の高弟。元祿一六年(一七〇三)豊竹座を興し、豊竹若太夫を名乗る。美声の上、華麗な節回しで東風を創始。梁塵軒の名で「酒呑童子出生記」などの作品を発表、経営にもすぐれた。上野少掾・越前少掾を受領。天和元~明和元年(一六八一‐一七六四)
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豊竹若太夫
とよたけわかたゆう
義太夫(ぎだゆう)節の大夫。
[倉田喜弘]
(1681―1764)竹本義太夫に学んだ竹本采女(うねめ)は、1703年(元禄16)豊竹座を創設したとき、豊竹若太夫と改める。大音の義太夫に対し、美音を駆使して人気をよび、竹本座とともに人形芝居繁栄の基礎を築いた。1718年(享保3)に上野少掾(こうづけのしょうじょう)を受領(ずりょう)、さらに31年越前(えちぜん)少掾を再受領した。『北条時頼記(じらいき)』は一代の当り芸である。45年(延享2)の引退後も、座本として豊竹座の経営にあたった。作者として紀海音(きのかいおん)、西沢一風(いっぷう)、並木宗輔(そうすけ)らを擁し、自らも梁塵軒(りょうじんけん)の名で『酒呑童子出生記』(しゅてんどうじしゅっしょうき)ほかの浄瑠璃(じょうるり)を著した。明和(めいわ)元年9月13日没。
[倉田喜弘]
(?―1784)初世の孫。前名は竹本島太夫。1750年(寛延3)に相続し、美音家として名をはせた。
[倉田喜弘]
(1888―1967)本名林英雄。徳島県生まれ。1903年(明治36)2世豊竹呂太夫(ろだゆう)に入門。英(はなぶさ)太夫、7世島太夫、3世呂太夫を経て、1950年(昭和25)に10世を襲名した。三和会(みつわかい)の中心となって活躍し、豪放な語り口で『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)「熊谷陣屋」(くまがいじんや)の段、『源平布引滝』(げんぺいぬのびきのたき)「松波検校琵琶」(まつなみけんぎょうびわ)の段、『花上野誉石碑』(はなのうえのほまれのいしぶみ)「志渡寺」(しどうじ)の段など時代物を得意とした。
[倉田喜弘]
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豊竹 若太夫(10代目)
トヨタケ ワカタユウ
- 職業
- 義太夫節太夫(文楽)
- 専門
- 人形浄瑠璃
- 肩書
- 重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・太夫)〔昭和37年〕
- 本名
- 林 英雄(ハヤシ ヒデオ)
- 別名
- 前名=豊竹 英太夫,豊竹 嶋太夫(7代目),豊竹 呂太夫(3代目)
- 生年月日
- 明治21年 5月17日
- 出生地
- 徳島県
- 経歴
- 義太夫節好きの父の影響で、8歳から稽古を受ける。明治34年2代目豊竹呂太夫に入門、英太夫を名乗る。43年初舞台。大正9年7代目嶋太夫を経て、昭和7年3代目呂太夫を襲名。15年頃から視力が衰え、60年代でほとんど視力を失う。19年切の字を許される。22年文楽座組合結成に参加、24年2代目桐竹紋十郎らと三和会結成。25年10代目若太夫を襲名。26年徳島市の歌舞伎座で襲名公演を行う。31年頃より無本で語る。37年人間国宝。激情的な語り口に特色があった。代表曲に「摂州合邦辻・合邦庵室の段」「奥州安達原・袖萩祭文の段」「義経千本桜・すしやの段」「一谷嫩軍記・熊谷陣屋の段」「和田合戦女舞鶴・市若切腹の段」など。
- 受賞
- 芸術選奨文部大臣賞〔昭和41年〕 勲四等瑞宝章〔昭和40年〕
- 没年月日
- 昭和42年 4月18日 (1967年)
- 家族
- 孫=豊竹 英太夫(3代目)
- 伝記
- 阿波の人形師と人形芝居総覧 久米 惣七 著,阿波木偶制作保存会 編(発行元 創思社出版 ’88発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
豊竹若太夫 (とよたけわかたゆう)
義太夫節の太夫。(1)初世(1681-1764・天和1-明和1) 竹本義太夫の門人で,初名竹本采女。1703年(元禄16),竹本座から独立して豊竹座を創設し,そのとき若太夫と改名。一度失敗したが,07年(宝永4)豊竹座を再興。のち豊竹上野少掾を受領,さらに31年(享保16)豊竹越前少掾藤原重泰を再受領した。45年(延享2)65歳で引退し,84歳の高齢で没。美音にめぐまれ,音楽性の強いはなやかな芸風は〈東風〉と称する豊竹座の様式をうみ,作者に紀海音(きのかいおん)を擁して,竹本座と対抗して人気を二分した。一代の当り芸は2年ごしの興行で豊竹座の名声と財政を盤石たらしめた《北条時頼記》(1726初演)など。芝居主,座本を兼ね,また梁塵軒の名で,作者としても活躍した。(2)2世(?-1784(天明4)) 竹本播磨少掾の門人。志摩太夫から2世竹本島太夫となり,1748年(寛延1)に起こった忠臣蔵騒動(《仮名手本忠臣蔵》)で豊竹座へ移籍,翌々年2世を襲名したが,のち再び島太夫(豊竹島太夫)と称した。(3)3世 生没年不詳。初世の孫で,1770年(明和7)ごろ3世をつぐ。(4)4世 生没年不詳。18世紀後半に主として江戸で活躍。通称幾竹屋庄蔵。(5)5世 生没年不詳。19世紀前半に富太夫から5世となる。通称次郎兵衛。幕末期大立物のひとり。(6)10世(1888-1967・明治21-昭和42) 本名林英雄。2世豊竹呂太夫の門人。英太夫(はなぶさたゆう),7世島太夫,3世呂太夫を経て,1950年,10世を襲名。激情的な語り口に特色があった。重要無形文化財保持者。
執筆者:井野辺 潔
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豊竹 若太夫(10代目)
トヨタケ ワカタユウ
明治〜昭和期の義太夫節太夫(文楽)
- 生年
- 明治21(1888)年5月17日
- 没年
- 昭和42(1967)年4月18日
- 出生地
- 徳島県
- 本名
- 林 英雄
- 別名
- 前名=豊竹 英太夫,豊竹 嶋太夫(7代目),豊竹 呂太夫(3代目)
- 主な受賞名〔年〕
- 芸術選奨〔昭和41年〕
- 経歴
- 明治34年2代目豊竹呂太夫に入門、英太夫を名のる。43年初舞台。大正9年7代目嶋太夫を経て、昭和7年3代目呂太夫を襲名。22年文楽座組合結成に参加、24年2代目桐竹紋十郎らと三和会結成。25年10代目若太夫を襲名。31年頃より失明し、以降無本で語る。激情的な語り口に特色があった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
豊竹若太夫(1世)
とよたけわかたゆう[いっせい]
[生]天和1(1681)
[没]明和1(1764)
義太夫節の太夫。1世竹本義太夫 (筑後掾) の門弟。初名竹本采女。元禄 16 (1703) 年豊竹座を創立,豊竹若太夫と名のり義太夫節界を二分する豊竹氏の祖となる。享保3 (18) 年上野少掾,同 16年越前少掾を受領。享保9年以後,豊竹座の座元,名代,劇場主を兼ね,太夫,興行師両面で活躍。作者紀海音,並木宗輔と提携。延享2 (45) 年太夫を引退,興行師として,また梁塵軒の名で作者としても活躍。美声で表現力に富み,竹本座の地味な西風に対し,派手な東風を確立。
豊竹若太夫(2世)
とよたけわかたゆう[にせい]
[生]?
[没]天明4(1784)
義太夫節の太夫。通称平右衛門。2世竹本義太夫の門弟。前名竹本島太夫。寛延3 (1750) 年2世を襲名するが,のち島太夫に戻った。美声で知られ,『寺子屋』『廿四孝』などを得意とした。
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豊竹若太夫【とよたけわかたゆう】
義太夫節演奏家の芸名。10世まである。初世〔1681-1764〕は豊竹派の始祖。通称河内屋勘右衛門。初世竹本義太夫の門弟で,初め竹本采女と称した。15歳のとき竹本座に出演,美声家として有名になる。1703年に師のもとを去り,豊竹座を興して豊竹若太夫と名乗り,師の没後人気を得た。
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豊竹若太夫(2代) とよたけ-わかたゆう
1712-1784 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
正徳(しょうとく)2年生まれ。義太夫節の豊竹越前少掾(えちぜんのしょうじょう)(初代若太夫)の孫。大坂の人。竹本播磨少掾(はりまのしょうじょう)の弟子。竹本志摩太夫,島太夫を名のる。寛延元年竹本座から豊竹座へうつり,2代豊竹島太夫と改名。3年2代若太夫を襲名,のち島太夫にもどる。美音家として知られた。天明4年9月10日死去。73歳。通称は芋屋平右衛門。
豊竹若太夫(3代) とよたけ-わかたゆう
?-? 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節の豊竹越前少掾(えちぜんのしょうじょう)(初代若太夫)の孫。大坂の人。明和7年(1770)ごろ3代を襲名。のち江戸にうつり,肥前座,外記座に出演した。従来3代とされてきた幾竹屋庄蔵は最近の研究で4代とされる。通称は森川屋庄蔵。
豊竹若太夫(5代) とよたけ-わかたゆう
?-1850? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
2代豊竹巴太夫の弟。義太夫節。豊竹富太夫を名のり大坂,江戸で修業をかさね,天保(てんぽう)4年5代を襲名。大坂竹田芝居で櫓下(やぐらした)となる。嘉永(かえい)3年ごろ京都で興行中に急死したといわれる。通称は治郎兵衛。
豊竹若太夫(4代) とよたけ-わかたゆう
?-? 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。天明3-4年(1783-84)のころ4代を襲名。寛政3年(1791)ごろまで江戸で活躍している。従来2代豊竹巴太夫の前名とされてきたが,別人である。通称は幾竹屋庄蔵。
豊竹若太夫(7代) とよたけ-わかたゆう
?-1877? 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節の3代豊竹巴太夫の弟子。豊竹伊豆太夫,錦太夫をへて明治2年7代を襲名。10年ごろ没したという。
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豊竹 若太夫(10代目) (とよたけ わかたゆう)
生年月日:1888年5月17日
明治時代-昭和時代の義太夫節太夫(文楽)
1967年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の豊竹若太夫の言及
【義太夫節】より
…竹本義太夫の後継者となった竹本政太夫(播磨少掾)によって,人間,とくに情を深く語るという義太夫節の特色がいっそう明確になった。一方,1703年(元禄16),音楽性を重んずる[豊竹若太夫](越前少掾)は[豊竹座]をたてて独立したが,やがて紀海音を作者に得て,竹本座と対抗した。享保10年代(1725‐34)には,現行の義太夫節の基本のかたちができた。…
【浄瑠璃】より
…98年(元禄11)筑後掾受領,1705年(宝永2)11月の《[用明天王職人鑑]》以後,[竹田出雲](座本),近松門左衛門(作者),[辰松八郎兵衛](人形),[竹沢権右衛門](三味線)を擁し活躍した。その没後は[竹本政太夫](《吉備津彦神社史料》《熊野年代記》に筑後掾悴義太夫の名があり,政太夫は2世義太夫とされてきたが3世か)が近松作品を深く語り分け,豊竹座の若太夫([豊竹若太夫],越前少掾)も紀海音の義理にからむ作風を巧みに観客の時代感覚に訴えて,西風(竹本),東風(豊竹)が競演し,浄瑠璃の近世意識が最高に発揮された。 享保(1716‐36)後半からの人形機巧の発達,舞台装置の発達は浄瑠璃の脚本化,舞台装置の歌舞伎化を招く。…
【豊竹座】より
…[竹本座]にたいする。1703年(元禄16),竹本義太夫の門弟竹本采女(うねめ)が独立,[豊竹若太夫](のち上野少掾,越前少掾)と改名して道頓堀に開設した。いったん失敗したが,07年(宝永4)に[紀海音]を座付作者に,人形の[辰松八郎兵衛]を相座本にむかえて再興した。…
【人形浄瑠璃】より
…同時に近松は,雄大,華麗に時代物にも健筆をふるい,《酒呑童子枕言葉》《[傾城反魂香]》《[平家女護島]》など100作近くを著したが,特に15年(正徳5)《[国性爺合戦]》は,17ヵ月続演の画期的大当りをとり,初代義太夫没後の竹本座の基礎を固め,この成功を契機として,18世紀前半の上方演劇界で,浄瑠璃は歌舞伎を圧し,現代劇の首座を占めるに至る。
[浄瑠璃全盛期――1720年代~1751年]
1703年初代義太夫の門弟[豊竹若太夫](越前少掾)は,竹本座から独立し[豊竹座]を創立,持ち前の美声と経営的手腕で地歩を固め,初代義太夫,近松没後の浄瑠璃界は竹豊両座対抗の時代を迎えた。両座の競争により浄瑠璃界はいっそう活気を帯び,享保後半~寛延期(1726‐51)25年間に,現在の文楽や歌舞伎の主要演目となる名作が次々と初演されるが,近松・[紀海音](1723年(享保8)以前の豊竹座作者)時代と異なり,これらの作品の多くは合作制により生み出された。…
※「豊竹若太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」