豊竹駒太夫(読み)とよたけこまたゆう[いっせい]

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊竹駒太夫」の意味・わかりやすい解説

豊竹駒太夫(1世)
とよたけこまたゆう[いっせい]

[生]?
[没]安永6 (1777)
義太夫節太夫大坂炭屋町に住んだ。最初 1世竹本大和太夫,次いで豊竹新太夫(肥前掾)に師事し,最終的に 1世豊竹若太夫(越前少掾)の預かり弟子となり,享保20(1735)年豊竹座に初出座。美声家の誉れ高く,高音がどこまでも自在に出るうえに裏声をつかうのが巧みで,人気を博した。宝暦1(1751)年の『一谷嫩軍記』の「流しの枝」,同 7年『祇園祭礼信仰記』の「爪先鼠」などにその語り口を残した。江戸肥前座での公演も好評だったが,大坂では豊竹座一筋に勤め,豊竹座退転後の明和3(1766)年には 2世豊竹此太夫とともに紋下櫓下)太夫となり,再興に尽力した。(→浄瑠璃人形浄瑠璃文楽

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「豊竹駒太夫」の解説

豊竹 駒太夫(7代目)
トヨタケ コマタユウ


職業
義太夫節太夫(文楽)

本名
辻田 万蔵

別名
前名=豊竹 小富太夫,豊竹 富太夫(4代目)

生年月日
明治15年 2月20日

出生地
大阪

経歴
幼少で失明、地歌を習ったが、明治20年3代目豊竹富太夫(6代目駒太夫)の門に入り、小富太夫を名乗った。師匠上京で豊沢松太郎らにけいこを受け、31年2代目竹本津太夫の預かり弟子として御霊文楽座で初舞台。35年4代目富太夫、大正3年7代駒太夫を襲名。「国性爺」の楼門、「忠臣蔵」の身売り、「昔八丈」の鈴ケ森など立端場の名手といわれた。

没年月日
昭和16年 3月31日 (1941年)


豊竹 駒太夫(6代目)
トヨタケ コマタユウ


職業
人形浄瑠璃太夫

本名
川崎 宗太郎

別名
初名=豊竹 広見太夫,前名=豊竹 富太夫(3代目)

生年月日
嘉永1年

出生地
大坂(大阪府)

経歴
5代目豊竹駒太夫の門弟。広見太夫から3代目富太夫を経て、明治25年6代目駒太夫を襲名した。巧みな節回し時代物大曲から艶物まで語り、晩年は東京・浅草に住んだ。

没年月日
大正2年 7月11日 (1913年)


豊竹 駒太夫(5代目)
トヨタケ コマタユウ


職業
人形浄瑠璃太夫

本名
岡本 弥太郎

別名
前名=豊竹 富司太夫

生年月日
?

経歴
素人出身でのち4代目豊竹巴太夫の門人となる。嘉永2(1849)年の初舞台でその美声が評判を呼ぶ。富司太夫から慶応1(1865)年5代目駒太夫を襲名。明治17年彦六座に出座。名人と云われた。

没年月日
明治20年 7月11日 (1887年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「豊竹駒太夫」の解説

豊竹 駒太夫(7代目)
トヨタケ コマタユウ

明治〜昭和期の義太夫節太夫(文楽)



生年
明治15(1882)年2月20日

没年
昭和16(1941)年3月31日

出生地
大阪

本名
辻田 万蔵

別名
前名=豊竹 小富太夫,豊竹 富太夫(4代目)

経歴
幼少で失明、地唄を習ったが、明治20年3代豊竹富太夫(6代駒太夫)の門に入り、小富太夫を名乗った。師匠の上京で野沢松太郎らにけいこを受け、31年2代竹本津太夫の預かり弟子として御霊文楽座で初舞台。35年4代富太夫、大正3年7代駒太夫を襲名。「国性爺」の楼門、「忠臣蔵」の身売り、「昔八丈」の鈴ケ森など立端場の名手といわれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「豊竹駒太夫」の解説

豊竹駒太夫(初代)

没年:安永6(1777)
生年:生年不詳
江戸中期,義太夫節の太夫。豊竹越前少掾(初代若太夫)の門人として享保20(1735)年豊竹座に初出座。寛延1(1748)年のいわゆる「忠臣蔵騒動」以後の豊竹座では豊竹筑前少掾,2代目島(若)太夫に次ぐ存在として二段目切を,筑前少掾引退(1757)以後は四段目切を主に語り,明和2(1765)年に豊竹座が興行権を譲って退転するまで活躍した。この間4度にわたる江戸下り(肥前座への出演)で江戸でも人気があった。美声で高い調子も自在に出たといわれ,なかでも「祇園祭礼信仰記」では三段目の「上燗屋の段」と四段目の「爪先鼠の段」を語り,3年越しのロングランとなる大当たりを取った。その語り口は現在でも「駒太夫風」として伝えられている。2代目は初代の子。7代目が昭和16(1941)年に没している。

(桜井弘)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「豊竹駒太夫」の解説

豊竹駒太夫(初代) とよたけ-こまたゆう

?-1777 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節。豊竹肥前掾(ひぜんのじょう),豊竹越前少掾(えちぜんのしょうじょう)にまなぶ。享保(きょうほう)20年豊竹座に初出演。江戸肥前座にも出演した。美声と裏声で今日に駒太夫風としてつたわる。安永6年4月死去。通称は播磨屋(はりまや)弥三郎。

豊竹駒太夫(7代) とよたけ-こまたゆう

1882-1941 明治-昭和時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治15年2月20日生まれ。幼少のときに失明。義太夫節の3代豊竹富太夫(6代駒太夫)の弟子となり,小富太夫を名のり,明治31年初出演。4代富太夫をへて大正3年7代を襲名した。昭和16年3月31日死去。60歳。大阪出身。本名は辻田万蔵。

豊竹駒太夫(2代) とよたけ-こまたゆう

?-? 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の初代豊竹駒太夫の子。豊竹生駒(いこま)太夫を名のり,明和3年(1766)北堀江市(いち)の側(かわ)に初出演。安永6年2代を襲名,以後大坂と江戸で活躍。父におとらぬ美声の持ち主であった。通称は藤右衛門。

豊竹駒太夫(3代) とよたけ-こまたゆう

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の初代豊竹巴(ともえ)太夫の弟子。初名は豊竹綾太夫。文化6年(1809)初出演。文政12年(1829)3代を襲名したが,翌年の公演以後は文駒翁を名のる。頭取として楽屋の取り締まりにあたった。通称は勇兵衛。

豊竹駒太夫(4代) とよたけ-こまたゆう

?-1859* 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の初代豊竹巴(ともえ)太夫の弟子。豊竹菊太夫,義花太夫,浪花太夫,小野太夫をへて天保(てんぽう)14年4代を襲名した。安政5年12月4日死去。通称は新兵衛。

豊竹駒太夫(5代) とよたけ-こまたゆう

?-1887 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の4代豊竹巴(ともえ)太夫の弟子。豊竹富司太夫を名のり嘉永(かえい)2年初出演。慶応元年5代を襲名した。明治20年7月11日死去。本名は岡本弥太郎。俳名は三国。

豊竹駒太夫(6代) とよたけ-こまたゆう

1848-1913 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
嘉永(かえい)元年生まれ。大坂の人。義太夫節の5代豊竹駒太夫の弟子。広見太夫,3代富太夫をへて明治25年6代を襲名した。大正2年7月11日死去。66歳。本名は山崎宗太郎。

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