日本歴史地名大系 「赤穂城跡」の解説
赤穂城跡
あこうじようあと
江戸時代の平城跡。おもに赤穂藩の藩庁として使用され、
〔池田氏の時代〕
慶長五年(一六〇〇)播磨一国を領有した姫路城主池田輝政の末弟池田長政が、支城として「一重ノ掻上城、堀、石垣、櫓、屏、門ヲ設ケ、北向ニ二階作リノ黒門ヲ建テ大手口トス」と伝える(赤穂郡志)。同二〇年輝政の第五子池田(松平)政綱が三万五千石で入封し(「校正池田氏系譜」鳥取県立博物館蔵)、大書院・玄関・広間・敷台・土蔵などを築造、元和七年(一六二一)の火事では「城ケ洲ノ屋敷」が残ったという(赤穂郡志)。松平輝興時代絵図には屋敷構・侍屋敷が描かれる。寛永八年(一六三一)池田(松平)輝興が入封して金間・多門・櫓・馬屋などを作ったといわれ(赤穂郡志)、松平輝興時代絵図によると、大川の右岸南端、中洲の堀・汐入りの中に石垣積の長方形に近い屋敷構があり、北に土橋を渡ると蔵屋敷と服部主水屋敷(二五間×一八間)が向き合い、さらに土橋を渡ると堀の内の北と西に三六軒の重臣邸が配置される。
〔浅野氏による本格的築城〕
正保二年(一六四五)浅野長直が五万三千石余で入封(「寛文朱印留」、「浅野赤穂分家済美録」浅野家文書)、長直によって本格的な城の拡大が始まった。入部の翌年設計がなされ、城北の愛宕山に鎮守の愛宕神社が創建された。「赤穂郡志」に「仮屋村今ノ大手口東西三百石ノ地ヲ加ヘテ新タニ城郭ヲ修ス、東西四百間・南北五百間、本丸、二・三の曲輪、櫓九、矢倉台九、天守台一ツ、大小書院・広間・玄関等ヲ作リ備ヘテ昔ノ城ニ三倍ス、家人近藤三郎左衛門ト議シテ縄張ス」とある。慶安元年(一六四八)から寛文元年(一六六一)まで一三年を費やして完成した(前守令公御行業条目)。
赤穂城の形式はデルタ上のため東の大川と南の海を利用した完全な海岸平城で、本丸・二の丸・三の丸・天守台も同一平面上で一〇櫓・一二門をもつ変形輪郭式。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報