軽海郷
かるみごう
「和名抄」所載の郷。高山寺本に「加流美」、東急本・刊本に「加留美」と訓ずる。遺称地は現小松市軽海町、郷域はその周辺と考えられる。推定郷域内に松ノ木谷横穴群がある。長寛元年(一一六三)頃に原型が成立したとされる「白山之記」に、檜新宮を建立した僧として軽海郷松谷に住む如是房がみえる。さらに同書によれば、中宮八院のうち隆明寺を除く七院までが当郷の内にあった。当郷の東方、手取川の河谷は白山宮加賀馬場の領域であり、北方には加賀国府があった。
軽海郷
かるみごう
現真正町軽海一帯にあったとみられる美濃国国衙領の一つ。永享二年(一四三〇)一二月二五日の「御前落居記録」によれば、恒富入道・同庶子等跡の当郷地頭職について広橋親光は、祖父仲光が明徳三年(一三九二)拝領して知行していたと主張、「施行分明之上、細々奉公」が認められ、広橋領と裁許された。なお相手方の大館氏は同地頭職について明徳元年拝領、一時広橋家に移ったが、応永一五年(一四〇八)に再び大館氏に返付されていたと主張していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の軽海郷の言及
【名子】より
…名子は妻子,眷属,脇の者,[下人](げにん)などと並び称されており,主人の家の内部の存在で,その家父長的支配に属すべきものとされていた。しかし前記の薩摩国谷山郡の名子が馬や銭を保有し,鎌倉時代末の加賀国軽海(かるみ)郷の名子江四郎なるものが板を売りに市へ出かけるなどの例を見ると,その経済的地位は必ずしも低いものばかりではなかったようである。上記の名子江四郎は別の文書では江四郎名(みよう)として現れ,独立した年貢徴収の対象として把握されている。…
※「軽海郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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