(1)1通の文書に複数の者がその官姓名,花押を列記すること。この場合,おおむね身分の高い者,上席者が宛所に近い後部に記される。ただし包紙のように上部に宛所,下部に差出者を記すものは普通の席次をもって行い,かつ多くの場合に連名者中の首末2名のみを記した。
執筆者:笠谷 和比古(2)鎌倉幕府の職名。執権を助けて政務を行い,執権とともに幕府発給の文書(政所下文(まんどころくだしぶみ),下知状(げちじよう),御教書(みぎようしよ)など)に署判するところからこの称がある。執権と合わせて両執権,両執事,両後見,両探題ということが多かったが,執権と連署の権限は同等でなく,連署はあくまでも補佐役であった。1224年(元仁1)執権北条義時の死後,北条政子が北条泰時を執権に任ずるとともに,北条時房を連署に任じたのが連署の最初とされてきたが,実は翌25年(嘉禄1)政子の死後,執権泰時が時房を連署としたのを最初とみるべきである。連署は北条氏一門の有力者が就任し,中には政村のように執権に進んだ者もいる。しかし64年(文永1)から68年まで北条時宗が例外的,臨時的に連署となったほかは,得宗家から連署に就任した者はいない。執権と並んで連署を置いたのは,幕府政治を合議によって運営するためであるが,連署を欠き執権のみで政務を行った時期もある。
執筆者:上横手 雅敬(3)現代の日本では,法律と政令には,すべて主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署しなければならないことになっている(日本国憲法74条)。その趣旨は,一般には,法律や政令の規定する事項を行政上所管する主任の国務大臣と,内閣の代表者としての内閣総理大臣の署名をもって,その執行責任の所在を明らかにするところにあるとされる。連署とは,複数の者が同じ書面に各氏名を自署をもって連記することをいうが,内閣総理大臣が主任の国務大臣である場合は,結果として,署名と連署が同一氏名ということになる。
地方自治法上では,条例の制定,改廃および監査を住民が請求する場合,さらに,議会の解散請求,議会議員・長その他の役員の解職請求をする場合は,それぞれ,有権者総数の50分の1以上,3分の1以上の連署をもって,その代表者が請求することになっている(地方自治法74条1項,75条1項,76条1項,80条1項,81条1項,86条1項)。この場合署名の連続を示せる署名簿でなければ,署名として有効でない。
なお,君主の大権行使に対する大臣助言制の方式として,君主の署名(親署)に添えて大臣が自署することを副署といった(明治憲法55条2項)。日本国憲法には規定はないが,文書による天皇の国事行為には内閣がすべて責任を負うたてまえである〈内閣の助言と承認〉(日本国憲法3条)のあかしとして,天皇の親署と並んで内閣総理大臣が署名(副署)する例となっている。フランスのように大統領の行為に対して大臣が副署する制度もある。
執筆者:清水 睦
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本来は文書(もんじょ)に複数の者が署名・押判(おうはん)する行為を意味するが、転じて鎌倉幕府の職名となった。鎌倉幕府の連署は、執権(しっけん)を補佐して政務を行い、公文書に執権と並んで署判(しょはん)を加えるところから、このように称せられ、執権を含めて両執権、両後見などともよばれた。普通、1225年(嘉禄1)6、7月に大江広元(おおえのひろもと)、北条政子(まさこ)が相次いで没したのち、執権北条泰時(やすとき)が叔父時房(ときふさ)をこの職に迎えたのが最初とされるが、早く1216、17年(建保4、5)ごろ広元が執権北条義時(よしとき)と並ぶ地位についており、連署制の先蹤(せんしょう)はここに求めるべきである。時房以後は代々北条氏一門の有力者が就任(ときに欠員あり)、なかには執権に進んだ者もあったが、時宗(ときむね)を例外として得宗(とくそう)(北条氏宗家の家督)が連署になったことはない。
[杉橋隆夫]
『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』▽『杉橋隆夫著『鎌倉執権政治の成立過程』(御家人制研究会編『御家人制の研究』所収・1981・吉川弘文館)』
複数の者が同一書面上に署名すること。法律および政令にはすべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署する(憲法74条)。法律については執行の責任、政令については制定と執行の責任を明らかにするためであるが、内閣総理大臣の連署については内閣を代表して、その責任を明らかにするためである。
地方自治法上、直接請求をする場合、条例の制定改廃および監査請求にあっては有権者総数の50分の1以上の者の連署をもって、議会の解散請求、議員、長その位の役職員の解職請求にあっては原則として有権者総数の3分の1以上の者の連署をもって代表者から請求する。この連署は代表者の作成した署名簿にそれぞれ選挙人が署名し印を押すことによってなされる。住居表示に関する法律では公示された住居表示案につき50人以上の連署により変更を請求できる。
[阿部泰隆]
字通「連」の項目を見る。
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一般には1通の文書に連名で署判することを意味するが,鎌倉幕府では執権と連名で署判をする役職をいった。執権の次席として政務を補佐する重職。執権・連署をあわせて,両執権・両後見・両国司・両探題ともいった。1224年(元仁元)執権北条義時の死後,執権に義時の子泰時が就任し,翌年連署に弟時房を任じたのが始まり。以後,得宗家が執権を勤め,重時流・政村流・実泰流・時房流など得宗家に忠実な有力庶家から連署が選ばれた。得宗家で連署についたのは時宗だけで,この場合は連署の政村が執権に就任,時宗がふさわしい年齢に達してから連署に復した。得宗家から執権を出せない場合,連署から執権となった例もある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…13年(建保1)和田義盛の滅亡後,執権北条義時は和田氏が持っていた侍所別当をも奪い,北条氏は政所・侍所別当を独占するようになった。25年(嘉禄1)執権泰時は連署を置いたが,当時執権,連署はともに執権と呼ばれたから,これ以来執権が2名になったものとみてよく,関東下知状,御教書などの公文書は,両執権の名で発布されるようになった。執権は最初は北条氏の家督(得宗)に伝えられたが,56年(康元1)北条時頼が長時に執権を譲って以来,得宗以外のものも執権に就任するようになった。…
…以上は,小切手法上の署名(小切手法67条)についてもあてはまる。手形行為【今井 潔】
[公法上の署名]
(1)法律・政令の署名 法律・政令には主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署することを必要とする(日本国憲法74条)。連署とは,他の者の署名にそえて署名することをいい,副署も同義であるが,明治憲法下では,天皇の親書にそえて国務大臣が署名することをとくに副署と呼んでいた。…
…もともとは前記の仏教用語に発するもので,その論題の判定機能のゆえに幕府の裁判担当者の職名に転じたとみなされている。鎌倉幕府では東国の執権・連署が探題と呼ばれ,また西国・九州を単位としてそれぞれ六波羅探題・鎮西探題が置かれたが,その職名は通称であって,正式の職名ではなかったようである。室町幕府では幕府や関東府の管領・執事が探題と呼ばれた例はなく,それ以外の広い地域の管領権を有する職についてのみ探題と呼ばれた。…
… 現在だけでなく将来においても,売買契約が正確に遵守されるためには,売主はさまざまの保証義務を負った。その一つに保証人の連署がある。各時代を通じて売主の家族,とくに嫡男の加署が圧倒的に多く,その他庶子や夫妻の署名も少なくない。…
…泰時の伯母である政子は,当時実質的な将軍の役割を果たしていたが,翌25年(嘉禄1)に没し,これを契機に泰時は大いに政治改革を行った。 泰時は執権とならんで執権を補佐する連署を置き,六波羅にいた時房をこれに任じた。また評定衆を置き,中原師員(もろかず),三浦義村ら11名をこれに任じた。…
…〈れんばん〉とも読む。類似の語に連署があるが,これは必ずしも花押・印を伴わず署名のみのときにも用いられる。また連署の呼称は奈良時代より見え,近世に及ぶが,連判は主として中世以後用いられた。…
※「連署」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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