野々宮神社(読み)ののみやじんじや

日本歴史地名大系 「野々宮神社」の解説

野々宮神社
ののみやじんじや

[現在地名]右京区嵯峨野々宮町

天龍寺の北にあり、伊勢斎王の野宮の旧地。祭神天照あまてらす大神。旧村社。境内に末社として愛宕神社・松尾まつお神社・若宮八幡宮を祀る。野宮は、斎王に卜定された未婚の内親王が斎宮(伊勢)・斎院(賀茂)に移る前に一年間潔斎のためにこもる所で、「延喜式」(斎宮)

<資料は省略されています>

と記される。すなわち斎王が決まるごとに宮城外の浄野を卜定しており、一定した場所はないが斎宮の野宮は嵯峨野、斎院の場合は紫野むらさきの有栖川ありすがわ(現京都市北区)であることが多い。

野々宮神社
ののみやじんじや

[現在地名]野市町西野 東上野

西野にしのの北部、通称東上野ひがしうわの鎮座八幡宮野神のがみ社が合祭され、野宮ののみやとも野宮八幡ともいう。八幡宮は応神天皇・神功皇后、野神社は野槌神を祀る。旧村社。平治の乱後、長岡郡介良けら(現高知市)に流されていた源頼朝の弟希義は、頼朝の挙兵にあたり、香美郡夜須やす(現夜須町)の夜須行家のもとに向かう途中、平家方の蓮池権守家綱らに追撃され年越としごえ(現南国市)で討たれた。

野々宮神社
ののみやじんじや

[現在地名]右京区西院日照町

四条通の南で、葛野東かどのひがし通の一本西側の通りの西側に鎮座する。近世には「野宮森」(山城名勝志)とよばれた地である。祭神は倭姫やまとひめ命・布勢田親王。平安時代には「西四条斎宮」(同書)ともよばれ、伊勢斎宮の潔斎所であったらしく、「玉葉集」に次の歌が収められる。

<資料は省略されています>

雅子内親王は醍醐皇女で朱雀天皇の時の斎宮である。「河海抄」にも「野宮四条の西の末也」とある。「賀越闘諍記」に「細川京兆高国讃州聡明殿、家督ノ争ヒアリ、(中略)高国公方京都塩小路ノ千乗寺口ニ於テ、四国衆又遊佐弾正ト合戦アリシ時、朝倉景紀ハ敵ヲ野々宮マテ追掛テ、遊佐弾正ヲ討捕」とある野々宮がこの社のことと思われ、室町時代には野々宮の名でよばれていたらしい。

野々宮神社
ののみやじんじや

[現在地名]梓川村大字倭 北大妻

北大妻きたおおづま集落の西北部に位置し東向き。旧郷社。祭神倭姫命・誉田別命・伊弉冊命。初見は天文年代(一五三二―五五)で「二木家記」に「野々宮」とある。元禄一〇年(一六九七)村々氏神寺堂書上帳(中沢有斐氏蔵)によれば、「野々宮三社大明神、大門東向、宮高サ一丈一尺、九尺四方、但こけらぶき、とびら三つあり」とあって、三社明神であった。祭の中にかつて七月五日の夜祭に旧上野組二一ヵ村の参加のもとに蚕穀豊饒祈願のため引目鳴弦鏑の神事を行い、旱魃の時には温堰ぬるせぎ掛りの村々が野々宮に集まって雨乞いをし、梓川に洪水の出た時は神社を温堰の取入口の荒井あらいに移してこれを祀ることを例としている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の野々宮神社の言及

【斎宮】より

…野宮は洛西に置かれたようで,《源氏物語》賢木巻の舞台ともなる。嵯峨野の野々宮神社は,ある時期の野宮の跡という。野宮入りの翌年9月,天皇と永別のたてまえで伊勢に向かう。…

【野宮】より

…《延喜式》によれば,野宮は斎王ごとに宮城外の浄野を卜定するとあり,一定していなかった。しかし嵯峨野や西院に設けられることが多く,両所に野々宮神社として残っている。賀茂の斎院の場合は,初斎院で3年潔斎ののち,3年目の4月に紫野(むらさきの)などに設けられた,野宮の斎院に入り,その年の賀茂祭の祭事に供奉した。…

※「野々宮神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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