千葉県北西端の市。2003年6月旧野田市が関宿(せきやど)町を編入して成立した。人口15万5491(2010)。
野田市北部の旧町。旧東葛飾郡所属。人口3万1275(2000)。利根川と江戸川の分流点にあり,町域は両河川にはさまれている。中心集落の関宿は江戸時代には関宿城下の侍屋敷町であった。町人町は江戸川対岸の埼玉県幸手市西関宿や利根川対岸の茨城県境町であったが,県域決定の際,両川を境界に区画されたので城下町は千葉・埼玉・茨城3県に分断された。明治以降,町は衰微し,河川改修によって城跡は河川敷となった。現在は周辺農村の小商業中心にすぎない。農業は野菜の生産が主で,機械,化学などの工場も立地する。1970年ころまでは人口が減少していたが,近年は役場のある東宝珠花(ひがしほうしゆぱな)など南部を中心に住宅地化が進み,人口がふえている。1964年江戸川に関宿大橋,利根川に境大橋が完成して交通が便利になった。
執筆者:千葉 立也
下総国関宿城の城下町で,利根川と江戸川の分流点にある川岸町。戦国期に古河公方に属する簗田(やなだ)氏が築城して居城とした。1590年(天正18)徳川家康の関東入国とともに松平康元が4万石で入城,以後小笠原氏,北条氏,牧野氏,板倉氏,久世氏,牧野氏と続き,1705年(宝永2)に久世重之が6万石で入封以後は明治まで変わらなかった。城下町は城の南方大手門の外に台町,江戸町,上町,下町,内町,利根川の対岸に境町などがあり,江戸川沿いに内河岸,対岸に向河岸,向下河岸の関宿三河岸があって,多くの問屋商人が軒を並べていた。特にここが北関東への干鰯(ほしか),〆粕(しめかす)など金肥流入の拠点となっていたので,江戸,相州浦賀と並ぶ大きな干鰯問屋があった。1774年(安永3)には内河岸に9軒,向河岸に4軒,向下河岸に22軒の船問屋があったが,これは諸荷物請払輸送のみではなく,関宿関の船改めの下請けという特殊な業務を行っていた。江戸往来の川船は三河岸の船問屋に〈宿付〉という契約を結び,船問屋はその船が着いたとき積荷などの改めをして手数料を取り手形を発行し,関所はこれを見て通船を許した。しかし,ここは上野・下野・常陸・下総各方面より江戸に向かう船が輻輳(ふくそう)して関所改めによって滞留し,幕府は1660年(万治3)に用事もなく船を止め置くことを禁止する法令を出すほどだったので,後には改めの順番を定める番取札制度を設けた。また,三河岸からは毎夕江戸日本橋小網町に向けて乗合夜船が出船し,奥州,北関東方面から江戸に向かう旅人の人気を得た。文化年間(1804-18)には乗客20~30人の乗合船が日に2~3艘も出船したこともあったといい,江戸行乗合船出船の独占権をもつ境河岸の問屋から訴えられたが,なかなか止まらなかった。1877年に外輪蒸気船通運丸が就航し,乗合船は消えていったが,その後物資輸送が水運から鉄道に移行し,鉄道の通らなかった関宿は交通の要衝の地位を失って衰えた。
執筆者:川名 登
野田市中南部の旧市。1950年野田町と旭,梅郷(うめさと),七福(ななふく)の3村が合体,市制。人口11万9922(2000)。市域は両総台地の北西端を占め,江戸川と利根川に囲まれる。中心市街の野田はしょうゆ生産で名高く,その起源は永禄年間(1558-70)とされる。本格的な生産が始まったのは寛文年間(1661-73)で,茂木・高梨両家が中心となり,江戸川の水運を利用して江戸をはじめ各地に輸送した。1887年野田醬油醸造組合が結成され,同組合は1911年野田~柏間県営鉄道(現,東武野田線)を敷設するなど市域の近代化につとめた。17年茂木,高梨と流山の堀切家,および野田醬油合資会社が合併して野田醬油会社(現,キッコーマン)をつくった。今日では東京のしょうゆ需要の約80%を供給し,海外にも輸出している。市域にはしょうゆ工場と関連産業が多く,食料品製造業が市全体の工業出荷額の35%(1995)を占めている。近年は梅郷や七福に工業団地が造成され,金属・化学・機械工業も立地している。清水公園は桜,ツツジの名所として知られ,野田市郷土博物館にはしょうゆ業に関する資料が多い。
執筆者:菊地 利夫
岩手県北東部,九戸(くのへ)郡の村。人口4632(2010)。東は太平洋に臨み,北から西は久慈市に接する。北上高地に連なる山地からなり,海岸部は低い段丘を形成している。安家(あつか)川が北東流して太平洋に注ぎ,川沿いにわずかの低地が開ける。漁業はワカメ,ホタテガイの養殖が盛んで,特にホタテ稚貝の生産は県内一である。農業は海霧のため恵まれないが,養豚,食用菊や大豆の栽培などが行われている。マンガン鉱を産出する野田玉川鉱山があったが,1984年閉山した。海岸部は陸中海岸国立公園に含まれ,薄紫色の小豆砂が美しい十府ヶ浦(とうがうら)海岸,下安家渓谷などの景勝地があり,三陸鉄道北リアス線が通じる。
執筆者:松橋 公治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県北西部にある市。利根(とね)川と江戸川に挟まれた下総(しもうさ)台地上に位置する。1950年(昭和25)野田町と旭(あさひ)、七福(ななふく)、梅郷(うめさと)の3村が合併して市制施行。1957年川間(かわま)、福田の2村を編入。2003年(平成15)関宿町(せきやどまち)を編入。地名は広い原野に水田が開かれたことに由来する。市域の中央部から東武鉄道野田線と国道16号が南下する。平安時代末、下河辺荘(しもこうべのしょう)に属し、中世、関宿城主簗田氏(やなだうじ)に支配され、江戸時代は幕府直轄地、旗本領地となった。江戸川水運が盛んになると原料、製品の集散が容易になり、しょうゆ醸造が本格化し、1781年(天明1)には野田醤油(しょうゆ)仲間が成立、江戸における地位を高めた。明治時代以後もしょうゆ工業によって発展を遂げ、現在は全国有数の生産量を誇る。第二次世界大戦後の高度成長期には複数の内陸工業団地が造成され、住宅地開発も進展した。ホウレンソウ、ダイコン、サトイモなどの近郊農業も行われる。清水(しみず)公園はサクラ、ツツジの名所で、遊園地、フィールドアスレチック、釣り堀が併設されている。隣接地に小金牧(こがねのまき)の牧士(もくし)の居宅であった旧花野井(はなのい)家住宅が移築されており、国の重要文化財に指定されている。ほかに野田市郷土博物館やしょうゆ醸造会社の資料館、県無形民俗文化財のばっぱか獅子舞(ししまい)や、神輿(みこし)ごと泥の中に飛び込む奇祭の泥祭りなどがある。面積103.55平方キロメートル、人口15万2638(2020)。
[山村順次]
『佐藤真著『野田郷土史』(1980・歴史図書社)』
岩手県北東部、九戸郡(くのへぐん)の村。太平洋陸中海岸に面し、海岸沿いを三陸鉄道リアス線、国道45号が走る。海霧の影響で農業は不振であったが、近年、養豚が盛んになり野田豚として出荷している。野田港はホタテ、サケの水揚げが主力。また、野田玉川鉱山は小規模ながら高品位のマンガンを産出したが閉山し、現在は観光施設「マリンローズパーク野田玉川」として旧坑道の一部を公開。2011年(平成23)の東日本大震災では15メートルを超える津波に襲われ、被害は死者39人、住家全壊311棟・半壊168棟に及んだ(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。砂浜の十府(とふ)ヶ浦、えぼし岩など奇石の多い玉川海岸、西行(さいぎょう)が草庵(そうあん)を結んだという西行屋敷跡などがある。海岸一帯は三陸復興国立公園(旧、陸中海岸国立公園)域。面積80.80平方キロメートル(一部境界未定)、人口3936(2020)。
[川本忠平]
鹿児島県北西部、出水郡(いずみぐん)にあった旧町名(野田町(ちょう))。現在は出水市の西端部を占める。旧野田町は1975年(昭和50)町制施行。町名は1657年(明暦(めいれき)3)に新設された郷名による。2006年(平成18)出水市に合併。旧町域は北に傾斜した低い出水台地の西端を占め、肥薩(ひさつ)おれんじ鉄道と国道3号、504号が通る。島津氏の始祖忠久(ただひさ)が薩摩(さつま)支配の拠点とした木牟礼(きのむれ)城(出水市高尾野(たかおの)町)に接し、5代貞久(さだひさ)までの墓が感応寺にある。農業が主産業で、米、ミカン、タバコの生産が多い。ツルおよびその渡来地は特別天然記念物。
[白石太良]
『『野田村郷土誌』(1974・野田村)』
大阪市福島区の一地区。旧野田村。淀(よど)川の下流安治(あじ)川の北岸にある。JRの大阪環状線と東西線、阪神電鉄本線、地下鉄千日前(せんにちまえ)線、国道2号などが通じる交通の要地。国道沿いは自動車関連企業が多い。安治川沿いに大阪中央卸売市場がある。
[樋口節夫]
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