(読み)さかう

精選版 日本国語大辞典 「境」の意味・読み・例文・類語

さか・う さかふ【境】

[1] 〘他ハ四〙
① こちらとあちらを区別する。境界をつける。さかいとする。わけへだてる。
※書紀(720)成務五年九月(北野本訓)「則はち山河(やまかは)を隔(サカヒ)て国(くに)(あがた)を分(わか)つ」
太平記(14C後)一九「勇士猛将の陣を取て敵を待つには、後は山により、前は水を堺(サカ)ふ事にてこそあるに」
② 物事の区別をはっきりさせる。
※名語記(1275)八「相撲のめたられにて相論するをさかふ如何。同前、堺の如し。勝負の堺也」
[2] 〘他ハ下二〙 (一)に同じ。
御伽草子・胡蝶物語(有朋堂文庫所収)(室町末)「峯をさかへ、谷を限り」

さか【境】

〘語素〙 さかい。境界。「海(うな)さか」「岩さか」など。
[語誌](1)動詞「さく(裂・割)」と同源で、「なは(縄)━なふ(綯)」「つか(塚)━つく(築)」「をさ(長)━をす(治)」等と同様の関係(「さか(境)━さく(割)」)であると考えられる。
(2)「天津磐境」〔書紀‐神代下〕、「海界」〔万葉‐一七四〇〕など複合語でみられ、また「泉津平坂」〔書紀‐神代上〕、「海坂」〔古事記‐上〕のように「坂」が用いられることもある。
(3)「さか」を動詞化した「さかふ」、その連用形「さかひ」が名詞として定着し、境の意での「さか」の語形は上代でも古語となっていたようである。

さかい‐・する さかひ‥【境】

〘他サ変〙 さかひ・す 〘他サ変〙 境界をつける。境目とする。
※慶応再版英和対訳辞書(1867)「Abut 境ヒシテ居ル、転輳スル、隣リテ居ル、一道ニナル」

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デジタル大辞泉 「境」の意味・読み・例文・類語

さかい〔さかひ〕【境/界】

土地と土地との区切り。境界。「隣との―」「県―」
ものとものとが接する所。また、ある状態と他の状態との分かれ目。区切り目。境目。「空と海との―」「生死の―をさまよう」→境する
ある範囲の内。地域。場所。また、境遇。
「身体を安逸の―に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は」〈漱石明暗
心境。境地。
「―に入りはてたる人の句は、此の風情のみなるべし」〈ささめごと
[類語](1)(2境界きょうかい境界線区画仕切り境目さかいめきわ分かれ目区切り折り目一線一段落節目分界臨界いきボーダーライン/(3地域区域地区地方方面一円一帯地帯界隈かいわい土地境域領域エリアゾーン区画

きょう【境】[漢字項目]

[音]キョウ(キャウ)(呉) ケイ(漢) [訓]さかい
学習漢字]5年
〈キョウ〉
土地の区切り目。さかい。「境界越境国境四境
一定の区切られた場所。「異境環境仙境秘境辺境魔境
置かれた状態。「境涯境遇境地佳境逆境苦境順境心境進境老境
仏教で、認識の対象となる世界。「六境
〈ケイ〉社寺などの外囲い。「境内
〈さかい(ざかい)〉「境目県境国境地境潮境見境
[難読]海境うなさか

きょう〔キヤウ〕【境】

場所。地域。土地。「無人の
心の状態。境地。「無我のに入る」
環境。境遇。
「誰しも―には転ぜらるる習いなり」〈露伴露団々
仏語。五官および心の働きにより認識される対象。六根の対象の、色・声・香・味・触・法の六境をいう。境界きょうがい
[類語]心境境地地域区域地区地方方面一円一帯地帯界隈かいわい土地境域さかい領域エリアゾーン区画

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改訂新版 世界大百科事典 「境」の意味・わかりやすい解説

境 (さかい)

堺とも書く。あらゆる事物や空間を区切るさまざまな仕切り(境界)。歴史上,境は原始社会から現代に至るまで,小は家と家の境,耕地と耕地の境などから,大は国郡などの行政区分上の境や国境まで普遍的に存在する。

 日本の古代では,山や川などの天然・自然の境界物が基本的な境とされていた。《出雲国風土記》に登場する国堺・郡堺の記載50例(重複を含む)をみると,山が15例,水源1例,川が10例であり,さらに埼3例,浜1例,江1例を加えれば,国郡の堺の7割が自然の境界だった。こうした特徴は,中世・近世でも生き続けた。中世の伊賀と大和,近江と伊賀の国境紛争では,〈水分(みくまり)(分水嶺)〉が国境として主張されている。

 それに対して,私的所有や社会的分業,そして国家の発展とともに,きわめて人為的な境も,政治的・軍事的・社会的な要請によって出現していた。《出雲国風土記》には,軍事上の境として剗(せき)1例が,交通上の境として橋4例,渡2例,坂3例がみられる。

 また,人間の自然に対する働きかけである開発によって,人間と自然の間には,新たな境が次々と設定されていった。《常陸国風土記》に登場する箭括氏麻多智(やはずのうじまたち)の開発行為はその代表例である。麻多智は,古代の水田適地である〈谷の葦原〉を開墾しようとするが,その谷の神である夜刀神の激しい妨害に直面した。そこで彼は,堺の堀に標の梲(つえ)を立て,その上に夜刀神(やとがみ)を祭る社を設けることで,10町余の水田開発を成功させた。堀と標の梲が,人間と自然(神)の新たな境界とされたのである。

 中世成立期,とくに11,12世紀以降,山野河海における活発な開発が進行した。そうした開発に裏づけられて荘・郷・保などの中世的領域支配が成立してくるが,そうした領域の東西南北の境を示す〈四至(しいし)〉に記されている広義の地名によって,中世的な境を知ることができる。整理すると,(1)国境,郡境,荘境,(2)条里坪付,畦畔,(3)道,大路,橋,(4)固有名詞の山,谷,河,海等,(5)普通名詞=地形名としての山,岡,谷,河,海,葦原等,(6)寺社,墓などであり,それらが中世的な境界とされたのである。そうした諸地名は,それぞれ独自な境界としての意味をもっている。例えば〈黒山(くろやま)〉は,古代以来の一種のタブー視された,原始樹海の生い茂った山であり,境界の山であったが,中世になると,そのような山にも開発の斧が入れられた。また〈中山(なかやま)〉というのは峠の地名であり,国境あるいは荘,郷,保,村の境として現れる。交通上の境となっていたのである()。

 都市や村なども,それぞれ固有の境をもっている。中世都市鎌倉の入口(防衛的・軍事的な性格をもつ)すなわちいわゆる鎌倉七口(〈鎌倉〉の項のコラムを参照)には,《一遍聖絵》に描かれた巨福呂(小袋)坂のように木戸が設けられていた。またその一つ化(仮)粧坂(けわいざか)には,商業の町,遊女たちの存在,刑場,葬送の地といった境界の地にありがちな諸特徴がまつわりついていた。村も,鎌倉末期ごろになると,村のはずれに地蔵がみられるようになり,境が明確になってくる。惣村の成立とともに,近江の菅浦荘の例のように惣村の門が設けられるようになる。漁村でも,漁場が次のような境の設定方法によって確立してくる。(1)海中の島や岩などの目標物を境として漁場の範囲を示す場合,(2)水面の面積や陸からの距離の計測による場合,(3)いわゆる〈山アテ〉や〈見通し〉のように陸上の目標物によって境界線を定める場合,(4)海路(うなじ)(沖合を通る航路)を境界線とする場合,(5)湖とか湾の真ん中を境とする場合,の五つの基本的な方法によって漁場の境が決められたようである。

 以上のようなさまざまな境に対して,日本の国土・領域の境界はどのように意識されていたのかといえば,《妙本寺本曾我物語》などにみられるように,日本国の〈四至〉は,南限は熊野,北限は佐渡嶋,東限はアクル・津軽・蛮(へそ)嶋(夷島(えぞがしま)=北海道),西限は鬼界・高麗・硫黄嶋であると観念されていた。これはもちろん観念上のことであり,鎌倉幕府の軍事・警察権が高麗(朝鮮)にまで及んでいたわけではけっしてない。実際の日本中世国家の東の境界は陸奥国の外ヶ浜であり,西の境界は鬼界ヶ島であった。境界の地である外ヶ浜とその先にある夷島は,国家的犯罪人の流刑地とされ,他方,かつては鬼のすみかとみられていた鬼界ヶ島は,王化(日本化)が進んで人のすみかとなった後も,なかば日本国に属し,なかば異域に属する両属的な境界の地であると観念され続けるのである。このような境界地域の両属性の観念は,近現代の国家間の領土紛争における境界地域の帰属をめぐる考え方とはまったく異なっているといえよう。

 海についても,境が存在していた。1019年(寛仁3)の刀伊の入寇に際して,賊を撃退して追撃せんとした兵船に対して与えられた大宰権帥の訓令によれば,〈日本の境を限りて襲撃すべし,新羅の境に入るべからず〉とあり,すでに11世紀初頭には,どのような手段で判断されたかはわからないが,海上における日本の境と新羅の境が意識されていたのである。そして中世後期になると,おそらく倭寇の海上活動の影響を受けて,〈唐土・日本の潮境なるちくらが沖〉が,海上の境界とされるようになった。このような一種の領海の観念は,近現代のそれとは明確に異なるだろう。というのは,中世民衆にとって,海自体が境なのであり,海の向こうは鬼のすむ国なのであった。

 こうした中世における境の性格・特徴は,近世にも大なり小なり引き継がれていったと思われるが,近世の境を特徴づけるのは,なんといっても国郡制的な行政区分であろうと思われる。豊臣秀吉が叡覧にそなえるという名目で作成・提出を命じた日本全国の御前帳国絵図などによって,国土の全体が把握され,国郡制的な行政単位によって国内の境が整理されるに至った。江戸幕府もまたそれを継承し,おもなものだけでも慶長・正保・元禄・天保の各時期に国絵図と郷帳を徴収した。大名などの領地も,国郡制的な境界区分によって把握されるなど,国・郡・村という行政的境界区分が近世社会のベースとなり,また,国境や村境などの境をめぐるさまざまな紛争においても,この国絵図(とくに元禄図)の記載によって判断される場合が多かったのである。
境相論
執筆者:

境[町] (さかい)

茨城県西端,猿島(さしま)郡の町。人口2万5714(2010)。利根川北岸にあり,町域の大半は台地である。中心集落の境は江戸時代の城下町で,明治中期までは江戸と奥州方面を結ぶ水陸交通の要地であった。明治時代には猿島郡の郡役所がおかれ,周辺農村の小商業中心でもあった。現在も行政,商業の中心としての機能をもつが,商圏は古河市の商圏に蚕食され狭まっている。1964年関宿町との間に境大橋が開通し,東京方面への交通条件が大幅に改善され,70年ころからは工場の進出がふえた。かつては猿島茶栽培の中心地であったが,近年は野菜の生産が中心となっている。
執筆者:

利根川中流の水運交通の要地で,境町といって下総関宿城の城下町の一部だが,城は利根川の対岸(現,千葉県野田市)にあり,江戸,銚子と北関東,奥州方面を結ぶ水陸交通の河岸としての性格が強い。慶長(1596-1615)ころから河岸として発達し,1690年(元禄3)の幕府津出河岸(つだしがし)調査の対象となり,1774年(安永3)には河岸問屋2軒が公認された。85年(天明5)の職業構成をみると,全戸数409軒のうち,百姓38軒に対し,河岸問屋2軒,船持59軒,馬持28軒,舟乗・小揚156軒,商人66軒,このうちには雑穀問屋,浜方問屋,生魚仲買,造酒屋,造醬油屋,油絞などがおり,また医師,職人など27軒,茶屋・旅籠屋21軒と交通の町としてにぎわった。1775年の例ではここを通る荷物・旅人は,年間に江戸に向かって約3万駄と6400人,奥州方面へ約7000駄であり,これを積む高瀬船,艜(ひらた)船,(はしけ)船,房丁茶船などは82年には129艘もあった。幕末天保(1830-44)ころには輸送荷物が減少して衰勢を訴えるが,1874年(明治7)にはなお高瀬船59艘,川下小船59艘があった。その後鉄道,トラックの発達と河川政策の変化などにより水運は衰え,鉄道がここを通らなかったため,交通の町としての発展は止まった。
執筆者:

境(群馬) (さかい)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「境」の意味・わかりやすい解説


さかい

群馬県南東部、佐波郡(さわぐん)にあった旧町名(境町(まち))。現在は伊勢崎市(いせさきし)の南東部を占める地区で、利根(とね)川分流の広瀬川および利根川に臨む。旧境町は1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)采女(うねめ)、剛志(ごうし)、島の3村と合併。1957年世良田(せらだ)村の一部を編入。2005年(平成17)伊勢崎市に合併。東武鉄道伊勢崎線、国道17号(上武(じょうぶ)道路)、354号が通じる。中心集落の境の地名は、かつて佐位(さい)・新田(にった)両郡の境界にあったことから名づけられ、江戸時代の日光例幣使(にっこうれいへいし)街道の宿場町、繭(まゆ)・生糸(きいと)の市場町として発達、いまは境北部工業団地なども造成され、繊維工業、電気機器製造業が盛んである。利根川北岸の平塚(ひらつか)は、江戸時代の銅街道(あかがねかいどう)の終点で、足尾(あしお)銅山生産の御用銅の積出し河岸(かし)(河港)としてにぎわった。上武士(かみたけし)の「赤椀節(あかわんぶし)」は樽(たる)に赤椀を添えて歌う八木節(やぎぶし)の一種。伊与久(いよく)にある十三宝塚遺跡は国指定史跡。

[村木定雄]

『『境町歴史資料』全5巻(1957~1964・境町)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「境」の意味・わかりやすい解説


さかい

群馬県南東部,伊勢崎市南東部の旧町域。利根川左岸にある。 1889年町制。 1955年采女村,剛志村,島村の3村と合体。 1957年世良田村の一部を編入。 2005年伊勢崎市,赤堀町,村と合体して伊勢崎市となる。中心集落の境は日光例幣使街道の宿場町で2,7の日を市日とする六斎市が立ち,繭,生糸,絹織物の取り引きで繁栄した。利根川沿いの平塚は銅街道の終点で,足尾の銅,米,雑穀の積み替え河岸であった。繊維,電気機器,自動車部品などの工場がある。太田市,埼玉県本庄市などへの通勤者も多い。9世紀の官衙跡,十三宝塚遺跡 (国指定史跡) がある。


きょう
viṣaya

仏教用語。視覚 (眼) ,聴覚 (耳) ,嗅覚 (鼻) ,味覚 (舌) ,全身体的触覚 (身) ,心の感覚 (意) の6種の知覚器官 (六識 ) によって知覚される対象のことで,それぞれ,形 (色) ,音声 (声) ,匂い (香) ,味 (味) ,接触されるもの (触) ,考えられるもの (法) をいう (→六境 ) 。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【六境】より

…仏教では,認識作用の対象(対境)を〈境(きよう)〉という。認識する感覚器官とその働きを合わせて〈根(こん)〉といい,眼(げん)(見る),耳(に)(聞く),鼻(び)(嗅ぐ),舌(ぜつ)(味わう),身(しん)(触れる)の五根にはそれぞれ対応する対象があり,それらを順次に色境(しききよう)(いろ・かたち),声境(しようきよう)(声や音),香境(こうきよう)(香りや臭気),味境(みきよう)(甘・辛などの味),触境(しよくきよう)(触覚による冷・暖,堅・軟など)の五境とする。…

【境相論】より

…堺相論とも書く。中世の成立期から顕著になり,近世初頭まで繰り返された所領などの境界をめぐる紛争。中世成立期,とくに11,12世紀になると,山野河海の開発,荒廃田畠の再開発などが活発化し,荘,保,別符,名などの多くの中世的所領が,内部に中世的な〈村〉を生み出しながら成立してきた。…

【塚】より

…山岳信仰との関連でいえば,富士信仰や出羽三山(でわさんざん)信仰に代表されるごとく,その山岳を遥拝するために築かれた塚もみられ,それが本来は祭場として機能していたといえる。また塚の築かれる場所が境界であることも多い。境は単に範域を区分するという意味にとどまらず,この世(現実界)とあの世(冥界・他界)とを分ける場所でもある。…

【道】より

…1888年出版の2万分の1地形図矢倉沢村を見ると,当時の〈従小田原駅至甲府道〉をそれて〈地蔵〉〈倉〉地籍を通る小道がある。この道の西北,県境に近く739.4mのところに足柄峠があり,この道を足柄道と呼んでいる。この道は倉近くから尾根通りを通って,駿河国駿東郡竹之下村に向かっている。…

※「境」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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