堺とも書く。あらゆる事物や空間を区切るさまざまな仕切り(境界)。歴史上,境は原始社会から現代に至るまで,小は家と家の境,耕地と耕地の境などから,大は国郡などの行政区分上の境や国境まで普遍的に存在する。
日本の古代では,山や川などの天然・自然の境界物が基本的な境とされていた。《出雲国風土記》に登場する国堺・郡堺の記載50例(重複を含む)をみると,山が15例,水源1例,川が10例であり,さらに埼3例,浜1例,江1例を加えれば,国郡の堺の7割が自然の境界だった。こうした特徴は,中世・近世でも生き続けた。中世の伊賀と大和,近江と伊賀の国境紛争では,〈水分(みくまり)(分水嶺)〉が国境として主張されている。
それに対して,私的所有や社会的分業,そして国家の発展とともに,きわめて人為的な境も,政治的・軍事的・社会的な要請によって出現していた。《出雲国風土記》には,軍事上の境として剗(せき)1例が,交通上の境として橋4例,渡2例,坂3例がみられる。
また,人間の自然に対する働きかけである開発によって,人間と自然の間には,新たな境が次々と設定されていった。《常陸国風土記》に登場する箭括氏麻多智(やはずのうじまたち)の開発行為はその代表例である。麻多智は,古代の水田適地である〈谷の葦原〉を開墾しようとするが,その谷の神である夜刀神の激しい妨害に直面した。そこで彼は,堺の堀に標の梲(つえ)を立て,その上に夜刀神(やとがみ)を祭る社を設けることで,10町余の水田開発を成功させた。堀と標の梲が,人間と自然(神)の新たな境界とされたのである。
中世成立期,とくに11,12世紀以降,山野河海における活発な開発が進行した。そうした開発に裏づけられて荘・郷・保などの中世的領域支配が成立してくるが,そうした領域の東西南北の境を示す〈四至(しいし)〉に記されている広義の地名によって,中世的な境を知ることができる。整理すると,(1)国境,郡境,荘境,(2)条里坪付,畦畔,(3)道,大路,橋,(4)固有名詞の山,谷,河,海等,(5)普通名詞=地形名としての山,岡,谷,河,海,葦原等,(6)寺社,墓などであり,それらが中世的な境界とされたのである。そうした諸地名は,それぞれ独自な境界としての意味をもっている。例えば〈黒山(くろやま)〉は,古代以来の一種のタブー視された,原始樹海の生い茂った山であり,境界の山であったが,中世になると,そのような山にも開発の斧が入れられた。また〈中山(なかやま)〉というのは峠の地名であり,国境あるいは荘,郷,保,村の境として現れる。交通上の境となっていたのである(坂)。
都市や村なども,それぞれ固有の境をもっている。中世都市鎌倉の入口(防衛的・軍事的な性格をもつ)すなわちいわゆる鎌倉七口(〈鎌倉〉の項のコラムを参照)には,《一遍聖絵》に描かれた巨福呂(小袋)坂のように木戸が設けられていた。またその一つ化(仮)粧坂(けわいざか)には,商業の町,遊女たちの存在,刑場,葬送の地といった境界の地にありがちな諸特徴がまつわりついていた。村も,鎌倉末期ごろになると,村のはずれに地蔵がみられるようになり,境が明確になってくる。惣村の成立とともに,近江の菅浦荘の例のように惣村の門が設けられるようになる。漁村でも,漁場が次のような境の設定方法によって確立してくる。(1)海中の島や岩などの目標物を境として漁場の範囲を示す場合,(2)水面の面積や陸からの距離の計測による場合,(3)いわゆる〈山アテ〉や〈見通し〉のように陸上の目標物によって境界線を定める場合,(4)海路(うなじ)(沖合を通る航路)を境界線とする場合,(5)湖とか湾の真ん中を境とする場合,の五つの基本的な方法によって漁場の境が決められたようである。
以上のようなさまざまな境に対して,日本の国土・領域の境界はどのように意識されていたのかといえば,《妙本寺本曾我物語》などにみられるように,日本国の〈四至〉は,南限は熊野,北限は佐渡嶋,東限はアクル・津軽・蛮(へそ)嶋(夷島(えぞがしま)=北海道),西限は鬼界・高麗・硫黄嶋であると観念されていた。これはもちろん観念上のことであり,鎌倉幕府の軍事・警察権が高麗(朝鮮)にまで及んでいたわけではけっしてない。実際の日本中世国家の東の境界は陸奥国の外ヶ浜であり,西の境界は鬼界ヶ島であった。境界の地である外ヶ浜とその先にある夷島は,国家的犯罪人の流刑地とされ,他方,かつては鬼のすみかとみられていた鬼界ヶ島は,王化(日本化)が進んで人のすみかとなった後も,なかば日本国に属し,なかば異域に属する両属的な境界の地であると観念され続けるのである。このような境界地域の両属性の観念は,近現代の国家間の領土紛争における境界地域の帰属をめぐる考え方とはまったく異なっているといえよう。
海についても,境が存在していた。1019年(寛仁3)の刀伊の入寇に際して,賊を撃退して追撃せんとした兵船に対して与えられた大宰権帥の訓令によれば,〈日本の境を限りて襲撃すべし,新羅の境に入るべからず〉とあり,すでに11世紀初頭には,どのような手段で判断されたかはわからないが,海上における日本の境と新羅の境が意識されていたのである。そして中世後期になると,おそらく倭寇の海上活動の影響を受けて,〈唐土・日本の潮境なるちくらが沖〉が,海上の境界とされるようになった。このような一種の領海の観念は,近現代のそれとは明確に異なるだろう。というのは,中世民衆にとって,海自体が境なのであり,海の向こうは鬼のすむ国なのであった。
こうした中世における境の性格・特徴は,近世にも大なり小なり引き継がれていったと思われるが,近世の境を特徴づけるのは,なんといっても国郡制的な行政区分であろうと思われる。豊臣秀吉が叡覧にそなえるという名目で作成・提出を命じた日本全国の御前帳と国絵図などによって,国土の全体が把握され,国郡制的な行政単位によって国内の境が整理されるに至った。江戸幕府もまたそれを継承し,おもなものだけでも慶長・正保・元禄・天保の各時期に国絵図と郷帳を徴収した。大名などの領地も,国郡制的な境界区分によって把握されるなど,国・郡・村という行政的境界区分が近世社会のベースとなり,また,国境や村境などの境をめぐるさまざまな紛争においても,この国絵図(とくに元禄図)の記載によって判断される場合が多かったのである。
→境相論
執筆者:黒田 日出男