野間村(読み)のまむら

日本歴史地名大系 「野間村」の解説

野間村
のまむら

[現在地名]弥栄町字野中のなか・字須川すがわ、丹後町大石おおいし、宮津市字たに 成谷なるだに

もと与謝郡に属し、集落は丹後半島中央の山間部に散在する。周囲に金剛童子こんごうどうじ山・太鼓たいこ山・小金おがね山などがそびえる。その間を縫って川の上流野間川が北流する。

地名の初見は、建久三年(一一九二)九月日付の丹波某願文(願文集)に「右、野間世野者、境内勝地也、此有霊験所、号之妙徳寺」とみえるものであろう。妙徳みようとく寺についてはつまびらかでないが、同文書によれば同寺の被災後、丹波経成・成行らが柿葺五間四面堂一宇の再建、金色丈六薬師如来像の修復安置、法華経ほかの経典の奉納作善を行っている。また同年月日付の丹後伊津部恒光等願文(願文集)に「当州野間世野之内、有甲勝地、号西方寺」とみえる。これによれば西方寺が文治二年(一一八六)から村民一〇余人の合力で再建され、伊津部恒光らが病気祈願のため彩色丈六薬師如来像ほかを安置奉納し、法華経ほかの経典書写を奉納したことが知られる。

また鎌倉初期のものとされる欠年丹後国在庁官人等解(「民経記」貞永元年五月巻裏文書)に、

<資料は省略されています>

とみえる。


野間村
のまむら

[現在地名]今治市野間

現今治市西端の村。北と東は品部しなべ川により宅間たくま延喜えんぎの二村に接し、西は紺原こうのはら新町しんまち(現越智郡大西町)、南は神宮かんのみやの各村に接する。村の南と北は丘陵で、中央を古屋ふるや川が流れる。

開発の歴史は古く、三尾の上みおのうえ・坪之内の塚穴、字覚庵かくあんの日吉神社裏古墳などが知られ、三尾の上遺跡は昭和四九年(一九七四)の発掘で経塚とされた。また古屋川支流の谷間には長円ちようえん寺跡宝篋印塔、馬場ばば・覚庵の五輪塔をはじめ鎌倉期の石造物が分布する。北部に城山とよばれる城跡があり、重門じゆうもん城への要路として重茂じゆうも城主岡部十郎が築くと伝える。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉四国征伐で重門・重茂両城とともに落城したといい、重門城主高田通成の墓と伝える二基の五輪塔がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間郡の項に「野間村 日損所、芝山有、林少有」とみえ、村高は四五〇石三斗八合である。


野間村
のまむら

[現在地名]伊丹市野間一―八丁目・野間北のまきた二―六丁目・野間・車塚くるまづか一―三丁目

山田やまだ村の南東に位置する。中世野間庄の遺称地。慶長国絵図に村名がみえ、高六一〇石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳や天和三年(一六八三)頃の摂津御料私領村高帳では高五九九石余に減少。延宝五年(一六七七)の検地で高六一四石余となる(「野間村検地帳」野間部落有文書)。元文元年(一七三六)新開畑が高入れされたが、寛延元年(一七四八)堀となり減免(宝暦五年「諸色付込帳」筒井家文書)。摂津一国御改帳によると幕府領大和小泉藩預地、元禄七年(一六九四)武蔵忍藩領、文政六年(一八二三)幕府領に戻り、同一一年尼崎藩領となり明治維新を迎えた(伊丹市史)。用水は昆陽こや井からの分水、昆陽池からの池添溝(→昆陽村西昆陽村(現尼崎市)地内で武庫むこ川から取水する野間井があった。野間井は初め当村と友行ともゆき(現尼崎市)の用水だったが、天正年間(一五七三―九二)の洪水で時友ときとも(現同上)が流出した際に野間村が施行したことが縁になり、慶長三年(一五九八)に袖子として用水を分けた。


野間村
のまむら

[現在地名]南区野間一―四丁目・柳河内やなごうち一―二丁目・皿山さらやま一―四丁目・長住ながずみ一丁目・同六丁目・高宮たかみや三―五丁目・多賀たが一―二丁目・玉川町たまがわまち筑紫丘ちくしがおか一―二丁目・若久わかひさ一丁目・花畑はなはた四丁目・桧原ひばる二丁目・寺塚てらづか一―二丁目・長丘ながおか一―二丁目・大池おおいけ一丁目・大楠おおぐす二―三丁目

塩原しおばる村の西にあり、南は若久村・屋形原やかたばる村、北は住吉すみよし(現博多区)。東部をしん川が北へ流れ、当村内の溜池を水源とする野間川が同川に合流する。東部を北西から南東へ福岡往還が通っていた。永正一二年(一五一五)九月の省伯等連署状(省伯和尚認之案文/大日本史料九―五)によると、博多承天じようてん寺領となっていた野間・高宮・原村(平原の誤り)は本来筥崎宮領であったが、鎌倉時代中期頃に承天寺檀越謝国明が銭六〇〇緡(六〇〇貫か)で買取り、同寺に寄進した地という。


野間村
のまむら

[現在地名]中種子町野間

現中種子町域の中央部に位置し、北は納官のうかん村、北東から東にかけて増田ますだ村、南は油久ゆく村で、西は海(東シナ海)に面する。村域は東西一里二六町四六間・南北一里一〇町五間、村仮屋があった畠田はたけだのほか、上方うえほう大平おおだいら中山なかやま町山崎まちやまさき竹屋野たけやの満足山みたりやま井原いばろ(伊原)下田しもだ塩屋・犬場浦などの里があった(種子島記)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高六三五石余、元禄二年(一六八九)の「懐中島記」では高七〇二石余、男女四〇四、うち給人二四六、牛馬一一八。


野間村
のまむら

[現在地名]御調町野間、久井くい吉田よしだ

津蟹つがに村の北に位置し、南東部に接する植野うえの村以外はすべて山地。北西から南東方向に流れる野間のま川が、村の中央部で標高約一八〇―二二〇メートルのやや広い谷を形成し、南東部では標高約一四〇―一五〇メートルの谷(下谷)を形成する。久井の牛市(現久井町江木)が隆盛を極めた頃は、北西に接する吉田村(現久井町)を経て江木えぎ村へ至る通路にあたった。

当村はかつては北東の山間部に位置する大原おおばら村に属し、元和五年(一六一九)の備後国知行帳では村名はみえず、「元和七年分大原村御物成之事」(槙田家文書)の宛名に野間四郎左衛門とあり、「元和八年分野間村御免之事」(同文書)に高一六六・三七五石とあることから、浅野氏時代に入ってまもなく分村したことが知られる。


野間村
のまむら

[現在地名]岡垣町野間・中央台ちゆうおうだい一―六丁目・公園通こうえんどおり一丁目・旭台あさひだい一丁目・同三丁目

高倉たかくら村の東、汐入しおいり川の支流野間川流域の低丘陵地と谷地に位置する。北は黒山くろやま村、北西は吉木よしき村。当地は古く入海であったが、しだいに沼地化して陸地となったと考えられ、「地理全誌」には「旧記ニハ沼トカケリ。野間ト云モ沼ノ義ナルヘシ」とある。「続風土記拾遺」は集落として本村・中ノ谷・小日焼おびやけ・薦牟田の四ヵ所をあげ、「地理全誌」では小日焼と大日焼おおびやけを本村とし、ほかに山口やまのくちをあげる。


野間村
のまむら

[現在地名]黒磯市野間

那須野ヶ原北東部にあり、東は羽田はんだ(現大田原市)、北は鍋掛なべかけ村。奥州街道が北東へ通る。村の成立は文治三年(一一八七)頃と伝える。寛文四年(一六六四)の黒羽藩領知目録(黒羽町蔵)に村名がみえる。近世は黒羽藩領。万治元年(一六五八)長島ながしま堀が開削され、その分水が引かれた。貞享四年(一六八七)から元禄二年(一六八九)にかけて幕府領鍋掛村との間に境界争いがあり、裁決後四二個の境塚が築かれた。


野間村
のまむら

[現在地名]上野市野間

木津きづ川断層崖の山麓にあり、東南部に条里の遺構が残る。東の三田みた村、西のひがし村は伊賀有数の中世寺院域で、当村慶明けいめい寺も古くは空鉢くうはち寺六坊の一といわれる。天正一四年(一五八六)の野間村田畑上中仕分帳(岡村氏蔵)は筒井定次入国後の指出帳の控と思われるが、伊賀に残る最古の検地帳で、総面積二六町一反九畝余、作人六七人のうち名字を称するものは本城・はせ川などで、本城が二町四反余、次の神主が一町七反余とある。


野間村
のまむら

[現在地名]能勢町野間〈大原おおはらなか稲地いなじ出野しゆつの西山にしやま

妙見みようけん山の北麓、野間川およびその支流大原川流域の丘陵地に位置する。保延六年(一一四〇)の今富名坪付案(壬生家文書)に野間村が初見。勝尾寺再建記録(勝尾寺文書)の建久三年(一一九二)の項に「野間入道死去」とみえる。当地に関係する人物であろう。建暦元年(一二一一)六月日の源朝臣某田地売券(同文書)では田三反が野間弥太郎に売渡されており、元仁元年(一二二四)二月三日の僧理真田地譲状(同文書)では倉垣くらがき村内の田地一反が野間右衛門四郎に譲与されている。


野間村
のまむら

[現在地名]川辺町野間

南西流する広瀬ひろせ(万之瀬川)の右岸に位置し、対岸は両添りようぞえ村、南西は平山ひらやま村。村内南部を神殿こうどの川が南流し、村の南端で広瀬川に合流する。さと大久保おおくぼ大田尾おおだおの集落がある。中世には野馬とも記される。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、時家の嫡子貞泰に「のまのむら」などが譲られている。年未詳七月一〇日の河辺郡知行目録写(長谷場文書)に「野馬之村 十八丁」とみえ、伊集院頼久の所領となっている。永享四年(一四三二)一二月七日、「野間」などが阿多氏に宛行われた(「島津好久宛行状」町田氏正統系譜)


野間村
のまむら

[現在地名]山東町野間

大内おおち村の東に位置し、山陰道が通る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一七〇石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも高一七〇石余。明和九年(一七七二)の村明細帳(生野書院蔵)によれば家数四四・人数一七〇、牛八。元文三年(一七三八)の生野一揆では「朝来郡礒部庄野間村」の庄屋小兵衛と百姓久左衛門が死罪のうえ獄門、百姓の弥兵衛が遠島、その倅は中追放に処されている(「朝来郡村々百姓強訴一件」生野書院蔵)。この処分者二三人のうち七人が当村の者で、一揆の中核であったと考えられる。


野間村
のまむら

[現在地名]篠山市野間

沢田さわだ村の東に位置し、南を篠山川が流れる。天元三年(九八〇)二月二日の某寺資財帳(金比羅宮文書)に丹波国内の諸庄の一つとして「野間庄」三町余とみえ、奈良東大寺の朝南が建立した京都の寺院の所領であった。当地域はのち法金剛ほうこんごう(現京都市右京区)安行あんぎよう庄の一帯に含まれたと推定される。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「野間村」とみえ、高二一一石余。正保郷帳では田高一八八石余・畠高二三石余。「丹波志」では安行庄のうちで、高二四六石余。明和八年(一七七一)の篠山全藩一揆では庄屋の喜兵衛、肝煎の長左衛門が役儀取上げのうえ過料銭一〇貫文あるいは五貫文に処されている(安永三年「多紀郡中強訴一件仕置相伺候書付案」小林家文書)


野間村
のまむら

[現在地名]熊山町野間・さくら丘東おかひがし一―六丁目

稗田ひえだ村の西にあり、石蓮寺しやくれんじ山南麓に集落がある。古代の山陽道は当村西端の野間峠を通過したという。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)のカマ庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高二三一石余。「備陽記」によれば谷間集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程四里二八町。田畠一七町余、家数四二・人数二五八、池一八。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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