鈴木貫太郎(読み)スズキカンタロウ

デジタル大辞泉 「鈴木貫太郎」の意味・読み・例文・類語

すずき‐かんたろう〔‐クワンタラウ〕【鈴木貫太郎】

[1868~1948]軍人・政治家。大阪の生まれ。連合艦隊司令長官枢密顧問官などを歴任。侍従長の時に二・二六事件にあい、重傷を負った。第二次大戦末期に首相としてポツダム宣言を受諾した。

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共同通信ニュース用語解説 「鈴木貫太郎」の解説

鈴木貫太郎

1868年、現在の堺市生まれ。千葉県関宿町(現野田市)、前橋市で幼少期を過ごす。84年、海軍兵学校入学。日清、日露戦争に参加する。海軍次官、呉鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官、軍令部長を歴任した後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃され、一命を取り留める。太平洋戦争敗色が濃い45年4月、首相就任。8月、2度の御前会議で天皇の「聖断」を仰ぎ、無条件降伏となるポツダム宣言受諾が決定した。48年、関宿町の自宅で死去。

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精選版 日本国語大辞典 「鈴木貫太郎」の意味・読み・例文・類語

すずき‐かんたろう【鈴木貫太郎】

  1. 海軍大将、政治家。男爵。和泉国大阪府)出身。連合艦隊司令長官、軍令部長、侍従長兼枢密顧問官を歴任。二・二六事件で負傷枢密院議長。昭和二〇年(一九四五)太平洋戦争終結時の首相となり、終戦折衝にあたる。慶応三~昭和二三年(一八六七‐一九四八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鈴木貫太郎」の意味・わかりやすい解説

鈴木貫太郎
すずきかんたろう
(1867―1948)

海軍軍人、政治家。慶応(けいおう)3年12月24日、和泉(いずみ)国(大阪府)に生まれる。1887年(明治20)海軍兵学校、1898年海軍大学校卒業。1914年(大正3)から1917年まで海軍次官を務めた。1923年大将になり、1924年連合艦隊司令長官、1925年には軍令部長になった。1929年(昭和4)1月に軍令部長を辞めて、侍従長になり、2月からは枢密顧問官を兼ねた。1936年の二・二六事件では反乱軍に襲撃され、重傷を負った。同年11月に男爵となり、侍従長を辞めた。1940年6月枢密院副議長、1944年8月議長になった。1945年4月7日内閣総理大臣になり、敗戦を決定し、8月15日に総辞職した。1945年12月から1946年(昭和21)6月にかけて、ふたたび枢密院議長を務め、新憲法などの審議にあたった。昭和23年4月17日死亡。

[山辺昌彦]

『『鈴木貫太郎自伝』(1949・桜菊会出版部/1968・時事通信社)』『鈴木貫太郎著『人間の記録24 鈴木貫太郎――鈴木貫太郎自伝』(1997・日本図書センター)』『花井等著『終戦宰相 鈴木貫太郎』(1997・広池学園出版部)』『小堀桂一郎著『宰相鈴木貫太郎』(文春文庫)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「鈴木貫太郎」の解説

鈴木 貫太郎
スズキ カンタロウ


肩書
第42代首相,枢密院議長

生年月日
慶応3年12月24日(1868年)

出生地
和泉国大鳥郡久世村(大阪府)

出身地
千葉県

学歴
海兵(第14期)〔明治20年〕 海大〔明治31年〕卒

経歴
関宿藩(千葉県)領地の和泉国久世村(大阪府)の生まれ。明治27年日清戦争に対馬水雷艦隊長として参加、日露戦争にも出撃した。大正3年大隈内閣の海軍次官となり、シーメンス事件後の海軍粛正を行なう。海軍兵学校長、第二、第三艦隊司令長官、呉鎮守府司令長官などを歴任し、12年海軍大将となる。13年連合艦隊司令長官、軍事参議官を経て、14年軍令部長に就任。昭和4年予備役編入され、同時に侍従長兼枢密顧問官に任ぜられ、昭和天皇の側近に長く仕えた。11年2.26事件では反乱将校に襲撃され、ピストルの乱射を受けるが、一命をとりとめる。この年侍従長を辞任、同年11月男爵。15年枢密院副議長、19年議長。20年4月組閣の大命を拝受し、首相となる。同年8月15日、“天皇による終戦”“玉音放送”を演出し、同日内閣総辞職。同年12月から翌21年6月までふたたび枢密院議長をつとめたあと、あらゆる公職から引退した。「鈴木貫太郎自伝」がある。

没年月日
昭和23年4月17日

家族
弟=鈴木 孝雄(陸軍大将) 長男=鈴木 一(日本馬事協会会長)

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20世紀日本人名事典 「鈴木貫太郎」の解説

鈴木 貫太郎
スズキ カンタロウ

明治〜昭和期の政治家,海軍大将 首相;枢密院議長。



生年
慶応3年12月24日(1868年)

没年
昭和23(1948)年4月17日

出生地
和泉国大鳥郡久世村(大阪府)

出身地
千葉県

学歴〔年〕
海兵(第14期)〔明治20年〕,海大〔明治31年〕卒

経歴
関宿藩(千葉県)領地の和泉国久世村(大阪府)の生まれ。明治27年日清戦争に対馬水雷艦隊長として参加、日露戦争にも出撃した。大正3年大隈内閣の海軍次官となり、シーメンス事件後の海軍粛正を行なう。海軍兵学校長、第二、第三艦隊司令長官、呉鎮守府司令長官などを歴任し、12年海軍大将となる。13年連合艦隊司令長官、軍事参議官を経て、14年軍令部長に就任。昭和4年予備役編入され、同時に侍従長兼枢密顧問官に任ぜられ、昭和天皇の側近に長く仕えた。11年2.26事件では反乱将校に襲撃され、ピストルの乱射を受けるが、一命をとりとめる。この年侍従長を辞任、同年11月男爵。15年枢密院副議長、19年議長。20年4月組閣の大命を拝受し、首相となる。同年8月15日、“天皇による終戦”“玉音放送”を演出し、同日内閣総辞職。同年12月から翌21年6月までふたたび枢密院議長を務めたあと、あらゆる公職から引退した。「鈴木貫太郎自伝」がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「鈴木貫太郎」の意味・わかりやすい解説

鈴木貫太郎 (すずきかんたろう)
生没年:1867-1948(慶応3-昭和23)

海軍軍人,政治家。和泉国(大阪府)に生まれ,1887年海軍兵学校(14期)卒業。日清戦争に従事。98年海軍大学校を卒業ののち,ドイツ駐在武官などを経て日露戦争の日本海海戦に参加し,水雷戦の権威となった。その後,海軍兵学校長,艦隊司令長官,呉鎮守府司令長官などを歴任し,1923年海軍大将に昇進した。24年第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官,25-29年海軍軍令部長を務めた。29年侍従長兼枢密顧問官に就任,30年にはロンドン海軍軍縮条約調印を支持した。そのため青年将校らに〈君側の奸〉との反感をかい,36年の二・二六事件では襲撃されて重傷を負い,侍従長を辞任した。40年枢密院副議長,44年同議長となり,45年4月には宮中グループに推されて首相に就任,沖縄戦での敗色濃いなかで本土決戦体制への強化を図る一方,〈国体護持〉の目標で対ソ交渉による終戦工作を図った。7月のポツダム宣言に対しては黙殺声明を発表したが,原爆投下,ソ連参戦によって,同宣言を受諾した。戦後の45年再度枢密院議長となった。著書に《鈴木貫太郎自伝》がある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鈴木貫太郎」の意味・わかりやすい解説

鈴木貫太郎
すずきかんたろう

[生]慶応3(1867).12.24. 大坂
[没]1948.4.17. 千葉
海軍大将,政治家。 1887年海軍兵学校を卒業。日清戦争には水雷艇長として威海衛夜襲に参加。 1901~04年少佐としてドイツに駐在。軍艦『日進』『春日』を回航して横須賀に帰着。日露戦争では第2艦隊の第5駆逐隊司令,のちに第4駆逐隊司令。『明石』『宗谷』艦長,水雷学校長,『敷島』『筑波』艦長,舞鶴水雷隊司令官,第2艦隊司令官などを経て,14~17年海軍次官。 18~20年海軍兵学校長。 23年大将となり,24年連合艦隊司令長官。 25~29年軍令部長をつとめて,予備役となった。その後,29~36年侍従長兼枢密顧問官であったが,二・二六事件では官邸で反徒の乱入により重傷を負った。 36年男爵。 40年枢密院副議長,44年議長。 45年4月7日に首相となり,8月9日に開かれた最高戦争指導会議ポツダム宣言受諾を主張する東郷外相と,徹底抗戦を主張する陸軍が対立すると,和平派に立って,御前会議を開き天皇の裁断を求めた。8月 15日に総辞職。さらに同年 12月から7ヵ月間枢密院議長。著書に『鈴木貫太郎自伝』 (1965) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鈴木貫太郎」の解説

鈴木貫太郎
すずきかんたろう

1867.12.24~1948.4.17

明治~昭和期の海軍軍人・政治家。和泉国生れ。海軍兵学校卒。日清・日露の両戦争に従軍,諸艦の艦長や水雷学校長などを歴任。1914年(大正3)海軍次官としてシーメンス事件の処理にあたる。23年大将に昇進,翌年連合艦隊司令長官,25年軍令部長,29年(昭和4)侍従長・枢密顧問官となり,昭和天皇の側近として信任をえた。ロンドン海軍軍縮条約の調印に関し政府を支持したため,統帥権干犯の疑惑をもたれ,2・26事件で襲撃されたが一命をとりとめる。44年枢密院議長,翌年4月には総理大臣に就任,戦争終結を最小限の混乱で実現した功績は大きい。8月15日総辞職,大戦後の12月再び枢密院議長となった。

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百科事典マイペディア 「鈴木貫太郎」の意味・わかりやすい解説

鈴木貫太郎【すずきかんたろう】

海軍大将,政治家。大阪府の生れ。海軍大卒。連合艦隊司令長官,軍令部長を経て1929年侍従長となったが,二・二六事件で重傷を負い辞職。後1944年枢密院議長,1945年4月首相となり主戦派を抑えてポツダム宣言の受諾を決定した。→鈴木貫太郎内閣

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木貫太郎」の解説

鈴木貫太郎 すずき-かんたろう

1868*-1948 明治-昭和時代の軍人,政治家。
慶応3年12月24日生まれ。大正12年海軍大将。連合艦隊司令長官をへて14年軍令部長。昭和4年予備役となり侍従長・枢密顧問官を兼任。11年二・二六事件で重傷を負う。19年枢密院議長。20年4月首相に起用され,8月ポツダム宣言の受諾,降伏を決定し,総辞職した。昭和23年4月17日死去。82歳。和泉(いずみ)(大阪府)出身。海軍大学校卒。

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367日誕生日大事典 「鈴木貫太郎」の解説

鈴木 貫太郎 (すずき かんたろう)

生年月日:1868年12月24日
明治時代-昭和時代の軍人;政治家。首相
1948年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鈴木貫太郎の言及

【内閣総理大臣】より

…戦時体制の下で東条首相は首相権限の強化を強引に推進するが,その東条自身結局は一閣僚の抵抗を排除できず,辞職に追い込まれた。ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議で,対立する主張の決裁を天皇にゆだね,みずからは沈黙によって最善の〈指導性〉を発揮した鈴木貫太郎首相は,天皇制下における首相の極点を体現している。戦後は象徴天皇制の下で議院内閣制が明示の憲法原則となり,首相をとりまく制度上の障害は消滅した。…

※「鈴木貫太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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