錦織寺(読み)きんしょくじ

精選版 日本国語大辞典 「錦織寺」の意味・読み・例文・類語

きんしょく‐じ【錦織寺】

滋賀県野洲市木部にある浄土真宗木辺派の本山。山号は遍照山。天安二年(八五八)円仁が天台別院として創建し、天安堂と称した。嘉禎元年(一二三五)親鸞により浄土真宗に転宗。にしごりでら。

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デジタル大辞泉 「錦織寺」の意味・読み・例文・類語

きんしょく‐じ【錦織寺】

滋賀県野洲やす木部きべにある寺。浄土真宗木辺きべ本山。山号は遍照山、院号は安養院。天安2年(858)円仁が創建。初めは天台宗で、嘉禎元年(1235)親鸞しんらん阿弥陀仏安置してから転宗。にしごりでら。

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日本歴史地名大系 「錦織寺」の解説

錦織寺
きんしよくじ

[現在地名]中主町木部

木部きべ集落中央にある真宗木辺派の本山。遍照山と号し、本尊阿弥陀如来。滋賀・福岡両県を中心として中部以西に二〇〇ヵ寺を包括している。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔創立〕

「大谷本願寺通紀」によれば、円仁の草創と伝える天台寺院で、毘沙門天像を安置し天安てんあん堂と称していた。のち親鸞が関東より帰洛の途中天安堂に宿したとき、領主石畠資長が夢告により親鸞に帰依、願明という法名を許され、真宗に改宗した。願明の長子愚咄は瓜生津うりゆうづ(現滋賀県八日市市)に寺を建立、次子慈空が当寺を継いだという。なお錦織寺起立并代歴実禄(寺蔵)では、当寺系譜として願明以前に親鸞の関東における弟子である下総横曾根よこぞね(現茨城県水海道市)の性信・善性を記しており、願明は瓜生津の石畠に居住した石畠範資とし、その子愚咄を資長としている。この系譜は伝え誤りで、「存覚上人袖日記」によれば、性信・願性・善明と相承する。愚咄・慈空時代に本願寺覚如・存覚との関係が深まる。愚咄は覚如の直弟とする伝承(「弘誓寺由緒書」金堂弘誓寺蔵)があり、また存覚の内室奈有は愚咄・慈空の縁者と推定されている。ただ「異本反故裏書(龍谷大学蔵)には「慈空大徳この寺の開基也、諸浄土宗として興行ありしかとも、存覚上人の御勧化により内心御門弟たりき」とあり、浄土宗色の強い存覚との関係により、当寺も草創期より浄土宗色の強い寺院として存立していたと思われる。

錦織寺
にしごりでら

「三代実録」貞観八年(八六六)二月二日条に「信濃国伊那郡寂光寺、筑摩郡錦織寺、更級郡安養寺、埴科郡屋代寺、佐久郡妙楽寺」を定額寺にするとの記事がある。筑摩郡錦織寺は「和名抄」にある古代筑摩郡錦服にしごり郷、「延喜式」にある錦織駅に関係する土豪の氏寺として造寺されたものと思われるので、錦服郷・錦織駅を中心として考えると、この地域の古寺として洞光寺(現錦部反町)が後身と思われる。付近に古代遺跡(特に須恵器窯)が多いこと、河内国錦部郡観心かんしん(錦織寺)関係の什物を伝えていることなどが根拠である。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「錦織寺」の意味・わかりやすい解説

錦織寺
きんしょくじ

滋賀県野洲(やす)市木部(きべ)にある寺。真宗木辺(きべ)派の本山。山号は遍照山天神護法院。858年(天安2)慈覚大師(円仁(えんにん))がこの地に一宇を建立し、毘沙門天(びしゃもんてん)を祀(まつ)った。これを天安堂といい、当寺の起源であるという。1235年(嘉禎1)親鸞(しんらん)が関東から京都へ帰る途中、この堂に泊まり毘沙門天より夢告を受け、阿弥陀(あみだ)仏を安置して念仏堂場とした。寺伝では親鸞が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を当寺にて著したという。

 1238年(暦仁1)天女が来降し、紫紅の錦(にしき)を織って本尊を供養(くよう)したという奇瑞(きずい)によって、四条(しじょう)天皇は天神護法錦織寺という扁額(へんがく)を与え、勅願寺とした。寺名はこれに由来するという。1573年(天正1)門跡(もんぜき)号を許された。天正(てんしょう)年間(1573~92)本願寺と織田信長の戦いに際し、浄土宗を信奉していると主張して以来、二宗兼学となった。

[清水 乞]


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改訂新版 世界大百科事典 「錦織寺」の意味・わかりやすい解説

錦織寺 (きんしょくじ)

滋賀県野洲市の旧中主町にある寺。真宗木辺派の本山。山号は遍照山。寺伝によると,慈覚大師(円仁)創建の天安堂なる毘沙門天をまつる堂に,関東から帰洛の途中に親鸞が寓して,霞ヶ浦感得の阿弥陀如来を安置し,ここで《教行信証》の化身土・真仏土両巻を著したので,天女が降って錦を織る奇瑞があったという。寺号の初見は1347年(正平2・貞和3)で,このころ,関東の横曾根門徒がこの地に展開し,慈空が出て寺基を固めたので,これを中興とする。次いで本願寺から覚如の孫の慈観が入って近江門徒のかなめとなったが,1493年(明応2),7世慈賢の孫の勝恵(勝林坊)が多くの門末とともに本願寺に転じたので,寺勢が衰えた。石山合戦のとき,織田信長の圧迫を回避せんとして浄土宗との兼宗を標榜ひようぼう)し,江戸初期は浄土宗鎮西派に属した。14世良慈のとき真宗に復し,1877年(明治10)に木辺派を公称して本山となった。現在,末寺250ヵ寺余。
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百科事典マイペディア 「錦織寺」の意味・わかりやすい解説

錦織寺【きんしょくじ】

滋賀県野洲市にある真宗木部(きべ)派の本山。円仁が毘沙門天像を安置し草創した天安堂に始まる。のち帰洛途上の親鸞(しんらん)に帰依した領主石畠資長(願明)が真宗に改宗。願明の次子慈空(じくう)の時,寺基を確立。慈空のあと本願寺覚如(かくにょ)の孫慈観(じかん)が入寺し,近江門徒のかなめとなった。1493年勝恵(しょうえ)(7世慈賢の孫)が木部門徒と不和になり,門徒を引き連れ本願寺蓮如の傘下に帰入,以降寺勢は振わなかった。1877年木部派本山となる。

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事典・日本の観光資源 「錦織寺」の解説

錦織寺

(滋賀県野洲市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

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