「大谷本願寺通紀」によれば、円仁の草創と伝える天台寺院で、毘沙門天像を安置し
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県野洲(やす)市木部(きべ)にある寺。真宗木辺(きべ)派の本山。山号は遍照山天神護法院。858年(天安2)慈覚大師(円仁(えんにん))がこの地に一宇を建立し、毘沙門天(びしゃもんてん)を祀(まつ)った。これを天安堂といい、当寺の起源であるという。1235年(嘉禎1)親鸞(しんらん)が関東から京都へ帰る途中、この堂に泊まり毘沙門天より夢告を受け、阿弥陀(あみだ)仏を安置して念仏堂場とした。寺伝では親鸞が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を当寺にて著したという。
1238年(暦仁1)天女が来降し、紫紅の錦(にしき)を織って本尊を供養(くよう)したという奇瑞(きずい)によって、四条(しじょう)天皇は天神護法錦織寺という扁額(へんがく)を与え、勅願寺とした。寺名はこれに由来するという。1573年(天正1)門跡(もんぜき)号を許された。天正(てんしょう)年間(1573~92)本願寺と織田信長の戦いに際し、浄土宗を信奉していると主張して以来、二宗兼学となった。
[清水 乞]
滋賀県野洲市の旧中主町にある寺。真宗木辺派の本山。山号は遍照山。寺伝によると,慈覚大師(円仁)創建の天安堂なる毘沙門天をまつる堂に,関東から帰洛の途中に親鸞が寓して,霞ヶ浦感得の阿弥陀如来を安置し,ここで《教行信証》の化身土・真仏土両巻を著したので,天女が降って錦を織る奇瑞があったという。寺号の初見は1347年(正平2・貞和3)で,このころ,関東の横曾根門徒がこの地に展開し,慈空が出て寺基を固めたので,これを中興とする。次いで本願寺から覚如の孫の慈観が入って近江門徒のかなめとなったが,1493年(明応2),7世慈賢の孫の勝恵(勝林坊)が多くの門末とともに本願寺に転じたので,寺勢が衰えた。石山合戦のとき,織田信長の圧迫を回避せんとして浄土宗との兼宗を標榜(ひようぼう)し,江戸初期は浄土宗鎮西派に属した。14世良慈のとき真宗に復し,1877年(明治10)に木辺派を公称して本山となった。現在,末寺250ヵ寺余。
執筆者:大桑 斉
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