隠れキリシタン(読み)かくれキリシタン

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

隠れキリシタン
かくれキリシタン

江戸幕府の厳しいキリスト教禁制を避けて,教会宣教師ももたず隠れて信仰し続けてきたキリシタンの秘匿的宗教形式を,禁制のなくなった 1873年以降も継承し続けている人々と,その組織。長崎県西彼杵半島南部の外海平戸島生月島 (生月 ) ,五島列島などを中心に推定2万人の信者がいるといわれている。お帳役または帳方と呼ばれる役目の人を中心に,お水役,聞役などの組織があり,オラショという祈祷文を伝承し,赤子の洗礼などもする。家々には神棚や仏壇を設けているが,ひそかに聖画像 (→イコン ) をまつり,葬式もいったん仏式で行なったのち,お経くずしの儀式をする。信仰行事もカトリックそのままではなく,土地の習俗や神仏信仰の影響を受けているが,いまも神道や仏教に改宗せず,また教会にも帰属しない。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

隠れキリシタン

江戸幕府のキリスト教弾圧の間、キリスト教を捨てたふりをして信仰を続けてきた信者の子孫たち。現在、組に属している信者は生月島に500人弱。その他、長崎県内に少数の信者がいるとされる。

(2007-01-06 朝日新聞 夕刊 1総合)

出典 朝日新聞掲載「キーワード」朝日新聞掲載「キーワード」について 情報

百科事典マイペディアの解説

隠れキリシタン【かくれキリシタン】

信教の自由が保障されている現代において,江戸時代の弾圧下の潜伏形態を続けている人々のことで,1873年禁教の高札が廃されるまで信仰を守り続けてきた潜伏キリシタンとは区別される。現在は長崎県の外海・五島系と生月・平戸系が残り,信仰の対象物をマリア観音とするか納戸神とするか,日繰り(教会暦)を用いるかどうかなど,組織や生活習慣が異なっている。現在は信仰の変容がみられ,組織も衰退をみせている。
→関連項目天草[町]生月[町]外海[町]マリア観音若松[町]

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

かくれキリシタン【隠れキリシタン】

信教自由の現代社会で江戸キリシタン弾圧時代の潜伏形態を続けている人々をいう。同じように潜伏して信仰を伝承しながら1865年(慶応1)大浦天主堂で再渡来したフランス人神父プティジャンと出会い,近代カトリック教会を復活させた人々を〈潜伏キリシタン〉と呼んで区別する。現在隠れキリシタンは長崎県だけに存在し,外海(そとめ)・五島系と生月(いきつき)・平戸系に分けられ組織と生活慣習が異なっている。外海・五島系の集団を組といい,帳方が最高指導者で〈お帳〉と呼ぶ日繰り(教会暦)とオラショ本を所持し,年間の祝日を決めオラショや教義を伝承する。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

隠れキリシタン
かくれきりしたん

潜伏キリシタン、また「はなれ(キリシタン)」ともいう。江戸時代の初期にキリシタン宗門は幕府によって徹底的に弾圧されたので、キリシタン信徒はすべて処刑されたが、平戸(ひらど)島とその付近、西彼杵(にしそのぎ)半島の西岸、すなわち外海(そとめ)、また浦上(うらかみ)とその付近、五島地方(以上長崎県)、天草(あまくさ)地方(熊本県)には、表面は仏教徒を装い、内心では祖先代々受け継いだキリシタン信仰を保持した人々、またキリスト教から離れた一種の混成宗教を信奉する人々がかなり大ぜいいた(1805年の幕府の取調べでは、信徒数5000人以上)。たとえ表向きとはいえ、仏寺の檀家(だんか)となり踏絵を踏んでキリシタン信仰を拒否することは、教会が厳禁したところであり、キリストの教えにも背くことであるから、これらの人々を、先に殉教した純粋なあるいは真のキリシタン信徒と同一にはみなしえない。これらの人々の信仰におけるキリスト教的要素は、地域的に、また年代的にもかなり異なっているから、総称するのは困難であるが、通常「隠れキリシタン」とか「潜伏キリシタン」とよんでいる。
 また、幕末にカトリックの布教が再開されてから、それら「隠れキリシタン」の多くがカトリック教会に属するようになったので、その後もなお祖先からの独自の伝統的宗教を保持している人々を、カトリック教会では「はなれ」と称している。近年、そのような独自の信仰を保持している人々は急速に減少して約3万人といわれるが、宗教学、民俗学、文化人類学の立場から、この特異な信徒集団とその信仰に関して優れた研究が発表されている。
 隠れキリシタンには大別して2系統があり、一つは「日繰り」といわれる教会暦を、他は「納戸神(なんどがみ)」を中心とする。前者は浦上、外海、五島、後者は平戸、生月(いきつづき)方面である。いずれも組織化されているが、役職の名称は土地によって若干異なる。前者では普通、帳方(ちょうかた)といわれる者が最高の指導者で、「日繰り」を伝え、教会暦による祝日を割り出して信徒に伝え、水方(みずかた)が赤子に洗礼を授ける。後者では爺役(じいやく)が洗礼を授け、ご番役が納戸神を保管する。これらの地方では、江戸時代に幾度かその異様な信仰が問題とされ、1790年(寛政2)に「浦上一番崩れ」、1805年(文化2)に「天草異宗露見」、1842年(天保13)に「浦上二番崩れ」といわれる事件が生じたが、奉行所(ぶぎょうしょ)はこれを「異宗」とみなし、検挙者を説諭するにとどめた。[松田毅一]
『古野清人著『隠れキリシタン』(1966・至文堂) ▽片岡弥吉著『かくれキリシタン――歴史と民俗』(NHKブックス) ▽田北耕也著『昭和時代の潜伏キリシタン』(1954・日本学術振興会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の隠れキリシタンの言及

【オラショ】より

…祈りを意味するラテン語に由来するキリシタン用語。隠れキリシタンが伝承したキリシタン時代からの祈り文と教義や掟を言うが,口から耳に伝えたので訛伝が多い。隠れキリシタンは長崎県の外海(そとめ)・五島系と生月(いきつき)・平戸系に分かれ,オラショにも異同がある。…

【キリシタン】より

…キリシタンは各地にコンフラリア(講,組)を組織して信仰維持に努めたが,19年(元和5)以降京都,長崎,江戸等の各地で多数の殉教者が出た。幕府のキリシタン検索は寛永年間(1624‐44)にいっそう強化され,島原の乱(1637‐38)後潜伏の宣教者はことごとく捕らわれ,キリシタンは絵踏(踏絵),宗門改,寺請制によって締めつけを受け,大村の郡(こおり)崩れ,濃尾崩れ,浦上崩れのごとく潜伏キリシタン(隠れキリシタン)の摘発は続いた。1873年明治新政府は,欧米外交団の強い談判に押されてキリシタン禁制の高札を撤廃し,キリシタンはおよそ280年ぶりにようやく信仰の自由を許された。…

【背教】より

…いわゆる踏絵による〈転びキリシタン〉がそれである。しかし他面,江戸時代になるとキリスト教の禁圧にもかかわらず,表面的には棄教を装いつつ,ひそかにマリア観音などをつくって信仰を持続したキリシタン(隠れキリシタン)もいた。これは偽装的な背教の例といえよう。…

【プティジャン】より

…フランス人宣教師。パリ外国宣教会の神父として1863年(文久3)長崎に上陸し,すでに大浦天主堂の建設に着手していたフュレLouis‐Théodore Furet(1816‐1900)神父と協力して65年2月19日その献堂式を挙行,同年3月17日には天主堂の聖母像の前で浦上の〈隠れキリシタン〉を発見し,劇的なキリシタン復活が起こった。この後,長崎,五島地方で数多くの信者が発見され,プティジャンはその指導に専念する。…

※「隠れキリシタン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

配偶者

夫婦の一方からみた他方。配偶者としての身分は、婚姻によって取得し、婚姻の解消によって失う。親族ではあるが、親等はない。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

隠れキリシタンの関連情報