雲雀ヶ原(読み)ひばりがはら

日本歴史地名大系 「雲雀ヶ原」の解説

雲雀ヶ原
ひばりがはら

原町市街の南西に広がる平地。藩政期の五月の中の申の日には相馬藩の野馬追の神事が行われたことから野馬追のまおい原ともいわれ、「奥相志」に「寛永十六年田圃丈勘の時、牛越邑を割き押釜、大木戸を出して三邑と為すと云ふ。故に昔、野馬逐原を牛越原と曰ふ。今原野大木戸邑に属す」と記されるように、牛越うしごえ原ともいわれた。相馬藩領のほぼ中央に位置し、相馬氏の氏神妙見の神馬を放牧する牧野として使用された。この原は太田おおた川の扇状地にあたり、相馬氏は氏神妙見神の神馬の牧として野馬を放牧し、その繁殖に手厚い保護を加えてきた。寛文六年(一六六六)相馬藩主相馬忠胤は相馬領総郷夫役と称する動員により、改めて野馬追原の区画を決定し、「東遊雑記」に「この所を妙見宮神馬の牧と号す。土人馬追原ともいえり。長さおよそ三里、幅一里余の野なり。塘を高く築きて、駒の外へ出でざるように構えたり。往来の道に木戸あり」とあるように、三ヵ年の大工事によって野馬土手を築いた。延宝六年(一六七八)には野馬土手に大改修を加え、上部に杉を植えて並木とした。さらに土手奉行五〇余人を置き、土手の見回りと春秋二回の修理を行わせている。

原には南北に縦断する浜街道のほか小道が無数に通っているため、この通路に木戸を設け、冬季には木戸口で野馬に藁やその他の飼料を与え、野馬の保護を行った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「雲雀ヶ原」の意味・わかりやすい解説

雲雀ヶ原
ひばりがはら

福島県浜通り北部の南相馬市(みなみそうまし)原町区(はらまちく)にある平原太田(おおた)川北岸の扇状地で、古来野馬追(のまお)いが行われたことから野馬追原ともよばれる。江戸時代、雲雀ヶ原から西の阿武隈(あぶくま)高地国見山などにかけては妙見社(みょうけんしゃ)の神馬の牧があった。相馬藩では5月中(なか)の申(さる)の日に野馬追いを行って練武の役にもたてた。原の東の本陣山(ほんじんやま)は藩主の観戦の場所であった。また、本陣山近くには南相馬市立博物館がある。毎年7月末の土曜・日曜に「相馬野馬追」(国指定重要無形民俗文化財)の甲冑(かっちゅう)競馬、神旗争奪が行われる。

[安田初雄]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雲雀ヶ原」の意味・わかりやすい解説

雲雀ヶ原
ひばりがはら

福島県北東部,南相馬市南部を流れる太田川の扇状地。別称野馬追原。江戸時代には中村藩主相馬氏の放牧場で,妙見信仰に基づき奉納されたウマを使って野馬追い神事が行なわれた。牧場の周囲に築かれた野馬土手の出入口を示す木戸の名が残存する。今日も毎年 7月下旬に相馬野馬追いが行なわれる。

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