東京都中央区新川の旧名。日本橋川下流の新堀と亀島川にはさまれた島で,はじめ江戸の中島と呼ばれたが,1624年(寛永1)に霊巌雄誉が霊巌寺を建立したところから名がついた。明暦の大火後に寺が深川に移転したのち町屋が増加した。のち河村瑞賢が日本橋川に並行して中央に運河(新川)を掘削した。以後この付近は,永代橋まで畿内からの廻船が入りこむため江戸の港として栄えた。下り物の問屋として,霊岸島町には瀬戸物問屋が多く,また銀(しろがね)町や四日市町には酒問屋が多かった。《江戸名所図会》にみられるように,新川の下り酒問屋は江戸に流入する灘,伊丹の酒の最大の集散地であった。また,酢問屋,材木屋も多かった。のち京橋区に所属し,1931年から71年まで霊岸島の町名が存続した。もとこの地内にあった新川や越前堀などの水路は,1948年ころまでにすべて埋め立てられ,現在は倉庫や問屋が集中している。第2次大戦前まで,東京湾の潮位はこの霊岸島で測られていた。
執筆者:吉原 健一郎+正井 泰夫
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東京都中央区東端、現在の新川1、2丁目にあたる地区。霊巌島とも書く。以前は越前堀(えちぜんぼり)、霊岸島、新川に分かれていた。大川(隅田川(すみだがわ))の中州(川中島)で、初め箱崎と連結し、江戸中島とよばれていたが、「寛永(かんえい)図」には州を新堀川(新川)で中断して、箱崎と分離し、霊岸島としてある。『江戸名所図会』に八丁堀北東の一州に霊巌寺があってその名に由来したとある。霊岸寺町はその門前町として発展した所で、霊巌寺は明暦(めいれき)の大火(1657)後、1659年(万治2)深川へ移ったが、跡地に町家が発達した。新堀川と八丁堀川を隔てて北東は箱崎、北西は茅場(かやば)町、南西は八丁堀、東は隅田川に対していた。越前堀には御船手組屋敷、南端には船見番所が置かれ、霊岸島町には船大工が多く居住していた。旧新川町は河岸に酒問屋が集中し繁栄した。現在も永代(えいたい)橋を隔てて深川、江東(こうとう)、房総へ通じる水陸交通の要地で、倉庫などが集中している所となっている。霊岸島の名称は、わずかに霊岸橋にその名をしのぶほかはない。
[菊池万雄]
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