霊巌(読み)レイガン

デジタル大辞泉 「霊巌」の意味・読み・例文・類語

れいがん【霊巌】

[1554~1641]安土桃山時代から江戸初期の浄土宗の僧。駿河の人。諸国を遊行して多く寺院を造り、江戸霊岸島霊巌寺創建。また、徳川家光寄進を得て知恩院再興した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「霊巌」の意味・わかりやすい解説

霊巌
れいがん
(1554―1641)

江戸初期の浄土宗の僧。檀蓮社雄誉(だんれんじゃゆうよ)と号し、字(あざな)は松風(しょうふう)という。駿河(するが)国(静岡県)沼津の今川氏勝(いまがわうじかつ)の三男。下総(しもうさ)(千葉県)生実大巌寺(おゆみだいがんじ)の貞把(ていは)(1515―1575)に師事し、1587年(天正15)同寺3世を継ぐ。数年にして辞し、奈良に上ったが、徳川家康の命により大巌寺に再住し、伽藍(がらん)の整備に努力した。また安房(あわ)、上総(かずさ)(千葉県)に布教して里見義隆(さとみよしたか)、松平家信(まつだいらいえのぶ)(1565―1638)、内藤政長(ないとうまさなが)(1568―1634)らの帰依(きえ)を受け、さらに諸国を遊歴して法を弘(ひろ)め、家康秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)らに尊信され、後水尾(ごみずのお)天皇にも進講した。また、江戸に霊巌島(中央区)を築いて霊巌寺を建立し、学衆の教育を行った。1629年(寛永6)知恩院(ちおんいん)32世を命じられ、焼失した知恩院を家光の上意を得て再建し、その威容は現在に至っている。在世中、各地に多くの寺を建て、多数の弟子を養成した。著書に『精義集(しょうぎしゅう)』『伝法指南(でんぼうしなん)』などがある。

[阿川文正 2017年10月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「霊巌」の解説

霊巌

没年:寛永18.9.1(1641.10.5)
生年:天文23.4.8(1554.5.9)
戦国・江戸初頭の浄土宗の僧。沼津氏勝の子。下総大巌寺(千葉県)の道誉に師事し,のちに大巌寺3世となる。諸国各地をめぐり諸寺を興し,徳川家康,秀忠,家光の帰依を受け,江戸に霊巌寺を建てて多くの学徒を集めた。寛永6(1629)年に幕命により知恩院32世となる。後水尾天皇の寵を得て,浄土の法門を進講した。同10年に知恩院が焼失したのち,その再興に努める。また江戸城中でも法門を論じた。『選択集』などの開版にも尽くした。<著作>『精義集』『伝法指南』

(林淳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「霊巌」の解説

霊巌 れいがん

1554-1641 織豊-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)23年4月8日生まれ。浄土宗。下総(しもうさ)生実(おゆみ)(千葉県)大巌寺の貞把,虎角にまなび,同寺をつぐ。徳川家康の帰依(きえ)をうけ,江戸深川に霊巌寺をひらいた。寛永6年京都知恩院住持となり,10年の火災による焼失後その再建につくした。寛永18年9月1日死去。88歳。駿河(するが)(静岡県)出身。俗姓は今川。字(あざな)は松風。号は檀蓮社雄誉。著作に「精義集」「伝法指南」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「霊巌」の解説

霊巌 (れいがん)

生年月日:1554年4月8日
安土桃山時代;江戸時代前期の浄土宗の僧
1641年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

スキマバイト

働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...

スキマバイトの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android