霊巌寺(読み)レイガンジ

デジタル大辞泉 「霊巌寺」の意味・読み・例文・類語

れいがん‐じ【霊巌寺】

東京都江東区にある浄土宗の寺。山号は、道本山。開創は寛永元年(1624)。開山霊巌。もと霊岸島にあったが、明暦の大火で現在地に移転。関東十八檀林一つ

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「霊巌寺」の解説

霊巌寺
れいがんじ

[現在地名]江東区白河一丁目

江戸時代の海辺大工うみべだいく町の南に位置する浄土宗寺院。道本山東海院と号し、本尊阿弥陀如来。創立は寛永元年(一六二四)、開山は檀蓮社雄誉松風霊巌。浄土宗関東十八檀林の一寺で、学寮や塔頭末寺多く、開山の霊巌はじめ歴代住職には京都総本山知恩院や芝増上寺の住職に就く者も多かった。霊巌は沼津ぬまづ(現静岡県沼津市)に生れ下総生実大巌おゆみだいがん(現千葉市中央区)で修行し、房総方面で教化活動にあたっていた。やがて徳川家康秀忠・家光と三代の将軍帰依を受け、幕府船手頭向井将監の土地を与えられ、これを開拓し堂宇を建立した。これが寛永元年であり、開拓によって整備された土地を霊巌(霊岸)(現中央区)とよんだ。

霊巌寺
れいがんじ

[現在地名]黒木町笠原

鹿子尾かこおにある。臨済宗妙心寺派。大瑞山と号し、本尊は千手観音。応永三〇年(一四二三)松尾久家を開基、栄林周瑞を開山として建立されたという(「校訂筑後志」など)。周瑞は明からの帰途、蘇州霊巌寺の山勢風光によく似る鹿子尾に立寄り、持帰った茶の種をまき、地元の松尾久家に栽培法および製法を伝授したと伝える。八女茶発祥の地とされる(太宰管内志)。嘉吉四年(一四四四)一月周瑞は当寺の法を定めている(同月吉日「定法之次第」寺蔵)

霊巌寺
れいがんじ

[現在地名]田原町田原 北番場

田原市街の北隅でもと家中地区にある。梅坪山と号し曹洞宗。本尊釈迦牟尼如来。開山は大永元年(一五二一)克補の創建と伝える。四周樹園に囲まれて境域は約二千坪である。初めうめつぼ(現豊田市)にあって荒廃していたのを、慶長一七年(一六一二)挙母ころも(現豊田市)城主三宅康貞が再興し菩提寺とした。四代康勝が寛文四年(一六六四)田原城主に移封されてより、当寺一一世劔輪良恵を誘引して寺を田原の現在地に移した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「霊巌寺」の意味・わかりやすい解説

霊巌寺 (れいがんじ)
Líng yán sì

中国,山東省長清県の泰山の北西麓,方山の麓にある仏寺。4世紀,北朝の前秦時代に天竺僧の朗が説法した地と伝え,初唐に慧崇(えすう)が中興,宋代に拡張整備されて以来,天台の国清寺江陵の玉泉寺,南京棲霞寺と並び天下四絶と称せられた。正殿の千仏殿は明代の再建だが,殿内の羅漢塑像40体は宋代の作。殿西側の辟支塔は北宋,11世紀半ば再建の8角9層塼(せん)塔で,頂に鉄刹をのせる。このほか魏代と伝える法定塔,唐代建立の慧崇塔をはじめ,元・明・清時代の墓塔群が林立する。また李邕(りよう)の《霊巌寺頌碑》をはじめ歴代の碑碣(ひけつ)が多く残る。〈泰山に游びて霊巌に游ばざればその游をなさず〉といわれるように,勝景の地としても知られる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「霊巌寺」の意味・わかりやすい解説

霊巌寺
れいがんじ

東京都江東(こうとう)区深川白河町にある浄土宗の寺。山号は通本山東海院(どうほんざんとうかいいん)。1620年(元和6)ごろ、霊巌が沼地を埋めて霊巌島(中央区霊岸島)をつくり、本堂、庫裡(くり)、方丈(ほうじょう)などを建立したのに始まる。1657年(明暦3)大火で類焼したが、翌年現在地に替え地を得て再建された。三別院ができ、八か寺の子院、七谷90舎の学寮があって隆盛となったが、再三の焼失で縮小された。早くから関東十八檀林(だんりん)の一つとなり、多くの学僧を世に送り出して有名であった。のち松平定信(さだのぶ)の菩提(ぼだい)所としても知られた。

[玉山成元]

『大橋俊雄著『霊巌寺史』(1981・霊巌寺)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例