改訂新版 世界大百科事典 「飛驒高地」の意味・わかりやすい解説
飛驒高地 (ひだこうち)
飛驒山脈(北アルプス)の西方に続き,岐阜県北部から富山県南部にかけて広がる山地。西は両白山地で限られ,その大部分は神通川上流の宮川と高原川,それに庄川の流域であり,南部では南流して木曾川に注ぐ飛驒川(益田(ました)川)の上流域が含まれる。高地の名はあるが,標高1000~1500mの中山性の早壮年期山地で,片麻岩や石英斑岩などのいわゆる飛驒変成岩が広く露出し,古生層と中生層を伴っている。高地中には山頂の平たんな峰がかなり多く,これらは隆起した準平原の遺物と考えられ,1500m,1300m,1100mの3段階が認められる。平地らしいところは,高地の隆起に伴って生じた浸食谷が埋積されてできた高山盆地や古川盆地しかなく,とくに北西部の白川郷などは,周囲を高い山地に囲まれ,深く下刻された峡谷部が多く,長い間域外との交通が困難になっていた。気候的にも高冷地が広く,標高700~800m以上の山間部ではかつては稲作の不可能なところも多かった。また,高地北部は日本海側気候で冬季の積雪が深く,長年にわたり生活や交通の障害となってきた。
しかし,1000mをこえる山間地からも石器や縄文土器が出土することや,縄文時代の住居跡も,岐阜県高山市の旧久々野(くぐの)町の堂之上(どうのそら)遺跡(史)のような大規模なものが発掘・調査されていることから,飛驒高地における人間の居住の歴史はかなり古いものと推測される。大化改新以前には飛驒国造(くにのみやつこ)がおかれ,奈良時代には高山に飛驒国分寺が建立された。近世には,金森氏の治政についで徳川幕府直轄統治のもとに,金,銀,銅などの地下資源の開発,優良木材の切出し,生糸の産出が行われた。また京都や江戸の文化も流入し,春秋2回の高山祭などの伝統行事や春慶塗,イチイの一刀彫などの伝統産業も生まれた。しかし一方では,1771年(明和8)から88年(天明8)までの18年間,断続的に起こった大原騒動のような農民騒動もあり,飛驒の生活の厳しさをうかがわせる。
1931年の高山本線全通により飛驒高地は新しい時代を迎え,山林資源の開発や木炭生産,製材,木工品製造,観光開発などが急速に進展した。さらに第2次大戦を経て高度経済成長期には,ダムや発電所の建設が相ついで行われ,道路の建設・改良により交通事情も好転した。しかし,ダム建設に伴う住民の立退きや山村の過疎化など地域の変貌も著しい。
執筆者:上島 正徳
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報