高山陣屋跡(読み)たかやまじんやあと

日本歴史地名大系 「高山陣屋跡」の解説

高山陣屋跡
たかやまじんやあと

[現在地名]高山市八軒町

しろ山の西方みや川に架かるなか橋を西に渡った地点に東に向いて位置する。敷地は一千一九二坪で、陣屋門(天保三年築造)表玄関広間(書院造)・白洲・庭園・収納米蔵などがあり、現存する唯一の郡代陣屋跡として国指定史跡。元禄五年(一六九二)の金森氏出羽上山かみのやま(現山形県上山市)移封とともに、飛騨一国は幕府領として勘定奉行所管に移り、関東郡代伊奈半十郎忠篤が初代の飛騨代官兼務を命じられた。以来一二代大原彦四郎紹正が安永六年(一七七七)郡代となるまでは代官が、二五代新見内膳正功までは郡代が幕末まで高山陣屋(高山役所)に在任し、飛騨に関する政務一切を執行した。

初代伊奈代官は元禄五年高山へ着任し、はじめ江名子えなこ川左側、安川やすかわ通の南に接した金森家の家老職であった金森兵庫の屋敷などを会所として政務をとったが、同八年にかつて高山藩主金森重頼の娘三人が住んでいたむかい屋敷に代官役所を移し、これを高山陣屋とよんだ。敷地は六二間四方、約三千八〇〇坪で、高山城三の丸にあった米蔵二棟を移築して郷蔵とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「高山陣屋跡」の解説

たかやまじんやあと【高山陣屋跡】


岐阜県高山市八軒町にある代官所跡。1586年(天正14)に金森長近(かなもりながちか)が平定して領主となった飛騨国は、1692年(元禄5)以降は徳川幕府直轄領となる。高山陣屋跡は、明治維新にいたるまで置かれた代官所の跡地である。陣屋設置以来、1725年(享保10)、1816年(文化13)と数度にわたって改築がなされ、明治維新後の1871年(明治4)に筑摩(ちくま)県高山出張所庁舎に転用されて、1876年(明治9)には岐阜県飛騨支庁庁舎となった。1881年(明治14)には陣屋建物の北側部分が撤去されて高山区裁判所庁舎に、1883年(明治16)には陣屋建物南側の御蔵の一部が取り壊されて高山検察庁庁舎となった。高山陣屋跡は1929年(昭和4)に国の史跡に指定されているが、1969年(昭和44)に岐阜地方裁判所高山支部と岐阜地方検察庁高山支部が移転したため、両跡地と陣屋建物東側の陣屋前広場、蔵跡にあたる旧陣屋敷地内の民有地などが追加指定された。内部玄関の間が1816年改築のままの姿で残り、10万石の格を示す2間半の大床や、正面壁の青海波(せいがいは)模様が目を引く。御役所大広間体裁を重んじた意匠となっており、御蔵は高山城三の丸に米蔵として建てられていたものを、1695年(元禄8)に移築したもので、良質の檜(ひのき)が使われ、壁面傾斜通風隙間などに飛騨匠(ひだのたくみ)の手法が見られる。JR高山本線高山駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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