高野郷
たかのごう
「和名抄」高山寺本は「太加乃」、同書伊勢本・東急本は「多加乃」と読む。同書名博本は「タカノ」と訓を付している。「阿府志」は「此地未詳」、「阿波志」は「今廃」として郷域比定をしていない。「日本地理志料」は現北島町北村、現松茂町中喜来、現徳島市川内町中島・竹須賀などの今切川および旧吉野川沿いの低湿地帯に比定し、「大日本地名辞書」はその北方の山麓沿いの地である旧堀江村・板東村(現鳴門市大麻町地区)に比定する。
高野郷
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「和名抄」苫東郡高野郷の郷名を継ぐものか。高野本郷・高野山西を遺称地とし、加茂川右岸の草加部から押入一帯に比定される。高倉庄の立券庄号を示す文暦二年(一二三五)九月九日の官宣旨(美作古簡集)によると、同庄の南限が高野郷であった。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に、大宮院(藤原
子)領として富多庄(富田庄)に属して「弘野高野郷」とあり、五辻宗氏が知行主であった。
高野郷
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「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」は「今高城村・豊里村・石井村にあたり、八槻以南の地なるべし」とする。高野の地名は久慈川沿岸の現東白川郡矢祭町に高野・中高野・高野前などがあり、現同郡塙町では伊香に高ノ平と高ノ里がある。したがって現塙町から矢祭町間の約一二キロの久慈川を中心とした辺りを高野郷とみることができる。九ッ山・羽黒山の南北丘陵の東側が常世郷、西側が高野郷である。弘仁二年(八一一)四月二二日に長有・高野二駅を置くとある(日本後紀)。
高野郷
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「和名抄」諸本とも訓を欠く。同書高山寺本は巨濃郡に記すが、東急本では法美郡に記載する。「延喜式」神名帳には巨濃郡に「高野神社」があり、同社は当郷に鎮座していたと考えられる。このことから当郷は初め法美郡に属していたが、一〇世紀前半頃巨濃郡に編入されたとする説がある(鳥取県史)。遺称地はないが、前出「高野神社」に比定される同名の神社が現岩美町延興寺にあることから、同所を含む小田川流域に比定される。中世にも高野郷として継承された。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に吉見弥二郎が「因幡国高野郷内小田保段銭」二貫三三五文を納入したとあり、郷内に小田保が成立していた。
高野郷
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「和名抄」諸本とも訓はない。加茂川下流右岸の沖積平野を中心とする地域と考えられ、現津山市高野本郷・高野山西付近に比定される。高野山西の丘陵上に武塚(正仙塚)古墳がある。全長約五〇メートルの前方後円墳で、後円部墳頂に凝灰岩製の長持形石棺が露出している。五世紀頃の築造と考えられる。平安時代の軒丸瓦などを出土した夜半廃寺がある。
高野郷
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「和名抄」所載の郷。東急本は訓を「多加乃」とする。婦負郡一〇郷のうち最初に記載され、郡南部に位置する可能性もあるが、高野に関する地名や文字資料が見当らない。現在地については、従来様々な推定が行われており、「三州志」は山田郷の上野村(現婦中町)、「越中志徴」は新川郡の高野郷(現立山町・舟橋村・富山市)、「三州地理志稿」は田中郷の高尾村(現八尾町)などをあげているが、いずれも確証があるわけではない。
高野郷
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「和名抄」に「高野」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、旧志読デ加布夜トスルハ誤ナリ、宜シク多加乃トヨムベシ、即今ノ高戸村西南ノ村ナリ」とあり、比定地は定かでないが、郷域は現高萩市島名・秋山・安良川・高戸・大能の一帯とされる。
高野郷
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「和名抄」の諸本ともに訓を欠く。現三豊郡豊中町の上高野・下高野を遺称地とし、笠田竹田を含む一帯に比定される。
高野郷
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「和名抄」東急本所載の郷。高山寺本の訓は「多賀乃」、東急本は「多加乃」。「播磨国風土記」に高野里とみえ、高野宮や祝田社ありとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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