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「鴻池善右衛門」の意味・読み・例文・類語
こうのいけ‐ぜんえもん〔‐ゼンヱモン〕【鴻池善右衛門】
鴻池家当主の世襲名。鴻池家の祖である新六の子より始まる。3代善右衛門は酒造・海運を廃して両替商専門となり、家業をさらに発展させた。また、河内に鴻池新田を開発。
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こうのいけ‐ぜんえもん‥ゼンヱモン【鴻池善右衛門】
- 大坂の富商鴻池家の世襲名。初代善右衛門は海運業、醸造業を営み、さらに両替商を始めて、大名貸は尾州、紀州以下三二藩に及んだ。三代善右衛門宗利は河内の鴻池新田を開いた。一一代善右衛門は幕末維新に際し、会計官出納司に任ぜられ、新政府の財政基礎確立に尽力した。一二代善右衛門は明治三〇年(一八九七)鴻池銀行を創立し、のち信託業務も開設。昭和八年(一九三三)三十四銀行・山口銀行と合併して三和銀行となり、平成一四年(二〇〇二)東海銀行と合併、UFJ銀行となる。
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鴻池善右衛門(初代)
没年:元禄6.1.26(1693.3.2)
生年:慶長13(1608)
江戸時代の大坂の豪商鴻池善右衛門家の家祖。山中新六(初代鴻池新右衛門)と妻花の8男として生まれ,幼名を新九郎もしくは九蔵と称し,元服して正成と名乗る。父新六は摂津国川辺郡鴻池村(兵庫県伊丹市)において慶長のはじめごろ,清酒造りを始め,その江戸送りに成功して財をなし,元和5(1619)年大坂内久宝寺町に出て酒造業を営んだが,正成はそれに従い大坂に出たものと思われる。 寛永2(1625)年新六が自醸の清酒の手船による海上輸送(それまでは陸送)に乗り出すと,正成はこれに主としてあたり,大坂衢壌島(九条島)を本拠として自家の酒の江戸積みだけではなく,江戸―大坂間の諸藩貨物や一般貨物の輸送や,岡山藩など西国諸藩の藩地から大坂への年貢米廻送を引き受けて,元禄期までには手船100艘を持つ海運業に発展させた。同時に,米,絹,干鰯,木綿,油,薬種,塗物,呉服などの商品取引を行い,年貢米輸送・売買で関係が生じた諸藩への貸付を行うなど金融業(両替業)にも手を染めた。慶安3(1650)年父新六の没後,正成は新六の大坂内久宝寺店を相続,それ以降今日まで続く鴻池善右衛門家の家祖となった。 大名貸を契機に金融業が有利であることを悟った善右衛門は明暦2(1656)年,両替屋を開業。開業に当たり末子の五郎兵衛を,大坂の両替屋の先駆者といわれる天王寺屋五兵衛に見習奉公させ,万事,天王寺屋の経営方法を範としたという。鴻池両替店はめざましく発展し,寛文10(1670)年には,幕府から十人両替(公用に従事する代わりに様々な特権を与えられた大坂の両替商で,最有力両替商中から選ばれた)に指定された。鴻池両替店は両替業務を行うとともに,諸藩,諸商人を相手に貸付・為替取組を行った。寛文期ごろからは,大坂所在の諸藩蔵屋敷との取引が増加し,蔵米販売代金を引き当てとした大名貸が比重を増した。延宝2(1674)年には,両替商が集住し,金融の中心地となっていた今橋2丁目に屋敷を求めて,内久宝寺町から本店を移し,酒造業や海運業から徐々に撤退して,両替商専業の体制を固めた。延宝期ごろからは岡山藩蔵屋敷を皮切りに,広島藩,熊本藩,松江藩,大洲藩などの蔵屋敷の蔵元や掛屋に任命され,蔵米管理や蔵米販売代金の管理・送金に当たり,大名財政に深く関与することとなり,次第に大名貸専業の両替商となった。寛文10年から毎年,決算簿として「算用帳」が記帳されるようになり,これは明治初年まで続けられたが,これは現存する日本最古の複式構造を持つ商家帳簿である。 6男2女があり,寛文3年,次男之宗(鴻池喜右衛門を名乗る)に家督を譲り,それ以後宗信と称したが,86歳まで生きて隠然たる実力を発揮した。娘婿は正成の人柄について「元来生得実性人に勝れ,人柄大にして大力なり,直にして慈愛あり,富貴にして息災長命,物毎少しも苦にせざる気質也」「朝暮そひみるに終に芝居を見ず,茶屋にて料理の事もなし,悪しき所は云ふに及ばず,すなをならぬ人々伴はず,万驕りをやめ,倹約をもととす」と記している。<参考文献>宮本又次『鴻池善右衛門』
鴻池善右衛門(3代)
没年:元文1.7.12(1736.8.18)
生年:寛文7(1667)
江戸期の大坂の豪商鴻池善右衛門の3代目。宗利と称す。同家2代目喜右衛門之宗の長男,元禄8(1695)年,28歳で家督を相続。鴻池家の事業は,宗利が生まれたころには次第に大名貸専門の両替商経営に特化していたが,宗利はさらにこれを発展させ,元禄期においては,32藩と金融上の取引関係を持つに至り,これらの藩の蔵屋敷の掛屋・蔵元・立入に任ぜられた。大名貸経営は良好で,宗利の時代に鴻池は絶頂期を迎え,資産は寛文10(1670)年の銀204貫から,宗利の代の享保3(1718)年には銀3万8205貫と増加した。この蓄積をもとに,宝永2(1705)年からは旧大和川流域の新田開発に着手し(鴻池新田),地主経営にも乗り出した。享保1年に開始し,同17年に完成した宗利による「家定記録覚」はその後明治期まで同家の経営の方針を定める家訓となった。3代善右衛門は豪商鴻池家の盤石の基礎を固めた人物であったといえる。<参考文献>宮本又次『鴻池善右衛門』,安岡重明『財閥形成史の研究』
鴻池善右衛門(10代)
没年:大正9.6.16(1920)
生年:天保12(1841)
江戸期以来の大坂の豪商鴻池善右衛門家の第10代当主。幸富と称す。幼名丑之助または善九郎。一族の山中又七郎家の長男に生まれ,弘化3(1846)年本家鴻池善右衛門家の養子となるが,養父の9代善右衛門幸実が早く没したため,嘉永4(1851)年,11歳で家督相続した。幸富の時代,鴻池家は幕末維新の動乱期で,経営困難に直面したが,第十三国立銀行の創立(1877)をはじめ,蓬莱社,日本生命,大阪倉庫などの設立に参加,家業の再生に努めた。しかし,経営の実際は番頭や土居通夫,島村久,原田二郎などの外部からの雇用経営者にゆだねることが多かった。幸富は,儒学者篠崎小竹 に学び,また俳諧に通じるなど風流人であったといわれる。<参考文献>宮本又次『鴻池善右衛門』
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鴻池善右衛門 (こうのいけぜんえもん)
生没年:1608-93(慶長13-元禄6)
江戸時代以来の大坂の豪商鴻池家の初代。名は正成。祖父は尼子氏の武将山中鹿介幸盛と伝えられる。父新六は摂津国伊丹の鴻池村の大叔父山中信直に養われた。新六は長じて,酒の江戸への陸送や清酒の製造を始めて成功した。善右衛門正成は新六の八男であって,次男善兵衛は1615年(元和1),三男又右衛門は17年に大坂に出て醸造を業とし,19年には新六も大坂に移った。25年(寛永2)正成18歳のとき大名貸を始め,また九条島において海運業を開始した。56年(明暦2)には両替屋を開き,のち十人両替の一人となる。88年(元禄1)鴻池と取引のあった大名は32藩に及んだ。正成は新六の起こした事業を継承し,さらに関連業種に手を広げ,今日でいう多角経営に乗り出し大成功を遂げた。のち日本一の富豪と称せられた。初代は善右衛門,2代目は喜右衛門を名のったが,3代目以後は善右衛門を襲名した。
執筆者:安岡 重明
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「鴻池善右衛門」の意味・わかりやすい解説
鴻池善右衛門【こうのいけぜんえもん】
江戸時代の大坂の豪商鴻池家の当主の名。初代正成〔1608-1693〕は鴻池家の始祖山中新六の子で,尼子氏の武将山中鹿介の孫にあたると伝える。1650年より,酒造・運送業,1656年両替商を始め,十人両替ともなる。2代は喜右衛門を名乗ったが,3代宗利〔1667-1736〕以後は善右衛門を襲名。宗利の時,河内に鴻池新田を開発,諸藩の御用商人として活躍し,同家の基礎を固めた。1688年に鴻池家と取引のあった大名は32藩に及んだという。明治維新は10代幸富〔1841-1920〕の時で,鴻池家は維新後も大阪に設立されたほとんどの会社に関与,1877年設立の第十三国立銀行(1897年鴻池銀行,三和銀行の前身)を中心に関西財界の牛耳を執り,鴻池財閥と呼ばれたが,近代的コンツェルンの形成には至らなかった。
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鴻池 善右衛門(11代目)
コウノイケ ゼンエモン
明治〜昭和期の実業家,男爵 鴻池銀行創立者;鴻池合名創立者。
- 生年
- 慶応1年5月25日(1865年)
- 没年
- 昭和6(1931)年3月18日
- 出身地
- 大阪府大阪市
- 本名
- 鴻池 幸方(コウノイケ ユキカタ)
- 経歴
- 10代目鴻池善右衛門の長男。明治17年家督を相続し、第十三国立銀行頭取、大阪倉庫社長に就任。30年国立銀行を鴻池銀行とし、33年合名組織に、大正8年には株式組織に改変し隆盛に導いた。10年鴻池合名会社を興し、有価証券の売買、土地家屋の賃貸譲渡などを経営した。以後、関西金融界において確固不動の地位を築く。明治44年男爵。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
鴻池善右衛門
こうのいけぜんえもん
江戸時代以来、大坂の豪商であった鴻池家当主の通称。初代善右衛門(正成(まさなり))は、始祖鴻池新六(しんろく)の八男であった。2代目の之宗(ゆきむね)は喜右衛門(きえもん)を名のったが、3代以降、代々善右衛門の名を継いだ。
[川上 雅]
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鴻池善右衛門(10代) こうのいけ-ぜんえもん
1841-1920 幕末-明治時代の実業家。
天保(てんぽう)12年8月2日生まれ。鴻池家の一族山中又七郎の長男。9代鴻池善右衛門の養子となり,嘉永(かえい)4年鴻池家10代。幕府による軍用金の徴発,諸藩への貸付金の廃藩置県にともなう貸し倒れなどにくるしむ。明治10年第十三国立銀行(のち鴻池銀行)を設立。大阪倉庫の設立にくわわった。大正9年6月16日死去。80歳。名は幸富。
鴻池善右衛門(3代) こうのいけ-ぜんえもん
1667-1736 江戸時代前期-中期の豪商。
寛文7年生まれ。2代鴻池善右衛門の長男。両替業とおおくの大名への貸し付け(大名貸し)で巨万の富をきずく。また河内(かわち)(大阪府)に新田を開発。幕府の御用もつとめた。元文元年7月12日死去。70歳。大坂出身。名は宗利。
【格言など】家業以外は,どんなに儲けが大きくても,ほかの商売はしないこと(家訓)
鴻池善右衛門(初代) こうのいけ-ぜんえもん
1608-1693 江戸時代前期の豪商。
慶長13年生まれ。鴻池新右衛門の8男。大坂の人。慶安3年家業の酒造業と海運業をつぐ。明暦2年から両替商をはじめ,幕府から十人両替に指定された。俳諧(はいかい)をこのみ,井原西鶴とまじわった。鴻池善右衛門家の祖。元禄(げんろく)6年1月26日死去。86歳。名は正成。幼名は新九郎,九蔵。
鴻池善右衛門(2代) こうのいけ-ぜんえもん
1643-1696 江戸時代前期の豪商。
寛永20年生まれ。初代鴻池善右衛門の次男。寛文3年鴻池家2代となり,両替業を拡充する。のち岡山藩,広島藩などの掛屋,蔵元となる。3代以降の当主は代々善右衛門を名のったが,2代は喜右衛門でとおした。元禄(げんろく)9年5月2日死去。54歳。大坂出身。名は之宗。
鴻池善右衛門(11代) こうのいけ-ぜんえもん
1865-1931 明治-昭和時代前期の実業家。
慶応元年5月25日生まれ。10代鴻池善右衛門の長男。明治17年家督をつぎ,第十三国立銀行頭取となる。30年鴻池銀行(のち三和銀行)を設立,大正10年鴻池合名会社をおこした。昭和6年3月18日死去。67歳。大坂出身。初名は善次郎,のち幸方。
鴻池善右衛門(9代) こうのいけ-ぜんえもん
1806-1851 江戸時代後期の豪商。
文化3年生まれ。8代鴻池善右衛門(幸澄)の子。家業をつぎ両替商をいとなむ。茶道を10・11代千宗左にまなび,多数の名器を収集した。嘉永(かえい)4年6月20日死去。46歳。大坂出身。名は幸実。号は炉雪。
鴻池善右衛門(4代) こうのいけ-ぜんえもん
1698-1745 江戸時代中期の豪商。
元禄(げんろく)11年生まれ。3代鴻池善右衛門の長男。7代千宗左に茶の湯をまなび,多数の名物をあつめた。延享2年10月23日死去。48歳。大坂出身。名は宗貞。号は宗羽,練磨斎。
鴻池善右衛門(5代) こうのいけ-ぜんえもん
1717-1764 江戸時代中期の豪商。
享保(きょうほう)2年生まれ。4代鴻池善右衛門の長男。享保15年家をつぐ。茶道をたしなんだ。宝暦14年3月26日死去。48歳。大坂出身。名は宗益。号は洗耳斎。
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世界大百科事典(旧版)内の鴻池善右衛門の言及
【鴻池新田】より
…1704年(宝永1)竣工した[大和川]付替工事の後に,旧川敷,沼沢地跡を開発して創出された30余の新田の一つ。河内国若江郡の北東隅(現,東大阪市)に位置している。大坂の豪商鴻池家の3代目善右衛門宗利の資力によって旧大和川支流(玉串川)の流末沼沢地の一部を干拓して造成した。町人請負新田の代表例とされている。開発経緯は,05年正月に地代金を上納,同年5月着工,[鍬下年季]年を経て07年8月に完成した。検地高870石3升8合,面積120町1反6歩であった。…
【御用達】より
…また幕府・諸藩は財政が困窮化するに伴い,しばしば彼らに[御用金]を課すなど財政的に依存することが多くなり,御用達のなかには幕府や諸藩の財政政策に深く関与する者も現れた。大名貸で活躍した大坂の鴻池善右衛門と江戸の三谷三九郎は,東西を代表する御用達と称された。寛政改革の際,江戸の豪商10名が幕府の勘定所御用達に登用されたが,彼らの財力と商業的手腕は以後の幕府経済政策に重要な役割を果たした。…
※「鴻池善右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」