政治家、実業家。福岡県生まれ。母方の祖父は元首相吉田茂、父親は衆議院議員麻生太賀吉(たかきち)(1911―1980)という政治家一族の生まれ。また妻は元首相鈴木善幸(ぜんこう)の三女。1963年(昭和38)学習院大学政経学部卒業後、スタンフォード大学大学院等に留学し、帰国後の1966年に家業である麻生産業(現、麻生セメント)に入社。1973年には代表取締役社長に就任。クレー射撃を得意とし、1976年に行われたオリンピック・モントリオール大会にクレー射撃(スキート)の選手として参加した。1979年10月の衆議院議員選挙に旧福岡2区から立候補し、初当選。自由民主党(自民党)に所属。1983年の総選挙で一度落選したが、次の1986年総選挙で返り咲き、以降連続して当選している。小選挙区制導入後は福岡第8区。1996年(平成8)11月、第二次橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)内閣の経済企画庁長官として初入閣。小泉純一郎内閣では総務大臣、外務大臣を歴任。また小泉政権発足時の2001年(平成13)4月には自民党政務調査会長、第一次安倍晋三(あべしんぞう)政権末期の2007年8月と福田康夫政権末期の2008年8月に自民党幹事長となり、両政権の退陣にかかわった。自民党では宏池(こうち)会に所属したが、1999年1月宏池会を離脱して元自民党総裁河野洋平(こうのようへい)(1937― )を会長とする大勇(たいゆう)会(河野派)を立ち上げ、その後、派閥会長の座を引き継いで麻生派(為公(いこう)会。現、志公(しこう)会)を率いる。2001年4月、2006年9月、2007年9月と三度の自民党総裁選に出馬したが、2001年は小泉純一郎、2006年は安倍晋三、2007年は福田康夫に敗れる。2008年9月、福田総裁退陣を受けて行われた総裁選に四度目の出馬をし、351票を獲得して第23代自民党総裁となった。その後、9月24日の国会での首班指名選挙において衆議院では内閣総理大臣に指名されたが、与野党が逆転した参議院では民主党代表小沢一郎に敗れ、憲法の規定により衆議院の議決に基づき第92代内閣総理大臣に就任した。「選挙に勝てる総裁」との期待の下で総裁選に勝利し、早期の衆議院の解散総選挙を目ざした。しかし、内閣発足直後の世論調査では1年前の福田内閣発足時の内閣支持率を下回りその後も低迷を続け、さらに国土交通大臣中山成彬(なりあき)(1943― )が失言問題で辞任に追い込まれた。2009年2月には財務兼金融大臣中川昭一(1953―2009)がローマでの「酩酊(めいてい)記者会見」で辞任、6月には日本郵政社長の続投問題で総務大臣鳩山邦夫(はとやまくにお)(1948―2016)が辞任した。加えてアメリカでの株価暴落などに始まる金融不安、経済不安のなかで、補正予算案の成立と緊急経済対策の実施が焦眉(しょうび)の課題であるとして解散を先延ばしにせざるをえなくなった。総裁就任後の自民党役員人事では、細田博之(1944―2023。元、官房長官)を幹事長に、保利耕輔(ほりこうすけ)(1934―2023。元、文部大臣)を政務調査会長に、笹川堯(たかし)(1935― 。元、科学技術担当大臣)を総務会長に起用し、古賀誠(1940― )選挙対策委員長を留任させた。その後、公明党との連立協議を経て麻生内閣を発足させ、前内閣から舛添要一(ますぞえよういち)(1948― )厚生労働大臣など5人を再任したほかは12人を新任した。外交通として知られる。経済政策では小泉政権での構造改革路線に否定的で、景気対策優先を主張。また、2011年以降には消費税を10%台に引き上げることを表明した。内閣支持率が低迷したため自民党内では「麻生降ろし」の動きが高まったが、2009年7月13日に異例の「解散予告」を行って反麻生勢力を牽制(けんせい)し、7月21日に衆議院を解散し総選挙に臨んだ。しかし総選挙では自民党が歴史的敗北を喫し、8月30日に事実上の退陣表明を行い、9月の特別国会召集にあたり内閣総辞職を行った。総理大臣在任期間は358日。
[伊藤 悟]
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