橋本龍太郎内閣(読み)はしもとりゅうたろうないかく

百科事典マイペディア 「橋本龍太郎内閣」の意味・わかりやすい解説

橋本龍太郎内閣【はしもとりゅうたろうないかく】

(1)第1次。1996年1月11日〜1996年11月7日。村山富市内閣を継承して成立した連立内閣自由民主党日本社会党社会民主党),新党さきがけの3党が連立を維持,自民党総裁橋本龍太郎が首班となって組閣。内政面の重要課題は〈住専問題〉処理で,1月に召集された国会は〈住専国会〉と呼ばれた。住専処理関連法が成立し,7月〈住宅金融債権管理機構〉が発足。また菅直人厚生大臣が薬害エイズ問題調査班を省内に発足させ,その調査をもとに国の責任を初めて認めて患者側に正式謝罪を行い(製薬会社側も謝罪),HIV訴訟和解に導いた。外交面では米政府との間で,沖縄県の米海兵隊普天間(ふてんま)飛行場などを5〜7年以内に返還することで合意。9月橋本首相は衆議院を解散,10月に初の小選挙区比例代表並立制で選挙が実施され,自民党は過半数には届かなかったものの解散前勢力を上回り,新進党後退民主党は勢力維持。与党社民党と新党さきがけは惨敗共産党躍進。(2)第2次。1996年11月7日〜1998年7月30日。自民党単独内閣社民党,新党さきがけは閣外協力。内閣の最優先課題は不況対策と金融改革日本版ビッグバン)であったが,1997年4月1日から消費税率が5%に引き上げられたこともあって不況はいっそう深刻化。これに対する有効な政策が打ち出されず,内閣支持率低落ビッグバンは〈外国為替及び外国貿易法〉が1997年5月に成立,2001年までに金融制度の改革を完了することになった。1997年9月に内閣改造,1998年7月の参議院選挙で自民党が大敗,橋本は党総裁を辞任し,内閣総辞職後継小渕恵三
→関連項目江田憲司小泉純一郎55年体制連立政権

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「橋本龍太郎内閣」の意味・わかりやすい解説

橋本龍太郎内閣
はしもとりゅうたろうないかく

平成期、橋本龍太郎を首班として組織された第一次、二次にわたる内閣。

[編集部]

第一次

(1996.1.11~11.7 平成8)
村山富市内閣総辞職を受けて橋本龍太郎自由民主党総裁を首班に発足した、自民、社民、新党さきがけ3党の連立政権。1993年(平成5)8月に野党に転じて以来、2年5か月ぶりの自民党首相で、「変革と創造」を唱えた。発足当初は住宅金融専門会社問題と沖縄問題という二つの「負の遺産」を村山内閣から引き継ぎ、1996年の通常国会では住専処理に財政支出を盛り込んだ予算案をめぐり与野党が激しく対立、橋本首相の指導力が問われ、内閣支持率も低下をたどった。しかし、4月12日、米軍沖縄基地の整理・縮小問題の焦点である普天間(ふてんま)飛行場返還をアメリカと電撃合意し、外交上の成功で内閣の求心力を高めた。9月には、沖縄の大田昌秀知事から、米軍用地の強制使用手続きの一環である公告・縦覧代行に応じる意向を引き出して沖縄問題に一応の目途をつけ、9月27日に衆院解散を断行した。10月20日の投開票の結果、自民党は過半数に届かなかったものの、公示前勢力から28議席増の239議席を得て、橋本首相の続投を確実にした。

[水野雅之]

第二次

(1996.11.7~1998.7.30 平成8~10)
社民、さきがけ両党が閣外協力に転じたため、宮沢喜一内閣以来3年3か月ぶりの自民党単独内閣として発足した。橋本首相は、行政、経済構造、金融システム、財政構造、社会保障、の「五つの改革」(後に教育改革を加え、「六つの改革」)を提唱。「火だるまになって行革を断行する」との決意を示して、行革の柱の中央省庁再編は2001年からの実施を表明、11月28日に首相直属機関の行政改革会議を発足させた。ただ、政権基盤は不安定で、指導力発揮が問われた。1997年9月11日第二次改造内閣が発足。かつてない経済・金融危機の中で争われた参院選惨敗の結果、1998年7月30日に総辞職。同日、小渕恵三内閣が発足した。

[水野雅之]

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