東勝寺(読み)とうしようじ

日本歴史地名大系 「東勝寺」の解説

東勝寺
とうしようじ

[現在地名]成田市宗吾一丁目

鳴鐘山と号し、真言宗豊山派。本尊は大日如来宗吾そうご霊堂ともよばれる。大正一〇年(一九二一)までは下方したかた集落にあった。坂上田村麻呂東国を平定した時に戦没者の供養のために創建したといわれ、寺名も東国に勝ったことに由来すると伝える。中世には鷺山さぎやま城主の祈願寺となり千葉氏の外護を受けたが、千葉氏滅亡とともに一時衰微した。寛文二年(一六六二)祐澄が中興し、山門をはじめ大門・裏門・鐘楼堂など諸堂伽藍を有する大寺となった。近世には周辺に一〇ヵ寺の末寺があった。


東勝寺
とうしようじ

[現在地名]名東区猪高町高針

高針たかばり川東岸の字北島きたじまにある。伝忠山と号し、真宗大谷派。本尊木造阿弥陀如来像、背銘に清蔵坊開基栄宝高針村とある。草創は不詳。当初天台宗で伝忠坊と称したが、天正三年(一五七五)高針城主加藤勘三郎信祥の弟信眤が剃髪して当寺を建立中興開山となったと伝える。


東勝寺
とうしようじ

[現在地名]清洲町廻間

劔留山と号し曹洞宗。本尊十一面観世音菩薩。創始年代不詳。天智天皇代、新羅しらぎの僧道行が熱田社(現名古屋市)より宝剣を盗み、ここまできて道に迷い、廻る間に夜を明かし、ここに剣を留めて去った。そのために山号を劔留山といい地名を廻間はさまという言伝えがある(西春日井郡誌)が、首肯できる伝えではない。

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改訂新版 世界大百科事典 「東勝寺」の意味・わかりやすい解説

東勝寺 (とうしょうじ)

神奈川県鎌倉市小町の葛西ヶ谷(かさいがやつ)にあった臨済宗の寺。山号は青竜山。南北朝期には十刹(じつせつ)の第5位に列位されていた。北条泰時がその室の母の追善のため,墓のかたわらに一宇を建立し,退耕行勇(たいこうぎようゆう)を導師として供養し,のち行勇の門弟西勇を開山とする禅寺となったというが,行勇開山説など開山,開基については諸説ある。1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡に際し,北条高時以下一族郎党がこの寺で自害した。15世紀半ばごろ退転し,16世紀初めごろ足利政氏が中興したが,のち再び廃絶した。寺跡の奥には〈腹切やぐら〉と呼ばれる墳墓窟があり,高時の墓といわれる石塔が建つ。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東勝寺」の解説

東勝寺
とうしょうじ

神奈川県鎌倉市小町にあった臨済宗の寺。青竜山と号す。開基は北条泰時,開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)。1333年(元弘3)5月の鎌倉幕府滅亡の際,北条高時以下の一族が籠って自害したことで有名。1227年(安貞元)から16世紀末まで存続。1386年(至徳3・元中3)に関東十刹の第3位となる。1323年(元亨3)の北条貞時十三年忌法要にはこの寺の僧53人が参列し,人数では参加した諸寺のなかで10番目であった。寺跡は国史跡

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世界大百科事典(旧版)内の東勝寺の言及

【佐倉惣五郎】より

…幕末には農民一揆の鼓吹のために利用され,明治になると自由民権運動の先駆者とされるなど,社会史的意義はきわめて大きい。惣五郎を葬ったという成田市の東勝寺(宗吾霊堂)には多数の参詣者がある。【児玉 幸多】
[伝承と作品化]
 惣五郎伝説は実録本《地蔵堂通夜物語》(宝暦以降に成立)もしくは講釈師石川一夢,初世一立斎文車らの《佐倉義民伝》によって,幕末期にかなり人口に膾炙(かいしや)した。…

※「東勝寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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