翻訳|anesthesia
一般的には痛みの感覚を一時的に除去することを意味する。しかし、麻酔学といわれる分野が、単に痛みを除くということばかりではなく、手術を中心とした患者の全身管理を行う学問となっているように、麻酔の概念もかなり広くなっている。すなわち、麻酔には麻酔薬についての細かい知識が必要とされるほかに、輸血、輸液、患者の呼吸や循環の管理についての広い知識が要求されているのである。そして、このような知識と技術とを専門分野とする医師を麻酔科医とよんでいる。現在、麻酔科医の活動している分野には、手術や検査のための麻酔、集中治療施設(ICU)における重症患者の管理、ペインクリニックでの痛みの治療、救急蘇生(そせい)などがあり、単に手術室だけにとどまらず、幅広いものとなっている。
[山村秀夫・山田芳嗣]
古代においては、痛みは悪魔のしわざと考えられていた。そしてこれを追い払うために魔除(まよ)けや祈祷(きとう)師がその役を演じた。その後、痛みをとるためにヒヨス、ケシ、マンダラゲ、大麻などの植物を煎(せん)じて飲ませたり、アルコールを飲ませる方法が用いられた。このような方法は世界各地でかなり昔から行われており、日本でも1804年(文化1)に華岡青洲(はなおかせいしゅう)が通仙散(麻沸散)を用いて麻酔をし、乳がんの手術をしている。しかし、このような麻酔法は麻酔の長さや深さを自由に調節することができないという大きな欠点があった。そこで、より調節性のよい吸入麻酔が登場することになる。
吸入麻酔は、1845年アメリカの歯科医師ウェルズにより笑気麻酔が、また1846年同じくアメリカの歯科医師モートンによりエーテル麻酔が始められ、イギリスでは1847年にスノーJohn Snow(1813―1858)によりクロロホルム麻酔が始められた。その後の吸入麻酔の発展は目覚ましいものがあり、今日では、より安全な麻酔薬、精密な麻酔器とともに、患者の状態監視装置も駆使されて麻酔が行われている。
麻酔は全身麻酔と局所麻酔とに大別される。全身麻酔とは意識のなくなる麻酔であり、局所麻酔とは、治療部位に関係する神経の伝達を妨げることにより、体の一部を麻酔するもので、意識を失うことはない。しかし、鍼(はり)麻酔のようなものは、このいずれにも入らない。
[山村秀夫・山田芳嗣]
なんらかの方法で投与された麻酔薬は、血液によって運ばれ、脳に作用する。このため、脳の機能が低下して意識が失われ、麻酔状態が得られる。これを全身麻酔というが、麻酔薬の投与の方法によって吸入麻酔、静脈麻酔、直腸麻酔などに分類される。
[山村秀夫・山田芳嗣]
麻酔薬を吸入させる方法であり、ガスか揮発性の麻酔薬が用いられる。これらのものは肺胞から血液中に溶け、脳に運ばれて麻酔状態をおこす。吸入麻酔では、麻酔薬を吸入している限り麻酔が維持できるし、吸入の濃度を変えることによって、麻酔の深さを調節することができる。また、吸入を止めればすぐに麻酔から覚ますことができるので、もっとも安全な麻酔法とみなされている。麻酔薬を吸入させるには一般に麻酔器が用いられる。麻酔器は、麻酔薬を供給する部分と、それを患者に吸入させる部分からなっている。麻酔薬の供給は、酸素をはじめとする種々のガスの場合は流量計によって、また、揮発性の場合は気化器によって、希望する濃度を正確に送ることができる。麻酔薬を吸入させる部分は、呼吸回路、ゴム嚢(のう)、および炭酸ガス吸収装置などからなっており、単にガスを吸入させるばかりではなく、麻酔中に患者の呼吸を助けたり、人工呼吸をすることもできるようになっている。
吸入麻酔薬の代表的なものに次のようなものがある。
(1)エーテル 正しくはエチルエーテルというが、3~5%の濃度を吸入させることで麻酔を維持することができる。麻酔中は、呼吸や血圧に大きな変化はなく、不整脈のおこる危険も少ない。体内での分解も数パーセントであり、安全性の高い麻酔薬である。しかし、気道を刺激して唾液(だえき)や気道分泌を増すこと、麻酔の導入や覚醒(かくせい)が遅いこと、麻酔後の悪心(おしん)や嘔吐(おうと)が多いことなどの欠点があるほか、引火性であるため、現在では、引火性のない麻酔薬(ハロタン、イソフルラン、セボフルランなど)にかわっている。
(2)ハロタン(「フローセン」) フッ素の入った炭化水素であり、引火性はなく、1%前後の吸入で麻酔が維持できる。麻酔の導入や覚醒も速やかであり、気道への刺激もない。しかし呼吸抑制、血圧の低下をおこしやすく、不整脈もまれではない。ことにアドレナリンと併用すると、その頻度は著しく増加する。ハロタンはまれに肝障害をおこすことがあるが、これは、ハロタンを繰り返し与えられた人におきやすい。また、ハロタンは18%が体内で分解されるが、その分解産物が肝障害と関係すると考えられている。
(3)エンフルラン(「エトレン」) ハロタンとよく似た性質を有し、引火性はなく、麻酔の導入や覚醒も速やかである。ハロタンよりも優れている点は、アドレナリンと併用しても不整脈をおこしにくいこと、肝障害をおこさないことなどで、これは体内での分解が2.4%と少ないことが関係しているものと思われる。欠点としては、ハロタンよりも麻酔力が弱い(約2分の1である)こと、麻酔が深いとけいれんをおこすことがあるなどである。エンフルランは現在臨床では使われていない。
(4)イソフルラン(フォーレン) エンフルランと異性体であるが、引火性はなく麻酔の導入や覚醒はエンフルラン同様速やかである。体内での分解はエンフルランの10分の1、ハロタンの100分の1と小さく、肝臓、腎(じん)臓に対する障害はない。比較的強い筋弛緩(しかん)作用がある。
(5)セボフルラン(セボフレン) 麻酔の導入および覚醒は非常に速く、吸入濃度の調節によって麻酔深度を急速に変えることができる。ハロタンに比べ麻酔力価は弱い。アドリナリンと併用しても不整脈をおこしにくいなど、多くの利点があるが、欠点としてはソーダライムと接触した場合分解産物を生ずる。しかし、これは臨床的使用では問題ない。体内での分解は約3%で無機フッ素が出るが、腎障害をおこす量ではないので安全であるといわれている。
(6)笑気(亜酸化窒素) 広く用いられているガス麻酔薬で、かならず酸素と混合して吸入させる。麻酔力は弱く、50%の濃度でも患者の意識をなくすことはできない。しかし、鎮痛作用は得られるので、これを歯科治療や無痛分娩(ぶんべん)に用いることがある。笑気のみで全身麻酔をするには80%以上の濃度が必要となるが、これでは酸素を十分に与えることができない。したがって、笑気は単独で用いられることは少なく、他の麻酔薬と併用するのが普通である。
[山村秀夫・山田芳嗣]
麻酔薬を静脈内に注入することによって全身麻酔を得る方法である。注入された麻酔薬はただちに脳に運ばれて、麻酔効果を発揮するが、麻酔から覚ますためには、脳に作用している麻酔薬の濃度が減るまで待たなければならない。したがって、一般に作用時間の短い薬が用いられる。現在使用されている静脈麻酔薬は、ケタミンを除いては鎮痛効果はなく、またすべての薬に呼吸抑制作用がある。このため単独で用いられることは少なく、吸入麻酔の導入として、あるいは笑気麻酔や吸入麻酔、あるいは麻薬性鎮痛薬と併用して用いられることがしばしばある。
また、全静脈麻酔とは、麻酔に必要な薬をすべて静脈内に投与して行う全身麻酔法である。すなわち催眠薬、鎮痛薬、筋弛緩薬を組み合わせて投与する方法である。催眠薬としてプロポフォールが好んで用いられるが、これは、作用期間が短いため、調節性に優れていることによる。この方法が従来の吸入麻酔に比べて優れているかどうかは、今後の成り行きをみなければわからない。静脈麻酔薬のおもなものを次にあげる。
(1)チオペンタール(「ラボナール」) 強い睡眠作用を有し、作用時間は比較的短い。しかし、繰り返して用いると蓄積作用があるため、作用時間も延長し、覚醒しても二日酔いのような状態がおこる。
(2)ケタミン(「ケタラール」) 唯一の鎮痛作用のある静脈麻酔薬である。呼吸の抑制はチオペンタールより少なく、血圧はむしろ上昇する。静脈内ばかりでなく、筋肉内注入も行われる。本薬の欠点は、麻酔からの覚醒時に幻覚や興奮をおこすことであり、麻酔中も夢をみることが多い。したがって、成人では単独で用いられることは少ないが、小児ではときどき用いられる。
(3)プロポフォール(ディプリバン) 麻酔の時間が短く、麻酔からの覚醒が速やかで、悪心や嘔吐も少ないのが特長である。このために使用は持続注入器を用いて行う。鎮痛作用はほとんどないので鎮痛薬との併用を必要とする。薬の注入時には血圧が下がったり、血管痛をおこすことがある。外来の麻酔には適している。
(4)ニューロレプトアナルゲジア(NLA) 強力な向精神薬(鎮静薬)と鎮痛薬とを組み合わせて、深い鎮静状態と強い無痛状態を得る特別な麻酔方法である。これは、意識を消失させることなしに手術をするために考えられた方法で、「眠りなき全身麻酔」として知られる。使用する薬としては、向精神薬にはドロペリドール(DPL)、鎮痛薬にはフェンタニール(FNL)が代表的なものであるが、これらはいずれも静脈内に注入される。この方法での小手術は可能であるが、大手術は無理なため、大手術の際は笑気の吸入麻酔と併用する。笑気の吸入によって患者の意識はなくなるので、この併用による麻酔法をニューロレプト麻酔(NLA‐笑気併用麻酔)とよんでいる。
[山村秀夫・山田芳嗣]
麻酔薬を直腸内に注入すると、ここから吸収されて全身麻酔が得られる。使用する薬としては、昔はチオペンタールが用いられたが、現在ではジアゼパムが用いられる。調節性がないので、小児の検査時の鎮静法として用いられるにすぎない。
[山村秀夫・山田芳嗣]
末梢(まっしょう)の神経に局所麻酔薬を作用させて、その神経の支配領域の麻酔を得る方法であるが、薬の注入する部位によって、次のように分かれる。
[山村秀夫・山田芳嗣]
くも膜下腔(くう)に局所麻酔薬を注入して下半身を麻酔する方法である。正式には脊髄(せきずい)くも膜下麻酔とよばれる。脊髄は軟膜、くも膜、硬膜の順で覆われており、軟膜とくも膜との間がくも膜下腔である。脊椎(せきつい)麻酔は下腹部や下肢の手術の麻酔に用いられるが、筋の弛緩、無痛、腸の収縮などが得られる。一方、血圧下降、悪心、嘔吐、麻酔後の頭痛などがおこるのが欠点とされている。
[山村秀夫・山田芳嗣]
硬膜外腔に局所麻酔薬を注入し、ここで脊髄に出入りする神経を麻酔する方法で、頸部(けいぶ)から下のどの部位も分節的に麻酔することができる。一般の手術の麻酔のほか、ペインクリニックでも広く用いられる。
[山村秀夫・山田芳嗣]
神経幹に局所麻酔薬を注入して、ここで神経の伝達を遮断するもので、その神経の支配部位の麻酔が得られる。神経ブロックは、手術時の麻酔よりはむしろ神経痛その他の慢性痛の治療に広く利用されている。
[山村秀夫・山田芳嗣]
直接、皮膚切開を加える部位に局所麻酔薬を注入する方法である。
[山村秀夫・山田芳嗣]
麻酔中におこる事故としてはいろいろのものがあるが、そのおもなものは次のとおりである。
(1)呼吸系に関するものでは、気道の閉塞(へいそく)、呼吸抑制による酸素欠乏、炭酸ガス蓄積、術後の無呼吸、肺炎、無気肺(肺拡張不全)などのほか、気管内チューブの使用に伴う喉頭(こうとう)炎、嗄声(させい)(声がかれる)などがある。
(2)循環系に関するものでは、心停止、不整脈、徐脈、頻脈、高血圧、血圧下降などがある。さらに出血によるショックや輸血による副作用、心不全や大量輸液でおこる肺水腫(すいしゅ)などもあげられる。
(3)呼吸系、循環系以外のものとしては、術後の乏尿、無尿、嘔吐、術中の不自然な体位によって生じる四肢の神経麻痺(まひ)、高齢者にみられる術後の一過性の精神障害などがあげられる。悪性高熱症はきわめてまれであるが、もっとも危険な合併症の一つで、麻酔開始後、急激な体温上昇がおき、かつては死亡することも多かったが近年では救命率が向上している。この原因は、患者の筋肉の異常と考えられており、同系家族的に発生することが多い。また、エーテルやシクロプロパンといった引火性の吸入麻酔薬を用いているときは、静電気による引火爆発の危険性があったが、今日ではこのような引火性のある薬はほとんど用いられなくなっているので、とくに配慮する必要はなくなっている。
[山村秀夫・山田芳嗣]
薬の作用により体の一部あるいは全身の知覚と運動機能を一時的に消失させ,手術のような体に侵害を加える際の痛みや精神的苦痛を取り除くことをいう。薬の作用が局所に限られるものを局所麻酔と呼び,全身的に作用するものを全身麻酔と呼ぶ。全身麻酔は通常意識消失を伴う。麻酔作用を有する薬を麻酔薬anestheticsと呼ぶが,通常,単に麻酔薬といえば全身麻酔薬をさし,局所麻酔薬とは区別されている。麻酔の目的は痛みを取り除くことのほかに,手術の侵害により起こる患者の反応を調節するとともに,手術が安全に行われるように管理することである。
創傷や骨折などの外傷の治療や腫瘍の摘出など,手術を中心とした外科的療法は古くから行われていた。前18世紀のハンムラピ法典に,すでに外科的治療の記載がみられる。しかし,これら手術に際して痛みを和らげる方法は限られていた。古代ローマ時代の記録によれば,痛みを和らげるためにケシ,マンドラゴラ,ブドウ酒を服用させたり,局所の機械的圧迫や刺激などの方法がとられている。麻酔法が急速に発展したのは19世紀に入ってからであった。1799年デービーHumphry Davy(1778-1829)は笑気(一酸化二窒素N2O)吸入の麻酔作用を発見,ロングCrawford Williamson Long(1815-78)は1842年エーテル麻酔で頸部腫瘍摘出術を行った。歯科医W.T.G.モートンは46年10月16日マサチューセッツ総合病院臨床講堂でエーテル麻酔を供覧した。モートンが麻酔の父と呼ばれるゆえんである。日本では1804年10月13日華岡青洲が通仙散(麻沸湯)を用いて全身麻酔下で乳癌の手術に成功した。これらが全身麻酔下で行われた手術の初めである。日本にエーテルが導入されたのは55年(安政2),クロロホルムが初めて用いられたのは61年(文久1)といわれる。
一方,局所麻酔はコーラーKarl Koller(1857-1944)が1884年眼科手術にコカインを用いたのが初例である。現代の麻酔は第2次大戦を契機にさらに進歩した。無菌法や輸血・輸液療法の確立,抗生物質の発見とともに,麻酔法の発達が近代外科学の発展に果たした役割はきわめて大きい。日本では1952年東京大学に初めて麻酔科が設立され,山村秀夫が初代教授となった。今日では,麻酔科は病院において独立した診療科となっている。
投与した全身麻酔薬が血流によって中枢神経に分布し,知覚の麻痺,意識の消失,自発運動機能と反射の抑制を起こす。これらの徴候は使用する麻酔薬の種類,濃度などにより程度の差が生じ,浅い麻酔では抑制と興奮が混在することがある。全身麻酔は麻酔薬の投与方法により吸入麻酔と静脈麻酔に分けることができる。
笑気のようなガス麻酔薬,ハロタンなどのような揮発性麻酔薬を吸入させて全身麻酔を起こす方法である。麻酔薬は肺から摂取され血液に溶解し中枢神経にも分布する。麻酔の深さは麻酔薬の血中濃度に支配されるが,吸入麻酔薬は肺から排出される。吸気中麻酔薬濃度を調節すれば麻酔の深さを自由に調節することができる。
吸入麻酔には,生命維持に必要な酸素と麻酔薬の濃度を正確に規定,調節するために,酸素,笑気の流量計,揮発性麻酔薬の気化装置,麻酔ガスを吸入させる回路などを備えた麻酔器を用いる。麻酔ガス,気化した揮発性麻酔薬と酸素の混合ガスは吸気側の呼吸回路から,マスクや気管内チューブを介して患者の肺に送られる。呼気は呼気回路に流れ,回路中の炭酸ガス吸収装置(ソーダライム)を通過し,炭酸ガスが取り除かれ,新鮮なガスと混合して再び吸気ガスとして吸気側から肺に送られる。このように,吸気回路と呼気回路を備え,ガスが呼吸回路を循環するものを循環回路と呼ぶ。一般に用いられている麻酔器は循環回路を備えている。
麻酔薬を静脈内に注射することによって行う全身麻酔法。麻酔薬は血流を介して中枢神経に分布し麻酔状態となる。麻酔の深さは脳内の麻酔薬の濃度による。しばらくすると血流中の麻酔薬は臓器に移行し,血液中の濃度が低下し覚醒する。静脈麻酔は吸入麻酔の導入,補助,中枢神経抑制,鎮静などの目的で用いられる。呼吸,循環の抑制作用があるので,通常は単独では用いない。
執筆者:田中 亮
通常,次の3種に分類される。(1)吸入麻酔薬 吸気に混入して吸入させるガスまたは揮発性薬物。(2)静脈麻酔薬 静脈内注射により麻酔する薬物。吸入麻酔薬に比べ麻酔程度の調節が困難である。(3)直腸麻酔薬 直腸粘膜からの吸収による麻酔。トリブロムエタノールがこの用途に用いられる。
麻酔薬により麻酔が進行する過程は大きく4段階に分けられる。第Ⅰ期(誘導期)は意識はまだ明りょうであるが痛覚は鈍麻し,眠く,めまいを感ずる。第Ⅱ期(発揚期)は意識が混濁し,自制心が消失して見かけ上興奮しているように見える段階。第Ⅲ期(手術期)はさらに麻酔が進み,発揚が消失。反射機能が低下して骨格筋は弛緩し,手術に好適な時期。第Ⅳ期(延髄麻痺期)は麻酔が延髄に及んで呼吸中枢,血管運動中枢などが侵され,生命が危険になる状態。これら各段階の続く時間は薬物の特性と用量によって異なる。
全身麻酔薬の望ましい条件として次のような事項があげられている。(1)発揚期がなく,誘導期の副作用が少なく,手術期に早く入ること。(2)循環器,呼吸器系に影響がなく,肝臓や腎臓機能に毒性がないこと。(3)麻酔後,速やかに覚醒して不快感を残さないこと。(4)ガスおよび揮発性液体の場合は引火性や爆発性のないこと。これらの条件はエーテルやクロロホルムの欠点を示しており,ハロタンなど最近の薬物はこの条件を十分考慮して開発されている。
麻酔薬によって中枢神経系の活動が抑制されるメカニズムはいまだ十分には解明されていないが,これに関する学説はいろいろ提出されている。これらは次の3種に大別できる。(1)物理化学的学説 神経を構成する成分の脂質と水との分配係数が大きく,脂質との親和性の高い薬物ほど麻酔力が強いとする説。また,麻酔薬が中枢神経系内で水和物の微小結晶をつくり神経活動を抑制するとする説など。麻酔薬の物理化学的特性により麻酔効果を説明しようとする学説。(2)生化学的学説 脳組織でのグルコース利用に伴う酸素消費が抑制され,これに関与する酵素が麻酔薬で抑制されるとする学説など。(3)生理学的学説 大脳皮質に覚醒的な信号を送っている脳幹部位を麻酔薬が抑制するという説など。いずれも定説にはなっていない。
執筆者:渡辺 和夫
1世紀以上にわたり使用されたクロロホルム,エーテル,あるいはほぼ50年前に発見されたエチレン,トリクロロエチレン,シクロプロパンなどは麻酔作用に比べて毒性が強かったり,引火性,爆発性などの性質があるため,ほとんど用いられなくなった。今日使用されているのは次の数種類の麻酔薬に限られている。
(1)笑気(一酸化二窒素) 1844年以来今日まで麻酔薬の主役として用いられている。不活性のガスであり,生体に及ぼす影響がほとんどない。麻酔の導入,覚醒が速い,無痛効果が強い,気道粘膜の刺激性がない,引火・爆発性がないなどの利点がある。笑気は吸入麻酔薬の代表であるが,笑気ガスだけでは手術が可能な麻酔の深さに達しないことから,通常は揮発性麻酔薬あるいは鎮痛薬をあわせて補助的に投与する。
(2)ハロタン 1958年イギリスで開発された揮発性麻酔薬。気化器を用いて0.5~2.5%の吸気濃度で麻酔を維持する。麻酔作用は強力で,気道粘膜刺激作用もなく,導入,覚醒は速い。現在,世界で最も広く用いられている揮発性麻酔薬である。ときに不整脈や術後に肝臓障害を起こす欠点がある。
→ハロタン
(3)メトキシフルレンmethoxyflurane ハロタンと前後してアメリカで開発された。揮発性麻酔薬のなかで麻酔作用は最も強力である。筋弛緩作用があり,心筋被刺激性がほとんどないなどの利点がある。麻酔導入,覚醒が遅く,代謝産物が腎臓障害を起こす欠点がある。
(4)エンフルレンenflurane 1960年代にアメリカで開発された。麻酔作用は強力で,導入,覚醒は速い。麻酔中にエピネフリンの併用が可能である。深い麻酔下の過換気で中枢神経を刺激する作用がある。
(5)イソフルレンisoflurane 1970年代にアメリカで開発された。ほかの揮発性麻酔薬の長所をすべてもっているが,麻酔後に肝臓障害が起こることがある。
(1)チオバルビツレートthiobarbiturate マロン酸とチオ尿素が結合した一群の化合物をいうが,静脈麻酔薬としては,1935年にアメリカで開発されたチオペンタールと,58年に開発されたサイアミラルthiamylalが世界的に普及している。チオペンタールの麻酔作用時間はきわめて短時間である。麻酔の導入は迅速で円滑であるため不快感はない。覚醒も速く爽快である。投与量と投与速度によって鎮静,催眠,麻酔の状態を呈するが,鎮痛作用はなく,呼吸,循環機能を抑制することが欠点である。
→チオペンタール
(2)ケタミンketamine 1958年アメリカで開発された。体表痛に対して強い鎮痛作用を有し,中枢神経には特異的に作用する静脈麻酔薬である。中枢神経の一部は抑制,一部は賦活されることから解離性麻酔薬と呼ばれている。
なお,神経遮断薬と鎮痛薬を静脈内注射すると,意識は保たれるが周囲に無関心な鎮静状態,無痛状態となり,手術が可能な状態となる。このような方法をニューロレプトアナルゲシアneuroleptanalgesia(NLAと略記)という。循環が安定するが呼吸抑制は著しい。
局所麻酔薬を投与した部位の神経繊維に達し,刺激伝導を抑制遮断することによって,局所の知覚の麻痺を起こす方法。局所麻酔の種類には,(1)表面麻酔topical anesthesia,(2)粘膜表面に塗布する浸潤麻酔infiltration anesthesia,(3)狭義の局所麻酔(局所に浸潤注射する),(4)伝達麻酔conduction anesthesia(末梢神経の走行経路に局所麻酔薬を注射して神経伝達を遮断する。神経ブロックnerve blockとも呼ばれる),(5)脊椎麻酔spinal anesthesia(脊髄くも膜下腔に局所麻酔薬を注入して脊髄前根,後根を遮断する),(6)硬膜外麻酔epidural anesthesia(脊椎の硬膜外腔に局所麻酔薬を注入して脊髄前根,後根を遮断する)がある。
局所麻酔は,意識下で手術が可能であり,自発呼吸が維持されている,手術部位の確実な鎮痛が得られる,手術野の自発運動の抑制と手術侵害による自律神経反射の抑制などが利点となる。
局所麻酔は,全身麻酔が禁忌となるような重要臓器の疾患や機能障害があるとき,意識を維持したいとき,患者が承諾するときなどに行われる。
手術療法の方針が決定したときから,麻酔科では,どのような麻酔法をとるかをはじめ,手術や麻酔の安全性,危険性を評価するために,詳細な術前検査と診察を行う。合併疾患があれば治療する場合もある。手術前日,麻酔科医が診察し,麻酔の前投薬を指示する。術中は,単に麻酔によって痛みを取り除くだけではない。呼吸,循環,代謝の安定を図り,患者の安全を守ることが麻酔管理の大きな目的である。術中管理においては血圧,心拍数,心電図,体温,呼吸の状態などを常時監視しながら,適切な麻酔の深さを維持するよう麻酔薬の投与を調節し,喪失した体液を補うために輸液を行う。筋弛緩薬を併用する場合には呼吸を人工的に維持しなければならない。手術後は回復室,病室で,麻酔による合併症を防ぎ,術後の痛み対策の管理を行う。
1960年3月,麻酔科医は審査のうえ麻酔科を診療科名として標榜できることになった。麻酔科の仕事の特殊性から一定期間の訓練,経験を積んだことが審査され,厚生大臣から許可を受けるものである。62年,日本で最初に確立された専門医制度下で認定試験を行い誕生したのが,日本麻酔学会が認定する麻酔指導医である。麻酔科標榜の資格を有し,5年間麻酔に専従し,筆記試験,口頭・実技試験に合格した者がこの資格を有する。麻酔科医の業務範囲は広く,手術室での麻酔管理のほか,ペインクリニック,ICU,救急救命センターでの活躍が期待されているほか,中央手術部,輸血センターなどの病院における中央的サービス部門の管理運営を任されていることが多い。医学部での麻酔学の教育範囲も広く,麻酔薬の薬理学にとどまらず,呼吸生理,循環,神経学,蘇生学,体液管理などに及び,臨床実習でも,手術患者の管理,蘇生術,ペインクリニックにおける神経学的診断などが行われている。
執筆者:田中 亮
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…一方それまで医学において遅れていたドイツのベルリンにもCollegium medicochirurgicumが設立され,ようやく医学の一分野としての外科の立場が認められるようになった。 19世紀に入って,アメリカのロングCrawford Williamson Long(1842),ウェルズHorace Wells(1844),W.T.G.モートン(1846)やイギリスのシンプソンJames Young Simpson(1847)らによる全身麻酔法,L.パスツール(1861)の腐敗現象は空気中の微生物によるという報告に基づいたI.P.ゼンメルワイス(1847),J.リスター(1867)らによる制腐消毒法,ベルクマンErnst von Bergmann(1886)やシンメルブッシュCurt Schimmelbusch(1889)による無菌法,エスマルヒJohann Friedrich August von Esmarch(1823‐1908)による駆血帯の使用は,その後の外科手術を飛躍的に進歩させることとなった。すなわち,ランゲンベックBernhard Rudolf Conrad von Langenbeck(1810‐87)の子宮全摘出術,ティールシュCarl Thiersch(1822‐95)の植皮術,フォルクマンRichard von Volkmann(1830‐89)の直腸癌手術,ビルロートTheodor Billroth(1829‐94)の胃切除術の成功例が報告されるようになった。…
※「麻酔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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