〈関税・貿易に関する一般協定General Agreement on Tariffs and Trade〉の略称。1947年10月30日にアメリカほか23ヵ国がジュネーブで調印し,48年1月から発効した協定。93年末現在,加盟国は114ヵ国を数えたが,93年12月ウルグアイ・ラウンドの合意を受け,95年1月1日に発足したWTO(世界貿易機関)に発展改組した。
1929年のニューヨーク株式大暴落に端を発した世界的な大不況に際し,各国は高関税,輸入割当,為替切下げ等の貿易制限措置をあいついで導入した。その結果,世界貿易量は激減し,各国の長びく不況は第2次大戦の遠因ともなった。このような苦い経験をへた欧米諸国は,大戦後の国際経済体制を再建するにあたって,多角的かつ自由な貿易ルールの構築を目指した。45年にアメリカは高関税や貿易制限の撤廃を含む国際貿易憲章(ITO憲章)を提案し,48年ハバナにおいてITO憲章(ハバナ憲章とも呼ばれる)が52ヵ国によって調印され,国際貿易機構International Trade Organization(ITO)の設立が審議された。しかし,その意図があまりにも理想主義的であったため,提案国のアメリカをはじめ多くの国が批准せず,ITOの設立を断念せざるをえなかった。当時これと並行して,ジュネーブで関税交渉が行われ,そこで参加国すべてに平等かつ無差別に適用される〈関税譲許表〉ができ上がった。この関税表にITO憲章のうち各国の合意が得られた貿易政策,紛争処理手続等を加え協定としてまとめたのが〈関税・貿易に関する一般協定〉,すなわちGATTである。
GATTの目的は,〈貿易によって各国の生活水準を高め,完全雇用を実現し,世界の資源をできるだけ活用する〉ために〈関税その他の貿易障壁を取り除き,差別待遇を廃止して,自由で平等な国際貿易を促進する〉(前文)ことである。いいかえれば,GATTは,加盟国が相互に同等かつ最も優遇された条件で貿易取引を行うという無差別原則の確保と輸入制限の撤廃,関税の軽減を目的とする。そしてその背後には,各国による自由貿易の実現が比較優位による分業原理を貫徹させ,ひいては世界全体の資源の有効な活用と各国の生活水準向上をもたらすという理念がある。事実,GATTは,IMF(国際通貨基金)とともに第2次大戦後の自由経済圏の国際経済体制の主柱として,通貨・通商の安定的拡大を促し,世界経済の繁栄に大きく貢献した。
GATTは当初,ITOへと引き継がれるまでの暫定的措置として成立したため国際機構としての国際法上の根拠がやや弱く,締約国の共同行動に関する規定(25条)に基づいて活動を行っていた。このため,GATTの関税引下げや貿易自由化についてのさまざまな規定が各国に対してもつ拘束力や制裁措置は必ずしも強力ではなかった。したがってGATTの機能は,加盟国が合意した規定に基づき約束し合う契約的な性格をもつものといえる。このようなGATT機能の性格は,個別案件の事情や時代の要請によって運用のしかたが変わるという柔軟な対応を可能にするメリットがある反面,機構としてのものたりなさを指摘される原因となった。
GATTは,1993年に合意に達したウルグアイ・ラウンドまでに8回の多国間貿易交渉を行った。5回にわたる関税交渉では,まず2国間の要求品目について相互に関税を引き下げ,この譲許税率を締約国全部に適用して全体の関税障壁を漸次軽減する方法がとられた。これに対し,1964年5月から67年6月まで行われたケネディ・ラウンド交渉では,関税一括引下げ方式が採用され,鉱工業製品の関税率を5年間に50%引き下げることを目指した。アメリカのリーダーシップのもとで行われたケネディ・ラウンドは関税引下げについて大きな成果をあげ,工業製品の関税引下げ率は平均33%となった。しかし,積み残された懸案事項も多く,たとえば農産物および一次産品の問題も交渉の対象としたにもかかわらず,みるべき成果がなかった。その結果,熱帯産品問題を中心として発展途上国側の不満が高まった。また非関税障壁軽減の重要性が指摘されたにもかかわらず,交渉の成果は〈アンチ・ダンピング・コード〉の設定にとどまった。これらの諸問題を解決し,より一層の貿易自由化を促すため73年9月に東京で開催されたGATT閣僚会議では,〈東京宣言〉が発表され,東京ラウンド交渉が正式に開始された。
当初75年に交渉の終了を予定した東京ラウンドは,1973年秋の石油危機とその後の世界経済の混乱,先進諸国での深刻な不況と保護主義の台頭といったさまざまな出来事によって難航をきわめ,ようやく5年7ヵ月の長丁場のすえ79年に実質的な終結をみた。東京ラウンドの成果としては,まず関税引下げについては関税率の高いものほど大幅な引下げを行うハーモニゼーション方式がとられ,80年から8年間に基準税率比で日本が50%弱,アメリカが30%前後,ECが25%前後と引き下げられた。
次に,いままでその重要性を指摘されてきた非関税障壁についてもメスが入れられ,〈政府調達〉〈スタンダード〉〈補助金・相殺関税〉〈関税評価〉に関する国際協定が合意された。しかし特定商品の輸入急増が国内産業に大きな被害を与える場合に発動する緊急輸入制限(セーフガード規定,GATT19条)については,これを特定国について認める(選択的にする)か否かをめぐって紛糾し,ついに合意対象からはずされ,引き続き討議されることになった。
その後,86-93年にわたって〈ウルグアイ・ラウンド〉の多国間貿易交渉が行われ,これらの懸案のほか,サービス貿易や知的所有権,保護主義的傾向の強い農業分野などが取りあげられた(〈ウルグアイ・ラウンド〉の項参照)。7年余に及んで交渉は難航したが,最終合意をみたのち,94年の閣僚会議で採択された〈マラケシュ協定〉にもとづき,GATTに代わる世界貿易機関(WTO)が95年1月に発足し,より強化された機能を担うこととなった。
第2次大戦後,無差別・互恵原則のもとに自由貿易体制の維持強化という重要な役割を担ってきたGATTは,80年代以降,その理念と現実とのギャップに危機感を強めていた。まず世界的な同時不況によって欧米先進諸国では失業率が上昇し,国内産業の保護を求める声が高まった。その結果,GATTの枠外での輸入制限措置が2国間でとられるケースがふえてきた。たとえば,日米間のカラーテレビについての輸出秩序維持協定(1977)や対米自動車輸出の自主規制などがそれである。GATTがかかえるいま一つの課題は,世界の政治・経済における発展途上国の比重が高まり,発言力もますなかで南北格差の是正にGATTがどのようにかかわっていくかという点についてであった。もともと途上国側では,国際間の自由な貿易取引を促すことによって各国が比較優位をもつ商品に特化し,世界全体の資源の効率的な利用を目指すという,自由貿易の理念に対しては,比較優位を固定し先進国側に利するものであるとの不満が強い。途上国の経済発展を促すために無差別原則および相互主義に対する修正を求める動きは,しだいに強くなってきた。GATTはこれに対し,1969年11月に〈貿易と開発のための新章〉(規約第4部)を設け,途上国に対しては関心品目への貿易障壁の優先的撤廃を約束し,貿易交渉での相互主義を適用しないことを決めた。さらに71年からは途上国の輸出を促進するため特恵関税を供与することにした。こうしてGATTは,一連の無差別・相互主義の修正とともに,より広範な南北貿易拡大のための制度をつくりあげる必要に迫られた。そのためにはUNCTAD(アンクタツド)(国連貿易開発会議),OECD(経済協力開発機構)等の他の国際機関との連係と協調を密接に行っていくことが重要であった。また先進国での保護主義圧力に対処するには新しい緊急輸入制度(セーフガード・システム)の導入を含む制度的補強が急務とされた。
日本は1955年にGATTに正式に加盟した。次に63年には国際収支上の理由による輸入制限を行わない第11条国へと移行し,名実ともに自由貿易を行うことに決めた。加盟当初,イギリスなどのヨーロッパ諸国は35条を適用し,日本に対し関税上の利益を与えなかった。しかし,その後の二国間交渉の結果,現在までに適用は撤回されている。GATTを中心とする自由貿易の進展は第2次大戦後の日本経済の成長を支える重要な柱であった。したがって,日本は,GATT加盟国の主要な一員として,アメリカやEC(EU)諸国などとともにGATTの維持強化にむけて主体的な行動と応分の貢献とを行うことが求められてきた。
→関税 →貿易自由化
執筆者:香田 忠維+佐々波 楊子+古賀 洋
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正称は関税および貿易に関する一般協定(General Agreement on Tariffs and Trade)。国際機構の名称でもある。1947年,国際貿易機関(ITO)の予備憲章起草を意図するジュネーブでの国際貿易雇用会議で,23カ国が臨時に調印したが,ITOは成立せず,GATTが自由・互恵主義による貿易拡大をはかるための国際機関として発展。締約国団会議と理事会をもち,事務局はジュネーブ。日本は52年(昭和27)に仮加入,55年に正式加入。関税引下げ・非関税障壁軽減の交渉として,ケネディラウンド(64~67年),東京ラウンド(73~79年),ウルグアイラウンド(86~94)がある。95年解消し,新たにWTO(世界貿易機関)がスタートした。
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(永田雅啓 埼玉大学教授 / 松尾寛 (株)三井物産戦略研究所副所長 / 2007年)
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…同大戦が終りに近づくにつれて,ブロック経済体制と高関税・輸入制限政策が深く反省され,国際協調のもとに世界経済を立て直そうとする体制づくりが模索されはじめる。その第一歩が,国際金融面でのブレトン・ウッズ協定(1944)であり,通商面での〈関税・貿易に関する一般協定〉(GATT(ガツト))である。45年,アメリカによって提案された新しい国際貿易機構International Trade Organization(ITO)を設立するための〈国際貿易憲章〉(ITO憲章,ハバナ憲章)が48年に調印された。…
…同大戦が終りに近づくにつれて,ブロック経済体制と高関税・輸入制限政策が深く反省され,国際協調のもとに世界経済を立て直そうとする体制づくりが模索されはじめる。その第一歩が,国際金融面でのブレトン・ウッズ協定(1944)であり,通商面での〈関税・貿易に関する一般協定〉(GATT(ガツト))である。45年,アメリカによって提案された新しい国際貿易機構International Trade Organization(ITO)を設立するための〈国際貿易憲章〉(ITO憲章,ハバナ憲章)が48年に調印された。…
…報告はこの会議をリードするガイド・ラインとなったが,この報告書の意義は,既存の国際経済秩序においては不利な立場にたつ発展途上国の立場から,これに実質的な経済的平等と互恵をもたらすように国際貿易の理念や政策を改めることを具体的に提案した点に求められる。
[内容]
この報告書で,プレビッシュは自由・多角・無差別貿易を基本的な理念とするGATT(ガツト)体制を,先進国にとっては有利であるが南北問題の解決にとっては必ずしも望ましくないという観点から厳しく批判している。彼によれば,GATTの精神に基づく貿易原則は,国際経済社会が均質的な国々から構成されているという非現実的な仮定に立ち,発展途上国をも含めた世界経済の運営を市場メカニズムにゆだねようとするものである。…
…またラテン・アメリカ諸国はこの時期に輸入代替的工業化に着手している。 第2次大戦終了を機にIMF(国際通貨基金),GATT(ガツト)(関税・貿易に関する一般協定),世界銀行(国際復興開発銀行)を3本柱とするブレトン・ウッズ体制が成立した。初期にはそれぞれ十分な機能を果たせず,アメリカの強いドル,片務的な自由貿易促進,巨額の援助によってそれぞれが補われたが,西ヨーロッパの復興が成り,いろいろな統制が撤廃され,貿易や為替の自由化が進んでくると,この体制のもとで世界貿易は第2の拡大期を経験した。…
※「GATT」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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