デジタル大辞泉 「秋田市」の意味・読み・例文・類語
あきた‐し【秋田市】
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北は南秋田郡、東は北秋田郡と河辺郡、南は由利郡と接する。南北に連なる出羽山地・秋田平野・秋田砂丘が東から西に並び、その西は日本海。出羽山地は中山性山地で、秋田市東部にはひときわ目立つ
秋田市は出羽山地を横断し、秋田平野を南東から北西に貫流する雄物川を動脈とし、その上流部の
秋田の地名の初見は「日本書紀」斉明天皇四年四月に阿倍比羅夫水軍の東征に関し「齶田」とあり、置於秋田村高清水岡
」とある。
考古遺跡は東部の河成段丘の台地と西部砂丘上に分布する。主として縄文期の遺跡で、南から北へ遺跡名と所在地を記すと、
大和朝廷の勢力が波及してきたのは七世紀半ばで、「日本書紀」斉明天皇四年四月に「阿陪臣船師一百八十艘
、伐
蝦夷
、齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞
降、於是、勒
軍、陳
船於齶田浦
、齶田蝦夷恩荷、進而誓曰、不
為
官軍
故持
弓矢
但奴等、性食
肉故持、若為
官軍
、以儲
弓矢
、齶田浦神知矣、将
清白心
、仕
官朝
矣、仍授
恩荷
、以
小乙上
」とあるが、齶田は秋田で、齶田浦は秋田湾といわれる。とすれば恩荷は秋田地方を支配した族長であり、齶田浦の神は海神で、現地人が信仰し、恩荷の祀る神と思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報