軍事技術(読み)ぐんじぎじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「軍事技術」の意味・わかりやすい解説

軍事技術
ぐんじぎじゅつ

軍の攻撃、防御力を高めるための技術。つねに軍備競争(軍拡競争)の背後にあって軍備競争を激化させ、あるいは戦争の原因になり、戦争の性格を基本的に変えてきた。とくに第二次世界大戦後の冷戦期には米ソを中心に核の優位を求めて軍事技術競争が過熱し、軍事技術の研究開発が世界の研究開発費のおよそ40%を占め、科学技術者の約25%を吸収し、研究開発自体が大国の覇権争いの重要な手段になった。だが核ミサイルを中心にした軍事技術の開発競争は世界の安全保障を高めるどころか、逆に戦争の危険を高め、世界を容易に破滅に導きうることが明らかになった。軍事技術開発は冷戦終結後も続き、電子技術の導入で兵器システムの精密化、高精度化が著しい。近年では電子技術の発達で戦争のデジタル化が進み、コンピュータや各種のセンサー類が兵器、航空機、艦船のコストのほぼ半分を占めるようになった。電子化した戦争は信じられないほど迅速に戦われ、しかも破壊力が大きく、ハイパーウォーなどとよばれている。

[高榎 堯]

初期の軍事技術

古くから各種の石器や刀剣、槍(やり)、斧(おの)があり、飛び道具(ミサイル)として投げ槍や弓矢、弩弓(どきゅう)、投石器などがつくられ、中世には多数の城郭が築かれた。14世紀までにはヨーロッパでも火薬が知られ、それが中世の重要な技術革新である鋳造技術と結び付いて大砲や銃がつくられるようになり、大砲は1415年にイギリスで初めて城壁を攻撃するのに使われたが、兵器や戦争の仕方は長い間、基本的にはあまり変化しなかった。

[高榎 堯]

火砲の発達

変化が現れ始めたのはナポレオン戦争(1799~1815)で火砲が威力を発揮してからで、とくに1870年の普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)でクルップの鋼鉄製の大砲(クルップ砲)が成功を収めてから軍備に革命が起こり、火砲の命中精度、射程、砲弾の威力を競う競争が始まった。1880年代には高性能火薬が導入され、機関銃も現れた。火砲はその後、無反動化などによって軽量化され、重砲の射程は20世紀の初めごろには20~30キロメートルに達した。日本では1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に火縄銃が伝わり、戦国時代後半の戦いに使われた。

 海上では14~15世紀までの人力による船やその後の航洋帆船にかわって19世紀に汽船が現れ、砲や造船技術の発達で近代的な軍艦が登場し、1880年代のなかばには海軍力の競争が激化し、軍艦の数や大きさ、速度、砲の口径や射程が競われた。日露戦争(1904~1905)では日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破した。

[高榎 堯]

第一次世界大戦

1914年(大正3)に第一次世界大戦が始まる前に、世界の海ではすでにイギリスのドレッドノートなどの弩(ど)級戦艦(ド級艦)が覇を競い、潜水艦も登場していた。この大戦で兵器競争がさらに激化し、航空機による地上戦闘の援護や初歩的な爆撃が始まり、西部戦線で初めて戦車が使われ、火炎放射機も登場した。この大戦はまた「化学者の戦争」とよばれ、イープルの戦線を皮切りにイペリットマスタード)やフォスゲンなど12万5000トン以上の毒ガス(化学兵器)が使われて、130万人もの死傷者を出した。毒ガスは大戦後、1925年のジュネーブ議定書で使用が禁止され、1922年のワシントン条約では主力艦、空母、潜水艦の量や砲などが制限されたが、軍備競争はその後も続き、主力艦にかわって巡洋艦や駆逐艦が強化された。陸では戦車が大型化し、空では航空機が速度、航続距離、積載量を増し、攻撃力や防御力を強めた。

[高榎 堯]

第二次世界大戦

1939年(昭和14)からの第二次世界大戦はヒトラーの電撃戦にみられたように、第一次世界大戦以来の兵器、つまり戦車や航空機を大量に投入して開始された。連合軍はヒトラーの爆撃に対する報復として戦略爆撃機による戦略爆撃を開始し、都市に対して大量の焼夷(しょうい)弾や重さ10トンという大型爆弾を使用し、非戦闘員を戦闘から除外するというそれまでの戦時国際法の原則が崩壊した。使用された爆弾の総量はTNT(トリニトロトルエン)火薬に換算して約200 万トン=2メガトンとされ、日本への空襲では主として焼夷弾約16万トンが投下され、約65都市の家屋の40%以上が焼失した。この大戦ではまた科学者が大規模に動員され、レーダーや潜水艦を探知するソナーなどの電子・音響兵器、磁気機雷、ロケット、誘導弾が使われるようになり、弾道計算用に真空管式の電子計算機がつくられた。アメリカは極秘裡(ごくひり)に原爆製造の「マンハッタン計画」を推進し、1945年7月にニューメキシコ州アラモゴードの原野で初の核実験を行い、8月6、9日には広島、長崎に初めて原爆が投下された。日本はこの戦争で零戦(れいせん)(零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦)などを投入したが、46センチ砲を搭載した大和(やまと)、武蔵(むさし)などの巨大戦艦は連合軍側の空軍力の比重が高まるなかで、なすすべもなかった。大戦ではまた50万トンもの化学兵器が蓄積され、ドイツでサリンなどの神経ガスも開発されたが、戦闘にはほとんど使われなかった。これは化学兵器の使用がやっかいで、気象条件に左右され、使用の効果に確信がもてず、何よりも使用に対して心理的抑制が働いたためと考えられている。だが大戦中にドイツが開発し、ロンドン攻撃に使用した無人機のV1号やロケット兵器のV2号はその後、核爆弾と結び付いて大量破壊兵器時代の幕を開くことになった。

[高榎 堯]

大量破壊兵器の登場

続く東西の冷戦ではまずアメリカが、原爆を搭載した多数の戦略爆撃機を配備して、ソ連を包囲する態勢を築いた。1950年代に入って太平洋のエニウェトク環礁でテストされた10メガトンの熱核装置(水爆)は巨大で、とても兵器とよべるものではなかったが、急速に小型軽量化が進み、1957年にはソ連が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射に成功し、人工衛星を打ち上げて核軍備競争がさらに激化し、原潜には水中発射の弾道ミサイル(SLBM=潜水艦発射弾道ミサイル)が搭載され始めた。ソ連は1961年に北極海のノバヤ・ゼムリャ島上空で史上最大のおよそ56~60メガトンの熱核装置を爆発させたが、新型の核弾頭を開発したり、既存の弾頭の性能を確認するための五つの核保有国による核実験は、1996年9月に国連で包括的核実験禁止条約(CTBT)が採択されるまでに2000回を超え、蓄積された核爆弾の総量は1980年の国連事務総長の報告では、広島型原爆約100万個分に達した。ここで見落としてならないのは、1950年代のなかばから原子砲や爆弾、各種のミサイル用として、比較的小型の戦術核兵器が開発され、ヨーロッパやアジア、艦船に大量に配備されたことである。のちに戦車のなかの兵員だけを殺傷する中性子爆弾(放射線強化爆弾)も登場するが、当時はそれらの核兵器の使用がいかに限定されたものであっても、それが全面的な核戦争にエスカレートしうる危険性が十分に考慮されていなかった。他方、1960年代からのベトナム戦争では700万トンもの爆弾と並んで枯れ葉剤が大量に使用された。爆発時に2種の非致死性の成分を混合して毒性をもたせるバイナリー(二元)型の化学兵器も開発され、何万トンものサリンやVXなどの神経ガスが報復用として、砲弾などの形でヨーロッパなどに配備された。

[高榎 堯]

MIRV

1970年には弾道ミサイルの誘導技術が進歩して、ICBMのCEP(セップ)(Circular Error Probable=弾頭の半数が命中する区域の半径、半数必中界)が200メートル以下になり、ミサイルの命中精度の向上とともに弾頭が相対的に小型化し、核弾頭のMIRV(マーブ)(Multiple Independently targetable Re-entry Vehicle=個別誘導複数目標弾頭)化が始まり、核軍備競争が新たな危険水域に入り始めた。MIRVは弾頭を最大十数個に分けて目標に向けて個別に誘導するもので(アメリカのミニットマンICBMの場合は170キロトンまたは335キロトン弾頭3個を搭載している)、当時配備され始めていたABM(弾道弾迎撃ミサイル)網を突破することを目ざしたが、MIRVによって堅固な地下のサイロのミサイルや、戦闘に重要なC3I(Command, Control, Communication and Intelligence=指揮・管制・通信および情報、その後Computerを加えてC4Iとよばれるようになった)システムを攻撃できるようになり、核兵器はそれまでの抑止の役割を超えて、核戦争を戦えるものに姿を変え始めた。先制第一撃によるこの戦略はカウンター・フォース(対軍事力)戦略やウォー・ファイティング戦略などとよばれ、冷戦末期にヨーロッパにアメリカのパーシング巡航ミサイル、ソ連のSS-20などの高命中精度の中距離ミサイルが配備されたこともあって、戦略環境が著しく不安定化した。前世紀末の火砲の技術革新からMIRVの登場に至るまでおよそ100年にわたって絶え間なく続いた軍事技術開発競争は、このようにして安全を保障するというより人類の生存そのものを脅かすに至り、1980年代前半に世界的に未曽有(みぞう)の反核の波を高めた。

[高榎 堯]

SDI

そのなかでアメリカは1983年にSDI(戦略防衛構想)を打ち出した。宇宙では早くから各種の偵察衛星や軍事通信衛星、ミサイルの発射を探知する早期警戒衛星などが実用化されていたが、SDIは宇宙空間に早期警戒衛星やレーザー砲や電磁砲などを配置して、相手のミサイルの上昇中やMIRVを切り離す前、目標突入前の最終段階に分けてミサイルを迎撃しようとするもので、「スターウォーズ」などとよばれた。だがこれに対しては、ただちにおとり弾頭など多くの対抗手段が考えられ、他方では航空機から発射して赤外線などで相手の各種の軍事衛星を追尾し、衝突して破壊するASAT(エーサット)(衛星攻撃兵器)もテストされ、不安定化していた戦略環境をさらに不安定化させる危険が生じた。SDIは結局、迎撃の精度の問題や膨大な建設費、無数の弾頭を迎撃するためのコンピュータのソフトウェアづくりなどの技術的困難や冷戦の終結で棚上げになったが、ミサイル迎撃の構想はその後、TMD(戦域ミサイル防衛)構想を経て、2001年弾道ミサイル防衛(BMD。単にMDともいう)に受け継がれた。

[高榎 堯]

大量破壊兵器の削減

世界的に反核のうねりが高まるなかで、ソ連が核軍備競争の危険を認め、相手の安全に配慮することが自らの安全を高めるという「共通の安全保障」という考え方を受け入れたことで冷戦が終結に向かい、1987年には中距離核戦力(INF)全廃条約が結ばれて、中距離核ミサイルが双方の兵器庫から姿を消した。アメリカはINF条約発効後も国外に配備していた地上発射や海軍用の戦術核兵器の大部分を1992年ごろまでに撤去し、ロシアも同じころまでに戦術核を撤去した。アメリカとロシアは1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START-Ⅰ)を結んで過剰な核弾頭の解体に着手し、1993年1月には第二次戦略兵器削減条約(START-Ⅱ)に調印して戦略核弾頭を2003年までにそれぞれ3000~3500個に削減し、MIRV搭載のICBMを全廃することを決めた。1996年9月には包括的核実験禁止条約(CTBT)が採択されて新型弾頭の開発にほぼ終止符を打ったが、核保有国はなお核兵器が抑止に必要だとし、アメリカは新たに地下の軍事施設を攻撃できる地下浸透型の核弾頭を開発し、CTBT採択後も核爆発の直前でとどめる臨界前核実験を行った。核爆弾の解体はプルトニウムの安全な保管や処分、費用(とくにロシアの場合)などでかなりの困難を伴う。核廃絶への道はなお遠いが、1996年7月には国際司法裁判所が核兵器の使用は「国際法や人道に関する諸原則や法規に一般的に反する」という重要な勧告的意見を示して注目された。

[高榎 堯]

化学兵器の廃棄

1993年1月に化学兵器禁止条約が結ばれ、1997年4月に発効して、あらゆる種類の化学兵器の開発、生産、保有、使用が禁止され、疑いのある産業施設に対して抜き打ち査察を行って、10年以内に化学兵器の全廃を目ざすことになった。その背後には化学兵器が核兵器よりも生産しやすく、「貧者の核兵器」として一部の国に拡散するという懸念があった。日本はこの条約のもとで、日中戦争時に旧日本軍が中国に遺棄した大量の毒ガス弾を処理する義務を負うことになったが、焼却などによる廃棄はなお技術的に困難で、ヨーロッパでは第二次世界大戦後に海中に投棄されたガス弾がいまだに発見されたりしている。

[高榎 堯]

軍事技術の輸出規制

軍事技術の移転は冷戦の初期から微妙な問題になり、対共産圏輸出統制委員会(COCOM(ココム))を通じてソ連、東欧などへの軍事転用可能な技術の輸出が制限された。1968年には核不拡散条約(NPT)が結ばれて非核保有国への核兵器の拡散の阻止が目ざされ、1970年代にはインドの核爆発を機にロンドン・ガイドラインによる原子力機材の輸出規制が始まり、1980年代には化学兵器転用物質規制会議(オーストラリアグループ)やミサイル関連技術輸出規制(MTCR)が発足した。冷戦後はイラクなど、第三世界の一部の国への核・化学兵器など大量破壊兵器の拡散がとくに問題視され、1996年7月にCOCOMにかわる新たな管理体制としてワッセナー協約が結ばれた。だがこの規制の対象になるのはごく一部の国だけで、輸出の許可基準などにもあいまいな点が多い。輸出規制には民需に使える汎用(はんよう)の技術も含まれるが、現在では電子技術など、目的の違い以外には、軍事技術と平和目的との技術差がなくなっているという問題もある。

[高榎 堯]

ハイパーウォー

1991年の湾岸戦争はイラクの核・化学兵器能力を封じる試みでもあったが、この戦争は大量破壊兵器の陰で長く忘れられていた近代通常兵器の破壊力が新たな次元に達していることをみせつけた。軍事・戦略目標を攻撃するために巡航ミサイルのトマホークやレーザー誘導爆弾などのいわゆる「スマート兵器」が使われ、対レーダーミサイルやレーダーに探知されないステルス技術をもったF-117ステルス戦闘機が投入された。また、イラクの地対地スカッド・ミサイルを迎撃するためにペトリオット・ミサイルも使われた。9万トンに近い空爆はリストにしたがって機械的、系統的に行われた。爆弾の大部分は集束爆弾や気化爆弾など、殺傷力の高い通常爆弾だったが、この戦争はその迅速さ、集中度、正確さ、破壊力のゆえにハイパーウォーなどとよばれて、ある意味で21世紀の戦争のモデルになった。巡航ミサイルはもともとは航空機搭載の戦略兵器として開発された有翼のロボット兵器で、TERCOM(ターカム)とよばれる精密な地形照合誘導装置をもち、艦艇などから発射され、レーダーを避けて低空をジグザグ飛行して正確に目標に到達し、理論的にはCEPをゼロにする。イラク側は油田を破壊し、油田に火を放ってそれに対抗して、環境を著しく破壊した。

 湾岸戦争では人間が電子データリンクを通じてスマート兵器を操作したが、その後、巡航ミサイルや無人戦車などのロボット兵器がさらに改良されて、人間の直接の指示なしに自律的に戦闘に従事する「サイバーウォー」の実現の可能性さえ検討され始めた。軍事技術が今後そうした方向を目ざすことはほぼ確実だが、そうしたハイテク戦争にはそれなりに問題もある。ロボットや人工知能には人間的な判断能力はなく、ましてや人道の意識などはありえない。事実、湾岸戦争では多国籍軍側の少数の犠牲者のうち、多くが同士討ちによるものだったし、戦車などの装甲を貫徹するために初めて使われた劣化ウラン弾も戦争後数年たってから、のちの発癌(はつがん)の原因になりうることが確認された。湾岸戦争から帰還したアメリカ兵の間では、体の不調や記憶の喪失などを訴えるいわゆる湾岸戦争症候群が問題になった。

[高榎 堯]

『パルメ委員会報告、森治樹監訳『共通の安全保障――核軍縮への道標』(1982・日本放送出版協会)』『国連事務総長報告、服部学監訳『核兵器の包括的研究』(1982・連合出版)』『小川伸一著『「核」軍備管理・軍縮のゆくえ』(1996・芦書房)』『松村昌広著『日米同盟と軍事技術』(1999・勁草書房)』『黒沢満編著『軍縮問題入門』第2版(1999・東信堂)』『高榎堯著『現代の核兵器』(岩波新書)』『(財)史料調査会編『世界軍事情勢』各年版(原書房)』『Stokholm International Peace Research InstituteSipri Yearbook 1998 Armaments, Disarmament and International Security(1998, Oxford University Press)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「軍事技術」の意味・わかりやすい解説

軍事技術
ぐんじぎじゅつ
military technology

軍事に関する研究開発,試験,生産調達,運用に関する技術をいう。主として兵器や装備,艦船,航空機,その他の軍需品に関する工学的技術をいい,作戦研究や作戦評価などは軍事科学であって,軍事技術に含まないのが普通である。軍事技術は国家の興亡をにない,商業的採算を度外視して研究開発が行われるので,常に時代の先端をいく。かつては軍事技術が他の諸技術に応用され,日常生活の分野にまで普及し,貢献する場合も多かったが,現在では民用技術が軍事技術に応用されるケースもふえている。同時に軍事技術は,その国の一般科学技術に基盤をおき,それを離れては存在しない。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の軍事技術の言及

【技術】より

…それは戦後日本に形成されたきわめて特殊な歴史的環境の所産である。日米安全保障条約のもとで日本の軍事力が,経済力と比較にならないほど弱体でありつづけたため,軍事技術への動機づけが働かなかったのである。しかしこうした歴史的環境はきわめて不安定である。…

【工学】より

…工学は,古くは軍事技術military engineeringだけを意味した。しかし,18世紀以来,軍事以外の技術civil engineering(現在は土木工学の意味)が発展し,それ以来,工学とは,エネルギーや資源の利用を通じて便宜を得る技術一般を意味するようになった。…

※「軍事技術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android