( Hawaii ) アメリカ合衆国の州の一つ。北太平洋中央部のハワイ諸島およびミッドウェー島、ジョンストン島などからなる。州都はオアフ島のホノルル。一七七八年英国の探検家クックが到達。一八世紀末カメハメハ王朝が成立、のち共和国となったが、一八九八年米国に併合、一九五九年五〇番目の州となる。ポリネシア系の先住民は少数で、日本、フィリピンなどからの移民とその子孫が多い。常夏(とこなつ)の気候により世界的な観光地となっている。「布哇」とも書く。
やがて1820年の宣教師の来島や捕鯨船の寄港が盛んになる時代を経て、ますます西欧との接触は増加し、そのため西欧人の勢力や西欧文化の影響に悩まされるようになってくる。とりわけ19世紀なかばより盛んになるサトウキビ産業のために、土地の売買や私有を認めてしまったことは王国の崩壊を早めた。ハワイ人たちは西欧人入植者に土地を奪われ、さらにプランテーションで働くために続々と移民してくる中国人、日本人、フィリピン人などのアジア人労働者に働く場を奪われてしまい、病気やアルコール依存症のため人口も急激に減少し、ハワイ人社会は衰退の一途をたどっていった。サトウキビ業者の多くはアメリカ人で、微妙な列強間の勢力均衡によって保たれていた王国は、やがてアメリカの影響下へと傾斜を深め、さらに業者らはアメリカへの併合を推進していく。1893年には女王リリウオカラニLiliuokalani(1838―1917、在位1891~1893)が武力で退位させられ、サンフォード・ドールSanford B. Dole(1844―1926)を大統領とするハワイ共和国臨時政府が成立した。合衆国は、アメリカ・スペイン戦争(1898)を経てハワイ諸島を併合、1900年準州、1959年には50番目の州とした。かつて激減したハワイ人人口もアメリカ社会への同化を果たして回復しつつあり、今日のハワイは、白人系、日系、中国系、朝鮮系、黒人系などをも含む複合社会となっている。19世紀中葉にアメリカが建設したパール・ハーバー(真珠湾)の軍事基地は、1941年(昭和16)に日本軍の奇襲攻撃を受け、これがアメリカの太平洋戦争への参戦を導くこととなった。
日本とハワイとの関係は、漂流者などによって古くからつくられていたが、移民としてはハワイ王朝時代の1868年(明治1)153人が農業労働者として送られてから始まる。これは当時、ハワイで発展著しかったサトウキビ栽培の労働力不足にこたえるため、横浜駐在領事バン・リードEugene Van Reed(1835―1873)が斡旋(あっせん)したもので、制度上は密出国であった。正式な移民は1871年の日本ハワイ修好通商条約に基づき、1885年、政府の斡旋(あっせん)による第1回「官約移民」944人が送られたのに始まり、1894年までに26回にわたり計2万9069人が渡った。その後は、1894~1900年の民間移民会社による「私的移民時代」(入国者4万6258人)、1901~1908年の「自由移民時代」(同6万8326人)が続く。19世紀末ごろからは、ハワイ政府のアメリカへの傾斜が強まるにつれて、日本人に対する移民排斥の動きが激しくなり、1908年以降は再渡航と家族などの「呼び寄せ移民」以外は新規渡航が不可能となった。移民者たちは当初、出稼ぎ農園労働者として低賃金で酷使され、悲惨な状態も相次いだが、なかには技術者や商業者としてハワイ社会に根を下ろす者も出てきた。1908年に排日移民法が成立し、アメリカ本土への転航も禁じられると、ハワイ在住者たちは帰国するかハワイへ永住するかの選択を迫られることになった。このころから日本人のハワイ「永住土着時代」が始まる。日米関係が悪化するにつれて、アメリカ社会に溶け込もうとする日系人にとっては苦しい時代となり、第二次世界大戦が始まると収容所に送られた者も数百人に達した。アメリカに忠誠を尽くそうとする日系二世は進んで兵役を志願し、全員日系人で組織された第100歩兵大隊、第442部隊も編成された。この部隊はフランス・イタリア戦線に送られ、最前線で勇敢に戦い、多くの犠牲者を出したが、アメリカ国民として信頼を得ることができた。生き残りのなかには復員兵援護法の適用を受けて大学に学んだ者も多く、この人たちが、今日のハワイ社会で日系人が公職などで多数重要な地位を占める基礎を築いた。ハワイ州選出の連邦上院議員の定数は2名であるが、日系人が多く選出されている。日系二世のダニエル・イノウエDaniel Ken "Dan" Inouye(1924―2012)は第442部隊に属してイタリア戦線で片腕を失い、戦後ハワイ大学、ジョージ・ワシントン大学に学び、1962年の初当選以降死去まで連邦上院議員を務めた。同じくハワイ州選出の上院議員であったスパーク・マツナガSpark M. Matsunaga(1916―1990)も同法の援助を受けてハーバード大学に学び、1975年に当選した。日本生まれの日系アメリカ人のメイジー・ケイコ・ヒロノMazie Keiko Hirono(1947― )は、ハワイ州副知事、連邦下院議員を務めたあと、2013年からアジア系女性初の連邦上院議員となっている。また、ジョージ・アリヨシGeorge R. Ariyoshi(1926― )は、1975年にアジア系アメリカ人として初めて州知事となり3期務めた。州司法長官も日系人であり、州議会の過半数が日系人で占められ、州立学校の教師の大半も日系人である。パール・ハーバー攻撃で苦境にたたされた日系人は、その後30年でハワイ社会に確固たる地位を築いたが、今日ではこれが他民族の反発を買うほどで、新しい人種問題とさえいわれている。