フェルディナント1世(読み)フェルディナントいっせい(英語表記)Ferdinand I

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェルディナント1世」の意味・わかりやすい解説

フェルディナント1世
フェルディナントいっせい
Ferdinand I

[生]1503.3.10. アルカラデエナレス
[没]1564.7.25. ウィーン
ボヘミア,ハンガリー王 (在位 1526~64) ,神聖ローマ皇帝 (在位 58~64) 。ハプスブルク家の出で,カルル5世の弟。 1526年婚姻関係を通じて,ボヘミアとハンガリー王位を獲得。ボヘミアでは,侵入するトルコ軍に備え,また君主政の強化に努めた。しかし,ルター派の闘争に巻込まれ,宗教問題を起して,反乱を招き,47年には武力プラハ占領イエズス会秩序をボヘミアに持込んで,貴族と騎士をカトリックに改宗させようと試みた。 58年兄帝から正式に皇帝位を譲られたが,カルル5世がほとんどドイツに滞在しなかったため,実質的にはフェルディナントがドイツの王権を行使していた。 55年のアウクスブルクの和議は主として彼の努力の成果である。即位後領内カトリック勢力の回復に努める一方,プロテスタント諸侯との和解が政治的に必要なことをも感じて,アウクスブルク和議留保条項があったにもかかわらず,旧カトリック司教職をプロテスタントが管理することを許した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「フェルディナント1世」の解説

フェルディナント1世(フェルディナントいっせい)
Ferdinand Ⅰ

1861~1948(在位1908~18)

ブルガリアの公(在位1887~1908),国王ザクセン・コーブルク・ゴータ家出身。1887年ブルガリア公に選ばれ,94年スタンボロフ首相の解任後,既成政党軍部との結びつきを強めしだいに実権を掌握し,1908年オスマン帝国内の混乱に乗じブルガリアの独立を宣言,「ツァール」を名乗った。最高司令官として指揮にあたったバルカン戦争,第一次世界大戦に敗北。大戦末期の兵士反乱の圧力のもと,連合国の意向を受け,18年10月長子ボリス3世に王位を譲り,国外退去した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「フェルディナント1世」の解説

フェルディナント1世

生年月日:1503年3月10日
ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位1558〜64)
1564年没

フェルディナント1世

生年月日:1861年2月26日
ブルガリア王(在位1908〜18)
1948年没

フェルディナント1世

生年月日:1865年8月24日
ルーマニア王(在位1914〜27)
1927年没

フェルディナント1世

生年月日:1793年4月19日
オーストリア皇帝(在位3〜48)
1875年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android